聖書のみことば
2020年3月
  3月1日 3月8日 3月15日 3月22日 3月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月8日主日礼拝音声

 満ちあふれる恵み
2020年3月第2主日礼拝 3月8日 
 
宍戸尚子牧師(文責/聴者)

聖書/コリントの信徒への手紙二 第9章6〜15節

9章<6節>つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。<7節>各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。<8節>神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。<9節>「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。<10節>種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。<11節>あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。<12節>なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。<13節>この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。<14節>更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。<15節>言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。

 ただいま、コリントの信徒への手紙二9章の6節から16節をご一緒にお聞きしました。6節に「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」とあります。種蒔の譬えを用いてパウロが語ろうとしていますのは、献金・献げ物のことです。8章から9章の終わりまで2章にわたって、「エルサレム教会の貧しさを覚える兄弟姉妹、キリスト者たちへ献金をお献げするように」と、細かい配慮をもってパウロが勧めている言葉が続いています。

 6節では「惜しんでわずかしか種を蒔かない」場合と「惜しまず豊かに蒔く」場合が対比されています。けれども、普通私たちは、献げ物をしたり、自分のものを誰かに渡したりする時に、自分のものが減ってしまうと考えるのではないでしょうか。実際、与えれば少なくなるのですから、なるべく惜しんで与えようとする気持ちは分からないものではありません。コリント教会の人たちも、同じような思いになったのかもしれません。
 しかも、援助するのは自分の教会の身近な人たちというのでもなく、もちろん自分たちのルーツとなる特別な最初の教会であるエルサレム教会ですが、自分たちのものを少なくしてまでどうして献げる必要があるのかと考えたとしても、少しも不思議ではありません。
 けれども、このことは神なき世界において「与える」「与えられる」と考えるものです。神がおられるところでは、事情は異なります。私たちは主を見上げて献げるのであって、そこで「惜しまず献げる」ということができるようになります。主が私たちをご覧くださっているので、自分のものは少なくなっても他者に献げるということができるようにされています。

 主イエス・キリストご自身も「天に宝を積みなさい」とおっしゃいました。私たちの心が天に向かっている時に、普段は惜しんで少ししか献げることができない者であるのに、「惜しまず豊かに蒔く者」へと変えられて、他の人を支える人へと変えられていきます。そして、その報いは大きく刈り入れは豊かだと約束されています。
 しかもそのようにして喜んで与える人を、神は愛してくださると、7節に記されています。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」。「不承不承」と訳された語は、「嫌々ながら」という意味で、物惜しみすることの多い私たちの心をよく表す言葉のように思います。けれどもパウロは、私たちのそのような、生まれながらの心ではなく、「心に決めたとおり」に、「喜んで与える心を持つように」と勧めています。「心に決めたとおり」というのは、「選び取る」という意味の言葉です。私たちは不承不承、嫌々ながら、あるいは強制されてでもなく、「神に従って生きていく生活を自ら選び取って、与える人へと変えていただく」ということだと思います。

 そのように考えますと、献金とか献げ物というのは、信仰がなくてはできない業だと言えます。自分に痛みを感じながら、しかし主にお献げし、他者に献げていくということは、まさに信仰の出来事です。それは私たちが心に決めて選び取っていく、「神に従って生きていくのだ」と選び取っていく生活であり、そのように献げる生活へと入っていく人は、神の愛のもとに匿っていただけるのだと、ここには約束されています。隠れたことを見ておられる神は、たとえ金額は少ないように思われても、従う思いを持って献げる献げ物を大いに喜んでくださるお方であるので、私たちは、天に宝を積む生活へと押し出されていると言えます。

 それにしても、心から与える準備がなくて惜しんでしまうことの多い私たちですが、主ご自身がそういう私たちを励まし助けてくださると、8節に記されています。「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。この言葉は、私たちの現状と何とかけ離れたものでしょうか。私たちが今聞いていますのは、いつもあらゆる点ですべてのものに不足している、どんなに欠けが大きかというニュースではないでしょうか。「福音、良い知らせ」ではなく、耳にするのは「足りない」ということ、「不安だ」ということ、「疑いや恐れ」といった暗い知らせ、暗いニュースです。
 私たちは今まで共に過ごしてきましたが、それがいけないことのようになり、一緒にいること、一緒に歌うことを奪われつつあります。「あらゆる恵みを満ちあふれさせることがおできになる神がいてくださる。この方が世界を憐んでいてくださる」などということを誰が信じているでしょうか。
 けれども、この時期だからこそ、私たちは落ち着いてもう一度、神の満ちあふれる恵みについて思いを馳せ、そのことをよく考えてみなくてはならないのかもしれません。一体、この世界を覆う影のようなウイルスを経験する前と、今と、私たちの生活の何が変わったのでしょうか。確かに店頭から物が消えたり、子供たちは家にいるように強く求められ、大人もなるべく出歩かないようになりました。それでは、こうなった世界に神の恵みはないのでしょうか。あらゆる恵みを満ちあふれさせてくださる神は、ここにいらっしゃらないのでしょうか。神の恵みはあらゆるところに隙間なく行き渡っていて、その中心は十字架の主による罪の赦し、救いの出来事です。
 私たちはすべての罪を赦されて、今ここに生かされています。それはこの不安と恐れの世界においても全く変わることなく、豊かに注がれている大きな恵みです。私たちは、世界の主がどなたであるのか、明確に言い表して、洗礼を授けられた一人ひとりです。今この状況においても御言葉を信じることができるのは、キリストを救い主と信じる群れだからでしょう。良い時期も、またそうでない時期も、私たちが見上げるのは、救い主、主イエス・キリストただお一人だけです。御言葉は「完全な愛は恐れを締め出します」と語ります。キリストの十字架とご復活によって示された神の愛こそが、私たちを恐れから解放する力です。「神はあなたがたがいつも、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。
 私たちは改めて、満ちあふれる神の恵み、神の愛をいただいている私たち、群れであることを心に留めたいと思います。
 そして、心の平安を失って嘆きと恐れの中にある人たちに、私たちに神の恵みが豊かに、また十分に注がれており、神の愛はどこまでも豊かで限りがないということを、世界の主は、陰の力、悪の力ではなく、キリストただお一人であるとの信仰を確かにして、お伝えする役目も与えられているのではないでしょうか。

 さて、そのようにして献げる者とされる私たちは、自分の力でそうするのではなく、神からすべてをいただいて、その業についていくことができると記されています。10節に「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」とあります。私たちが種を撒く、すなわち献げ物をする、その元となる種を与えるのは神ご自身です。神が私たちを、種を撒く者へと変えてくださり、与える奉仕につかせてくださいます。
 さらに神は、その種を増やしてくださるとも、ここに約束されています。そして、私たちの奉仕の業が大きく成長させられることまで約束されます。神は、私たちが種を持って町へ出ていくこと、すなわち奉仕の業につく、献げる業につくことを望んでおられます。救いをいただいた私たちは、それぞれに相応しい仕方で神にお仕えする召し、使命をいただいています。自分にできる、それぞれに与えられている召しを問いつつ歩む者でありたいと願います。

 一方で、献げ物を受け取る側、エルサレム教会のこともパウロは記しています。エルサレム教会の人たちは、コリント教会の人たちから、つまり人から贈り物を受け取ることになるのですが、それによって「神に感謝するようになる」と語られます。それが11節と12節です。「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです」。献げ物を受けた人たち、エルサレム教会の聖なる者たち、キリスト者たちは、不足を埋められて生活を整えられるだけではなく、神に感謝するようになる。それだけではなく、エルサレム教会の人たちはコリント教会が献金をお献げする業に、信仰の業を見ることになると言われています。「コリント教会の人たちがキリストの福音を公に言い表している。キリストが主である。私たちの救い主である。その信仰を持って献げ物を送っている」、そこに、エルサレム教会の人たちはコリント教会の人たちの信仰を見る。だからエルサレム教会の側では、神を褒め称えるようにされると記されています。
 信仰による献げ物は神への感謝をもたらし、神への賛美をもたらすということを、献げるコリント教会も受け取るエルサレム教会も知ることとなりました。13節に「神をほめたたえます」という言葉が記されています。

 さらにまた、奉仕の業から神への祈りが生み出されると、14節に続きます。「更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」。ここにはまず、神の恵みが、献金を献げるコリント教会の上に与えられると語ります。そして、その恵みを見て、献金を受け取る側のエルサレム教会の人たちがコリント教会の人たちを慕い、また祈る者とされると記されています。つまり、献げる者とされるということが、神への感謝、賛美、そして祈りをもたらすのだということを、パウロはここで一貫して語っていきます。献げる者とされるということは、神の恵みを豊かに受けることだと考えているからです。
 そしてそれは、コリント教会がただ豊かだから献げたということではなく、キリストの福音を言い表しつつ、福音の恵みに与っているからこそ、献げる者とされたのでした。主にあって、罪の赦しをいただいたからこそ、自分たちはその救いを持って他の人たちを助ける業につく、そういう教会の姿を教えられています。受け取る側の教会も、その信仰に励まされ、神に感謝し、御業を賛美し、祈りの言葉を口にする者とされる。互いに救いを喜ぶ中で、信仰に基づいて贈り物が贈られたり、受け取られたりする、そういう最初の教会の姿を示されています。

 今日の箇所の最後の言葉は、パウロ自身の賛美の言葉で締め括られています。15節に「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」と記されています。私たちの思いを超えて、神から贈り物が授けられています。それは救いの恵み、言葉では言い尽くせない上よりの恵みです。神から来る恵みです。その恵みを豊かに受けつつ、感謝と賛美を持って、祈りを持って、新しい一週間を歩み出したいと願います。

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