2020年10月 |
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10月4日 | 10月11日 | 10月18日 | 10月25日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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神様からの慰め | 2020年10月第1主日礼拝 10月4日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/使徒言行録 第22章30節〜23章11節 |
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22章<30節>翌日、千人隊長は、なぜパウロがユダヤ人から訴えられているのか、確かなことを知りたいと思い、彼の鎖を外した。そして、祭司長たちと最高法院全体の召集を命じ、パウロを連れ出して彼らの前に立たせた。23章<1節>そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」<2節>すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた。<3節>パウロは大祭司に向かって言った。「白く塗った壁よ、神があなたをお打ちになる。あなたは、律法に従ってわたしを裁くためにそこに座っていながら、律法に背いて、わたしを打て、と命令するのですか。」<4節>近くに立っていた者たちが、「神の大祭司をののしる気か」と言った。<5節>パウロは言った。「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています。」<6節>パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。「兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。」<7節>パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。<8節>サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。<9節>そこで、騒ぎは大きくなった。ファリサイ派の数人の律法学者が立ち上がって激しく論じ、「この人には何の悪い点も見いだせない。霊か天使かが彼に話しかけたのだろうか」と言った。<10節>こうして、論争が激しくなったので、千人隊長は、パウロが彼らに引き裂かれてしまうのではないかと心配し、兵士たちに、下りていって人々の中からパウロを力ずくで助け出し、兵営に連れて行くように命じた。<11節>その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」 |
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ただいま、使徒言行録22章30節から23章11節までをご一緒にお聞きしました。終わりの11節に「その夜、主はパウロのそばに立って言われた。『勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない』」とあります。この晩、主イエス・キリストがパウロに現れてくださいました。主の福音を思うように伝えることができないと思い気落ちしていたパウロに慰めの言葉を語りかけ、力づけてくださいます。聖書の中に出てくる人々は、誰も彼もが慰めを必要としています。 けれども、この晩パウロが気落ちしていたのは、どういうことでしょうか。パウロはがっかりして塞ぎ込んでいたのでしょうか。外から見たパウロはそうではなかったかもしれません。パウロは大変元気そうであり、この日も最高法院の議員や祭司長たちを前にしても臆することなく、語るべきことをきちんと語ったように見えました。パウロは敵対する人たちを前にしても、毅然として堂々と立っていました。 それで、そういう苛立ちが一つのハプニングの形で会議の最初に現れました。会議が始まって間も無くのこと、会議場の一番下には被告席があり、そこにパウロが引出されていますが、そこからパウロは議場にいる一人一人を見つめながら、自分はこれまで良心に従い神の前で生きてきた、何のやましいところもないと発言しました。すると、議場の一番上に座っていた大祭司アナニアが、パウロの口を平手で叩くようにと下役に命じました。23章1節2節に「そこで、パウロは最高法院の議員たちを見つめて言った。『兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。』すると、大祭司アナニアは、パウロの近くに立っていた者たちに、彼の口を打つように命じた」とあります。パウロは会議が始まって早々に口を叩かれました。一体何がいけなかったのでしょうか。 このような目に遭って、パウロは、かつて主イエスが弟子たちにおっしゃったことを思い出していたのではないかと思います。マタイによる福音書10章16節以下に、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」、「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」とあります。 そしてこの警告の言葉の後に、聖書の言葉を思い出すことができたのも聖霊の導きによることと思います。「神の大祭司をののしる気か」と言われて、パウロは、5節「兄弟たち、その人が大祭司だとは知りませんでした。確かに『あなたの民の指導者を悪く言うな』と書かれています」と言っています。パウロは確かに最初は少し荒立って「神があなたをお打ちになる」と言ってしまいましたが、「あなたの民の指導者を悪く言うな」という聖書の言葉を思い出し、気持ちが落ち着くのです。そしてパウロは、最高法院の議員たちを見上げて「兄弟たちよ」と親しげに呼びかけながら語り始めます。 パウロがそういう思いで議場を見渡したときに、そこにサドカイ派の議員とファリサイ派の議員の両方がいることに気づきました。今とても険悪な空気の中にいますが、その中でも、少しでもパウロの語ることを理解してくれそうな人たちに手を差し伸べようとパウロは考えました。6節に「パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。『兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです』」とあります。 その様子を、一番高いところで見ていたのは千人隊長のリシアでした。リシアはパウロを気遣って身柄を議場から連れ出し、再び安全な兵営へと移します。この状況を見ていて、リシア自身のパウロへの疑いはひとまず解けたようです。リシアが恐れていたのは、パウロが破壊工作を行うためにエルサレムに侵入した危険分子ではないかということでした。けれども、議場で半分以上を占めるファリサイ派の人たちがパウロの語る言葉に心を寄せるのを見て、パウロは意見の違う人たちから攻撃されていただけだと、リシアなりに得心したのです。ですからこの後、リシアはパウロを丁寧に扱うようになります。 今日ここでパウロが語ったこと、「自分は生まれながらのファリサイ派であり、復活を信じているためにこのような目に遭っている」と語ったことについては、聖書の注解書の多くが、この出来事はパウロが計略を仕掛けて成功したことだと説明しています。つまり、パウロは議場にファリサイ派とサドカイ派がいるのを見て、考え方の違う人同士を上手く仲違いさせれば自分への追求を回避できると考え、双方の違いを鮮明にさせるために語ったという説明です。 この日パウロの心を強く占めていたのは、「何とかして最高法院の議員たち、肉による同胞たちに主イエスを伝えたい」という思いでした。そのためにこそパウロは多くの危険を承知の上で、はるばるエルサレムにやって来ました。けれども結果はどうだったかというと、民衆の前でも、またその後連れて来られた最高法院の場でも、主イエスを伝えようと語りましたが、福音を最後まで語る前に連れ出されてしまうことになりました。それは千人隊長の好意によってのことでしたが、しかし、パウロ自身にとっては、これでとうとうエルサレムの同胞たちに対して福音を伝える機会がすべて過ぎ去ってしまったことになりました。ですからパウロは、この晩、不甲斐ない自分の働きに密かに気落ちしていたのでした。 けれども、まさにそういう晩に、パウロは主イエスご自身の慰めをいただいたのだと語られています。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」。「パウロよ、あなたは確かにエルサレムで証しをした。その結果が実を結ぶかどうかは、もはやあなたの判断することではない。それは、主であるわたしがそれをどう用いるかに属している。あなたが確かに証しをしたことが大切であり、それで十分である」と、主イエスはおっしゃいます。「あなたには更なる働きの場が待っている。それはローマである。そこでの働きがどのように用いられ進められるか、それはあなたには予想もつかないことであるが、しかしあなたはエルサレムで勇敢に証しをしたように、ローマでも証しをすることになる」と、主イエスはパウロに語りかけてくださいました。それがこの晩パウロに語り掛けられた慰めであり、励ましでした。 こういう慰めをパウロが聞かされたことを聖書から聴きながら、私たちはここで自分たち自身のことを考えたいと思います。私たちはしばしば、自分のことにだけ心を向けがちです。自分の利害に拘ります。そして、そういうことのために慰めや励ましがないものかと願います。しかし、私たちは果たして、自分の利害や関心にだけ心を向けていてそれで十分なのでしょうか。 人間の思いがなり、人間の計画が実現することを求め、あるいは実現しないことを嘆くのではなく、今ここにいる私たち一人一人が、それぞれ、神のご計画のうちに置かれているということを覚えたいのです。「わたしの命も神はご存知で、わたしを用いようとしてくださっている」ことに感謝したいと思います。人間の思い通りに、自分の計画通りには事が運ばない時があるとしても、「行き詰まるわたしの人生を通して、神の御心が実現されますように」と願うべきではないでしょうか。 |
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