2020年3月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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満ちあふれる恵み | 2020年3月第2主日礼拝 3月8日 |
宍戸尚子牧師(文責/聴者) |
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聖書/コリントの信徒への手紙二 第9章6〜15節 |
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9章<6節>つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。<7節>各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。<8節>神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。<9節>「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。<10節>種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。<11節>あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。<12節>なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。<13節>この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。<14節>更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。<15節>言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。 |
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ただいま、コリントの信徒への手紙二9章の6節から16節をご一緒にお聞きしました。6節に「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」とあります。種蒔の譬えを用いてパウロが語ろうとしていますのは、献金・献げ物のことです。8章から9章の終わりまで2章にわたって、「エルサレム教会の貧しさを覚える兄弟姉妹、キリスト者たちへ献金をお献げするように」と、細かい配慮をもってパウロが勧めている言葉が続いています。 6節では「惜しんでわずかしか種を蒔かない」場合と「惜しまず豊かに蒔く」場合が対比されています。けれども、普通私たちは、献げ物をしたり、自分のものを誰かに渡したりする時に、自分のものが減ってしまうと考えるのではないでしょうか。実際、与えれば少なくなるのですから、なるべく惜しんで与えようとする気持ちは分からないものではありません。コリント教会の人たちも、同じような思いになったのかもしれません。 主イエス・キリストご自身も「天に宝を積みなさい」とおっしゃいました。私たちの心が天に向かっている時に、普段は惜しんで少ししか献げることができない者であるのに、「惜しまず豊かに蒔く者」へと変えられて、他の人を支える人へと変えられていきます。そして、その報いは大きく刈り入れは豊かだと約束されています。 そのように考えますと、献金とか献げ物というのは、信仰がなくてはできない業だと言えます。自分に痛みを感じながら、しかし主にお献げし、他者に献げていくということは、まさに信仰の出来事です。それは私たちが心に決めて選び取っていく、「神に従って生きていくのだ」と選び取っていく生活であり、そのように献げる生活へと入っていく人は、神の愛のもとに匿っていただけるのだと、ここには約束されています。隠れたことを見ておられる神は、たとえ金額は少ないように思われても、従う思いを持って献げる献げ物を大いに喜んでくださるお方であるので、私たちは、天に宝を積む生活へと押し出されていると言えます。 それにしても、心から与える準備がなくて惜しんでしまうことの多い私たちですが、主ご自身がそういう私たちを励まし助けてくださると、8節に記されています。「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」。この言葉は、私たちの現状と何とかけ離れたものでしょうか。私たちが今聞いていますのは、いつもあらゆる点ですべてのものに不足している、どんなに欠けが大きかというニュースではないでしょうか。「福音、良い知らせ」ではなく、耳にするのは「足りない」ということ、「不安だ」ということ、「疑いや恐れ」といった暗い知らせ、暗いニュースです。 さて、そのようにして献げる者とされる私たちは、自分の力でそうするのではなく、神からすべてをいただいて、その業についていくことができると記されています。10節に「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」とあります。私たちが種を撒く、すなわち献げ物をする、その元となる種を与えるのは神ご自身です。神が私たちを、種を撒く者へと変えてくださり、与える奉仕につかせてくださいます。 一方で、献げ物を受け取る側、エルサレム教会のこともパウロは記しています。エルサレム教会の人たちは、コリント教会の人たちから、つまり人から贈り物を受け取ることになるのですが、それによって「神に感謝するようになる」と語られます。それが11節と12節です。「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです」。献げ物を受けた人たち、エルサレム教会の聖なる者たち、キリスト者たちは、不足を埋められて生活を整えられるだけではなく、神に感謝するようになる。それだけではなく、エルサレム教会の人たちはコリント教会が献金をお献げする業に、信仰の業を見ることになると言われています。「コリント教会の人たちがキリストの福音を公に言い表している。キリストが主である。私たちの救い主である。その信仰を持って献げ物を送っている」、そこに、エルサレム教会の人たちはコリント教会の人たちの信仰を見る。だからエルサレム教会の側では、神を褒め称えるようにされると記されています。 さらにまた、奉仕の業から神への祈りが生み出されると、14節に続きます。「更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」。ここにはまず、神の恵みが、献金を献げるコリント教会の上に与えられると語ります。そして、その恵みを見て、献金を受け取る側のエルサレム教会の人たちがコリント教会の人たちを慕い、また祈る者とされると記されています。つまり、献げる者とされるということが、神への感謝、賛美、そして祈りをもたらすのだということを、パウロはここで一貫して語っていきます。献げる者とされるということは、神の恵みを豊かに受けることだと考えているからです。 今日の箇所の最後の言葉は、パウロ自身の賛美の言葉で締め括られています。15節に「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」と記されています。私たちの思いを超えて、神から贈り物が授けられています。それは救いの恵み、言葉では言い尽くせない上よりの恵みです。神から来る恵みです。その恵みを豊かに受けつつ、感謝と賛美を持って、祈りを持って、新しい一週間を歩み出したいと願います。 |
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