聖書のみことば
2020年10月
  10月4日 10月11日 10月18日 10月25日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

10月11日主日礼拝音声

 千人隊長の親切
2020年10月第2主日礼拝 10月11日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/使徒言行録 第23章12〜35節

<12節>夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた。<13節>このたくらみに加わった者は、四十人以上もいた。<14節>彼らは、祭司長たちや長老たちのところへ行って、こう言った。「わたしたちは、パウロを殺すまでは何も食べないと、固く誓いました。<15節>ですから今、パウロについてもっと詳しく調べるという口実を設けて、彼をあなたがたのところへ連れて来るように、最高法院と組んで千人隊長に願い出てください。わたしたちは、彼がここへ来る前に殺してしまう手はずを整えています。」<16節>しかし、この陰謀をパウロの姉妹の子が聞き込み、兵営の中に入って来て、パウロに知らせた。<17節>それで、パウロは百人隊長の一人を呼んで言った。「この若者を千人隊長のところへ連れて行ってください。何か知らせることがあるそうです。」<18節>そこで百人隊長は、若者を千人隊長のもとに連れて行き、こう言った。「囚人パウロがわたしを呼んで、この若者をこちらに連れて来るようにと頼みました。何か話したいことがあるそうです。」<19節>千人隊長は、若者の手を取って人のいない所へ行き、「知らせたいこととは何か」と尋ねた。<20節>若者は言った。「ユダヤ人たちは、パウロのことをもっと詳しく調べるという口実で、明日パウロを最高法院に連れて来るようにと、あなたに願い出ることに決めています。<21節>どうか、彼らの言いなりにならないでください。彼らのうち四十人以上が、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓い、陰謀をたくらんでいるのです。そして、今その手はずを整えて、御承諾を待っているのです。」<22節>そこで千人隊長は、「このことをわたしに知らせたとは、だれにも言うな」と命じて、若者を帰した。<23節>千人隊長は百人隊長二人を呼び、「今夜九時カイサリアへ出発できるように、歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名を準備せよ」と言った。<24節>また、馬を用意し、パウロを乗せて、総督フェリクスのもとへ無事に護送するように命じ、<25節>次のような内容の手紙を書いた。<26節>「クラウディウス・リシアが総督フェリクス閣下に御挨拶申し上げます。<27節>この者がユダヤ人に捕らえられ、殺されようとしていたのを、わたしは兵士たちを率いて救い出しました。ローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かったからです。<28節>そして、告発されている理由を知ろうとして、最高法院に連行しました。<29節>ところが、彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました。<30節>しかし、この者に対する陰謀があるという報告を受けましたので、直ちに閣下のもとに護送いたします。告発人たちには、この者に関する件を閣下に訴え出るようにと、命じておきました。」<31節>さて、歩兵たちは、命令どおりにパウロを引き取って、夜のうちにアンティパトリスまで連れて行き、<32節>翌日、騎兵たちに護送を任せて兵営へ戻った。<33節>騎兵たちはカイサリアに到着すると、手紙を総督に届け、パウロを引き渡した。<34節>総督は手紙を読んでから、パウロがどの州の出身であるかを尋ね、キリキア州の出身だと分かると、<35節>「お前を告発する者たちが到着してから、尋問することにする」と言った。そして、ヘロデの官邸にパウロを留置しておくように命じた。

 ただいま、使徒言行録23章12節から35節までをご一緒にお聞きしました。直前の11節と12節に「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。』夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた」とあります。
 11節に、甦りの主イエスがパウロに現れてくださり、「あなたはローマに行く。この地でもエルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、証しすることになる」と励ましてくださいました。伝道の志を与えられていながら、仲間であるユダヤ人たちに福音をうまく伝えられずに不甲斐ない思いで沈んでいたパウロにとって、この晩の主イエスの現れは慰め深い出来事でした。「主イエスがローマへとおっしゃるからには、何があってもきっとローマに持ち運ばれるに違いない。そこでも十字架と復活の主イエスの出来事を伝え、神さまが共に在してくださる救いの喜びを伝える」という思いを新たにして、パウロはこの晩、平安のうちに休息を取ることができたことでしょう。神の御業は、困難に直面するところでも弛むことなく先へ先へと持ち運ばれていきます。

 けれども、神が御業を推し進めていかれるところでは、人間的な物事の受け止め方で常に泰平で大船に乗っているかというと、そうではない場合があるようです。「神さまが共に在してくださる、そして持ち運んで行かれる」という旅路であっても、人間的には大変危険で心細く感じられてならないという場合もあります。この時のパウロはちょうどそのようでした。主イエスが現れてくださり、慰めと勇気を与えてくださったのですが、その晩が明けると、事情はむしろ悪い方へと動いているのではないかと思うことが起こりました。エルサレムに住むユダヤ人の中の激しい人たちが、必ずパウロを殺すという盟約を結びました。「夜が明けると、ユダヤ人たちは陰謀をたくらみ、パウロを殺すまでは飲み食いしないという誓いを立てた」。
 「誓いを立てた」という言葉には「アナテマ」という意味が含まれています。「アナテマ」は「呪い」を表す言葉です。もし自分たちがこの誓いを破る場合には、「わたしは神さまから見捨てられてもよい。見捨てられよ」、そういう誓いを立てたということです。ですからこの誓いは、形の上では命がけの誓いです。一方では神がパウロに現れてくださって「あなたはきっとローマへ行く。そこでもわたしのことを証しするのだ」とおっしゃって、パウロがローマに着くまで守ってくださるとおっしゃってくださったのですが、もう一つ別の場所では「きっとパウロのことを殺してやる」と言って、神にかけて誓っている人がいました。しかもその人たちは数が多く、40人以上いたと述べられています。

 けれども、このようにユダヤ人たちが誓い合っているという様子を聞いて、少し不思議だと思われる方がいらっしゃるかもしれません。結果から申しますと、この時ユダヤ人たちが立てた誓いは果たされませんでした。パウロ暗殺を企てた陰謀は失敗に終わっています。そうだとすると、ここで誓った40人以上の人たちはどうなったでしょうか。「パウロを殺すまでは飲み食いしない」という誓いですから、全員が餓死してしまったのでしょうか。そうはなりませんでした。文言通りを受け取るならば、パウロを殺せなければ飲み食いせず死んでしまうことになります。ところが、こういう誓約には抜け道があったのだと、聖書学者たちは言っています。強制的な力が働いて誓いを果たせなくなったような場合には、その誓約から解かれるという抜け道がありました。
 パウロはローマ軍の千人隊長の機転によって、身柄をカイサリアに移され、ローマ軍の駐屯地の中に匿われています。ヘロデの官邸と出てきますが、これはヘロデの建てたお城です。その中に匿われローマ軍が守っているという時点で、ローマの強制的な力が働いているわけですから、誓いは果たせないということになります。ですから、この誓いは形の上では命がけですが、実際にはさほど執念深いものではなかったようです。あくまでも自分たちの手の届く範囲で、手を下せる状況が来たら手を下す、そういう誓いでした。飲み食いしないというのは、その誓いに対する自分たちの思いの強さを表している、そういう誓いでした。
 このように気持ちが先に出てしまうような誓いを立てる場合には、得てして起こりがちなことですが、大勢の人が集まって勢い込む分、実際の計画はずさんなものになるのです。パウロの暗殺を本気で考えるのであれば、成功のためには、計画は絶対に外に漏れないようにしなければならないはずです。秘密の計画というのは、大勢の人が参加すればするほど外に漏れる危険が多くなります。今回の計画は、40人以上の人がパウロの命を奪うというのではなく、祭司長たちや最高法院の有力者たちに協力を呼びかけてパウロを裁判の席に連れ出すということでしたから、パウロに対する敵外心は盛り上がっていたことでしょうが、計画としてはお粗末なものでした。

 果たして、パウロ暗殺計画は、パウロの妹の子、甥の耳に入り、甥はすぐにローマ軍の兵営に捕らえられていたパウロのもとを訪れ、パウロに身の危険を知らせました。1世紀の牢屋は今日と違っていたようです。もちろん捕らえられている人は外に出ることはできませんが、外からは牢屋にいる人に会いに行くことは比較的自由にできたようです。1世紀の牢屋ではそもそも十分な食事を提供されませんでしたから、囚人は、外からの援助者が毎日食事や身の回りのものを運ばないと餓死するというようなことがありました。
 ですから、パウロの甥も差し入れをするような顔をして牢屋にいるパウロを訪ね、不穏な動きがあることを知らせました。パウロは牢屋の警備の長である百人隊長に、甥である若者を千人隊長のもとに連れて行って欲しいと頼みました。百人隊長は頼まれるまま、甥を千人隊長のもとに連れていきました。話としは上手くできすぎているようにも感じます。
 けれども、パウロの頼みがこのようにローマ軍の兵営で聞き届けられるのには、いくつかの理由があるように思います。まず最初の理由は、パウロがローマ市民だということが兵営の中に知れ渡っていたことです。先にパウロが兵営に連れてこられた時、千人隊長は、どうしてパウロがユダヤ人たちから乱暴狼藉を働かれていたのか、その理由を知りたいと思い、皮の鞭で拷問しようとしましたが、鞭で打とうとパウロをうつ伏せにして柱に縛り付けたときに、パウロは自分が生まれながらのローマ市民であることを語りました。千人隊長は命令し、百人隊長たちはそのことを知らずにパウロを裸にして柱に縛り付けたのですが、知らずにうっかりとはいえ、ローマ市民であるパウロを縛ってしまったことは、自分たちのミスだったという形で、兵営の中に伝わっていたに違いありません。ですから百人隊長たちは、パウロに対してどこか気兼ねするような思いを持っていたと想像できます。
 またもう一つ、理由があります。前日の最高法院での成り行きです。これももともとは千人隊長のリシアが、どうしてこのようなことが起こっているのか知りたいと思って、ローマ軍立会のもとで最高法院の議会を開かせました。そこで取り調べをしても細かいことは明らかになりませんでしたが、少なくともリシアの目の前で起こったことは、最高法院の議員の中にもパウロの言葉に心を寄せる人がいるということでした。議員の中には「この人には、何の悪いところも見出せない」という人たちまで出てきました。
 それで議場は激しい混乱状態になり、最高法院が一致した評決をすることにはならなかったのですが、少なくともリシアたちには、パウロがユダヤ人全体の敵ではない、ユダヤの中にある党派争いのようなものだと分かったようでした。ローマ帝国への抵抗を組織するとか、ユダヤ人社会の転覆を図るというような人物であれば、ローマ軍として取り締る必要がありますが、パウロはそうではないということを千人隊長や百人隊長も知るようになっていました。
 形の上でパウロは囚人として捕らえられていますが、この時点でパウロは、怪しい人物ということではなく、兵営の中に匿われ守られている一人のローマ市民、いわば千人隊長の客のような扱いを受けていました。ですから、百人隊長はパウロの求めを素直に受け入れ、パウロの甥を千人隊長のもとに連れて行ったのでした。

 パウロの甥は情報を千人隊長に伝えました。20節21節「若者は言った。『ユダヤ人たちは、パウロのことをもっと詳しく調べるという口実で、明日パウロを最高法院に連れて来るようにと、あなたに願い出ることに決めています。どうか、彼らの言いなりにならないでください。彼らのうち四十人以上が、パウロを殺すまでは飲み食いしないと誓い、陰謀をたくらんでいるのです。そして、今その手はずを整えて、御承諾を待っているのです』」。
 リシアにとっては大変意外な情報だったと思います。同時に厄介な話でもありました。リシアは、昨日リシア自身が命じて最高法院でパウロの取り調べをさせたのですが、結果は、議場が混乱して中断しています。ですから最高法院から再度取り調べたいと言われたら、リシアとしては断りにくい状況です。
 けれども、仮にパウロを最高法院に再び送って、甥からの情報通りにパウロが暗殺されてしまっては、尚更困ったことになります。ローマ市民が殺されたということになれば、ローマ軍は捜査せざるを得なくなり、その場合捕らえるのはエルサレムのユダヤ人ですが、そうなるとユダヤ人たちはローマに対して反発するに違いありません。リシアにしてみますと、パウロを最高法院に送りたくはないので、パウロの命を狙っている人たちの裏をかいて、この晩のうちにパウロの身柄をエルサレムから外に出そうと考えました。カイサリアにはリシアの上司であるユダヤ総督フェリクスがいますので、そこに送ることにしました。

 それにしても、この晩のパウロの護送に関わった人数は大変多く、仰々しい護送でした。「歩兵二百名、騎兵七十名、補助兵二百名」と言われています。「補助兵」を原文で見ますと「右手に槍を持つ者」とあります。470人もの兵隊が護送にあたったのですが、千人隊長の部下は千人ですから、自分の部隊の半分を護送に回したことになります。これは40人もの暗殺者が、夜のうちにパウロが連れ出されることを知って追いかけてきたとき、白兵戦になりますが、そうなっただけでも不祥事ですから、その際には、ローマ軍勢を見て敵方が諦めるくらいの形を整えたのでした。幸いなことに、暗殺者たちはパウロの護送に気づきませんでした。ローマ軍は夜通し、しかも相当急ぎ足で歩き、カイサリア市中のアンティパトリスに到着しました。
 そしてそこからは、追手もいないので、70人の騎兵に任せ、パウロも馬に乗ってカイサリアに向かいました。

 パウロを護送するにあたって、リシアは1通の添え状を総督フェリクスに送りました。その中でリシアは、パウロについて調べた結果、現在判明している2つのことを記しました。一つは「パウロがローマ帝国の市民権を持つ者であることが分かった」ということです。もう一つは「彼が告発されているのは、ユダヤ人の律法に関する問題であって、死刑や投獄に相当する理由はないことが分かりました」と記しています。
 リシアが分かったこの2つのことは、普通であれば、これだけで即刻釈放できる条件として整っています。けれども、リシアはそうしませんでした。パウロに対しては、恐らくユダヤ人たちから何らかの訴えが起こされるだろうと想像したからです。また、パウロの命を狙う陰謀がエルサレムに起こっているということも察知したからです。釈放した途端に殺されてしまっては困るので、エルサレムで釈放するのではなく、カイサリアに送り、総督の判断で釈放してもらおうと考えたのでした。
 ユダヤ総督フェリクスは、手紙を読んでからパウロを短時間引見しました。そして、キリキア州の出身だということを確かめた上、裁判は、ユダヤ人たちからの訴えが起きた時点で行うと告げて、パウロを護りの堅いヘロデの官邸に移しました。それがこの一日に起こったことでした。

 このように、今日の箇所に記されていることは、パウロの身に起こった事実の経過だけです。陰謀が漏れ聞こえたために、パウロの身柄が急遽カイサリアに移されたという、緊迫した消息は伝わってきます。けれども、果たして信仰に関わるようなことはどこに語られているのでしょうか。筆者のルカは、信仰のことがすぐに分かるようなことではない事柄に多くの紙数を費やして、この出来事を丁寧に取り上げています。それはどうしてでしょうか。そのことを考えてみることはできると思います。
 今日の箇所の直前、23章11節で甦りの主イエスがパウロに現れてくださって、「あなたはローマに行くことになる。勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」とおっしゃった言葉が意味を持つように思います。
 12節以降は、単なる陰謀事件の経過のように聞こえますが、ルカがここで語っていることは、この世の大変人間的な陰謀とか、事件の経緯を用いながら、神がご自身の計画を先へ先へと持ち運んで行かれるのだということです。神の御業は特別に宗教的信仰的に見える人たちだけによって動かされ持ち運ばれるのではありません。「普通に起こっている生活の中で、人間が知らないうちにも神が一つ一つを用いながら御業をなさっていかれるということがあり得る」、そのことをルカは語っているように思います。

 整理して考えてみますと、パウロがどうしてカイサリアのフェリクスのもとに移されたのかというと、それは暗殺の陰謀が漏れ聞こえたからでした。もし陰謀がなければ、パウロは間もなくエルサレムで釈放されていたかもしれません。それは喜ばしいことですが、釈放されたなら、その先パウロは一体どうやってローマまで行って、皇帝や王たちの前で主イエスのことを伝えることができたでしょうか。実際には、陰謀が企てられ、それが発覚し、パウロはカイサリアに送られました。その先はこれから聞いて行きますが、結果として、パウロはカイサリアの総督フェリクスのもとで2年以上留め置かれます。そしてやがてフェリクスが失脚し、次にフェストゥスという総督が着任しますが、その時に改めて裁判が開かれ、業を煮やしたパウロはそこで、ローマ市民としての権利であるローマ皇帝の前での裁判に臨みたいと申し出ました。そしてそこからローマへの旅路が開かれて行くのです。
 甦りの主イエスがパウロに語ってくださった通り、パウロはローマへと導かれました。使徒言行録には、パウロが皇帝の前でどのように語ったかは記されていませんが、パウロは皇帝の裁判を受ける囚人としてローマに送られたのですから、ローマ皇帝の裁判に臨んで福音を語ったに違いありません。

 主イエスがパウロに現れてくださって、「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」と言ってくださった晩、パウロは一体どうやってそのような道が開けるのか、皆目見当がついていませんでした。しかし神は、陰謀という大変危険な出来事を通して、パウロがローマに向かって行く道のりを切り開いてくださったのです。パウロはまるで、風に吹き寄せられて行く一艘のヨットのようなものです。目的地に着くために、自分の力では行けません。神が風を送ってローマへローマへとパウロを引き寄せてくださるのです。
 パウロは聖霊の力に動かされて、ローマへ向かって行くことなります。

 今日ここに記されていることはパウロの出来事ですが、しかし聖書がここで語っているのは、昔こういうことがあったというだけではないと思います。パウロの身に起こっていることは、ここにいる私たち自身の身の上にも起こり得ることなのだということを覚えたいと思います。私たちも、一人一人が皆、神から役割や役目を与えられてキリスト者とされています。愛する近しい者を励ましながら主イエスの福音を伝え信じる者へと導いて行く、そういう務めを与えられている方がいるかもしれません。愛する家族や友人たちが救われるように、日々祈っている方もいるでしょう。祈りながら、覚えながら、一体この方はどうやったら信仰を持てるのだろう、どのように困難な道が解決されるのだろう、その道筋は皆目分からない、そういうことが私たちにもあるでしょう。それでも神は、そういう状態の中からでも、私たちを持ち運んで神のご計画のために用いてくださるのです。

 信仰によって、キリスト者一人一人に神が幻を与えてくださる、その時に、その幻の実現に向かってキリスト者は聖霊の御力によって吹き寄せられて行きます。神が聖霊の力によって私たちを持ち運び、神が幻を実現させてくださることを信じる者とされたいのです。
 たとえそれが遥かな道のりに思えるとしても、神はきっと私たちの上に示された幻を実現していかれます。
今日の箇所で、パウロは本当に不思議な仕方でローマへの道を開かれ旅が始まっています。そのように私たちも、それぞれの人生の目的に向かい、それぞれの人生の完成に向かって、日々主イエスが伴ってくださり持ち運んでくださる中に置かれていることを覚えたいと思います。
 そして、与えられている今日の生活、今日の道を一歩一歩踏みしめながら、祈りを持ってここから歩み出す者とされたいと願います。

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