2020年10月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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皇帝へ上訴する | 2020年10月第4主日礼拝 10月25日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/使徒言行録 第25章1〜12節 |
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<1節>フェストゥスは、総督として着任して三日たってから、カイサリアからエルサレムへ上った。<2・3節>祭司長たちやユダヤ人のおもだった人々は、パウロを訴え出て、彼をエルサレムへ送り返すよう計らっていただきたいと、フェストゥスに頼んだ。途中で殺そうと陰謀をたくらんでいたのである。<4節>ところがフェストゥスは、パウロはカイサリアで監禁されており、自分も間もなくそこへ帰るつもりであると答え、<5節>「だから、その男に不都合なところがあるというのなら、あなたたちのうちの有力者が、わたしと一緒に下って行って、告発すればよいではないか」と言った。<6節>フェストゥスは、八日か十日ほど彼らの間で過ごしてから、カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令した。<7節>パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが彼を取り囲んで、重い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することはできなかった。<8節>パウロは、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」と弁明した。<9節>しかし、フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロに言った。「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか。」<10節>パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。< 11節>もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。」<12節>そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。 |
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ただいま、使徒言行録25章1節から12節をご一緒にお聞きしました。1節に「フェストゥスは、総督として着任して三日たってから、カイサリアからエルサレムへ上った」とあります。フェストゥスという新しいユダヤの総督が着任したと言われています。前任のフェリクスはローマ皇帝に近い立場にいた兄の引き立てによって総督になった人でしたので、この世的に言えばコネや人脈で高い地位に登った人物でした。 当然のことならが、エルサレムでフェストゥスはエルサレムの指導者たちと面会します。そしてさまざまな事柄の事情を聞き、指示を出したことでしょう。その中にパウロについての案件、要求がありました。現在カイサリアのヘロデ王の官邸に監禁されているパウロの身柄をエルサレムに戻し、最高法院による裁判を開かせてほしいという要求です。けれども、最高法院の裁判を受けさせるというのは単なる口実であって、パウロがエルサレムに護送される途上を狙ってパウロを暗殺しようとする計画があったのだと、今日の箇所に記されています。2節3節「祭司長たちやユダヤ人のおもだった人々は、パウロを訴え出て、彼をエルサレムへ送り返すよう計らっていただきたいと、フェストゥスに頼んだ。途中で殺そうと陰謀をたくらんでいたのである」。 ところが、フェストゥスという新総督は前任者フェリクスとは違っていました。もし前任者がフェストゥスで、フェリクスが新総督だったならば、あるいはユダヤ人指導者たちの思い通りにパウロの身柄をエルサレムに移すということも起こったかもしれません。ところが新総督のフェストゥスという人物は、誠に自分の務めに忠実な実直な人でした。彼は、自分の判断で判決を下さなければならない囚人をカイサリアで預かっていると思っていますし、ローマ市民であるパウロの弁明を聞かないまま、他の人に裁きを任せるなどとは考えませんでした。ですからフェストゥスは、「間もなくわたしがカイサリアに戻ってその裁きをするので、その法廷で告発すれば良いだろう」と答えました。4節5節「ところがフェストゥスは、パウロはカイサリアで監禁されており、自分も間もなくそこへ帰るつもりであると答え、『だから、その男に不都合なところがあるというのなら、あなたたちのうちの有力者が、わたしと一緒に下って行って、告発すればよいではないか』と言った」。 けれども、ここにはフェリクスやフェストゥスの人柄という以上に、神のご計画が働いています。思えばパウロの命は、これまでずっと狙われ続けて来ています。パウロがコリントの町を出てエルサレムに向かおうとした時以来、ずっとパウロは命を狙われています。ユダヤ人の刺客は、ずっとパウロの側にいました。パウロは危険な目に遭いながら、大怪我もしながら、しかしその命は長らえました。そこには、パウロを守っておられる神の御手があったからです。 パウロが二度も皇帝直々の裁判に臨んだということは、偶然ではありません。パウロは甦りの主イエスからそういう務めを与えられていました。23章11節に「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」とあります。パウロはこの時、ローマで証しをするようにと、神によって人生を持ち運ばれていました。主イエスの復活を宣べ伝える、そして証しをする、それがパウロに与えられていた最大の務めです。パウロが「私は甦りの主イエスを信じている。主イエスはわたしと共におられる」と語る言葉を、裁判の席で皇帝が耳にする、そこに向かってパウロは持ち運ばれていました。 私たちキリスト者の死も、そうだと思います。私たちが死に、家族がキリスト教で葬儀をしてくれるのであれば、私たちは自分の死を通して「本当の神さまはどこにおられるのか」ということを、この地上で表すことができます。パウロは皇帝の前で、そのことを堂々と表すために持ち運ばれていました。もし途中で暗殺されていたならば、その死を気の毒がったり、悼む人はいるかもしれませんが、それでは神を証しすることにはなりません。神は、パウロがその一生を全部歩いて、その生涯で語るべき事柄を語るべき相手に全部証しさせた上で、その生涯を閉じさせてくださいました。そしてそのことのために、神はこの時、思いがけないほどに実直な人物をユダヤの総督にしておられたのでした。 フェストゥスがユダヤの主だった人たちに答えた答えは、まことに正論です。自分が預かっている囚人はローマ皇帝の命によって自分が裁かなければならないのだし、間もなく裁判を開くのだから、その席で告発すれば良ではないかと言われた言葉に、ユダヤ人たちは反対できません。ですから、カイサリアに帰るフェストゥスに皆ついて来て、裁判が開かれることになります。6節7節に「フェストゥスは、八日か十日ほど彼らの間で過ごしてから、カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令した。パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが彼を取り囲んで、重い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することはできなかった」とあります。 パウロは、訴えられたことについてすべて潔白であると主張しましたが、ユダヤ人たちは収まりませんでした。パウロを訴えたい人たちは、真実に基づいて裁判が行われることを望んでいるのではなく、是が非でもパウロを亡き者にしたい、その一心です。一方のパウロは、この機会を用いて、主イエスの復活の出来事を目の前のユダヤ人たちに、また新総督のフェストゥスに伝えようとしました。ですから、両者の論争は果てしなく続くのです。 恐らくパウロがローマ市民でなかったならば、フェストゥスは何の問題もなくパウロをエルサレムに送ったことでしょう。けれどもパウロはローマ市民なので、フェストゥスとすれば、パウロの同意を得た上で、エルサレムの最高法院でパウロの裁きを任せたいと思いました。ところがパウロは、フェストゥスの提案に同意しませんでした。 これまでパウロは、主イエスの言葉を聞いてはいても、それがどのように実現するのかは分かっていませんでした。パウロはカイサリアで2年間、総督フェリクスのもとで牢屋に閉じ込められていました。ローマに行きたいのに行けないと、ジリジリして待っていたのではないかと思われるかもしれません。けれども、パウロはそうではなかったようです。カイサリアで足止めされているような間にも、前総督フェリクスは何度も「主イエスについて聞きたい」とパウロのもとを訪れていました。ですから、パウロは主イエスの甦りのことや、また甦られた主イエスがパウロに現れてくださり絶えず支えてくださる、勇気を与えてくださり共に働いてくださることを語っていました。2年もの間、座敷牢のような場所に押し込められていても、パウロは少しも焦りませんでした。神がローマに行くようにとおっしゃるからには、きっとその道は開かれると思っていますし、今自分のやるべきことは、目の前にいる人たちに福音を伝えることだと思って、フェリクスに対して心を込めて福音を語っていました。 ローマへの道は、パウロ自身の計画ではありませんでした。本当に思いがけない仕方で、神がパウロに、この道を進むようにと道を開いてくださいました。 今私たちは、いろいろな不自由なことを感じながら生活していますが、しかし、神はこの生活を通しても、私たちが生きているこの暮らしの中に、これから先へ進んでいく道を切り開き備えてくださいます。 |
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