2019年9月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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救いの霊 | 2019年9月第5主日礼拝 9月29日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/使徒言行録 第8章26節〜40節 | |
8章<26節>さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。<27節>フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、<28節>帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。<29節>すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。<30節>フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。<31節>宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。<32節>彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。<33節>卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」<34節>宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」<35節>そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。<36節>道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」<37節> <底本に節が欠けている個所の異本による訳文>フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた<38節>そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。<39節>彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。<40節>フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。 |
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ただいま、使徒言行録8章26節から40節までをご一緒にお聞きしました。26節に「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である」とあります。先にエルサレムの教会が激しい迫害に見舞われるということがありました。多くのキリスト者が都に留まっておれずに落ち延びて行きましたが、フィリポはサマリアへ逃れました。大変不思議なことでしたが、神は逃げて行く人々を用いて、福音がエルサレムの境を超えて更に遠くに広まるようにしてくださいました。フィリポがサマリアへ逃れたことも用いられ、サマリアの町に、主イエスを救い主キリストと信じる教会の群れが起こされました。 こういう場合、フィリポはこの町に一番最初に福音を伝えた伝道者として長くそこに留まって教会の兄弟姉妹の信仰を慰め励ます役目に当たったとしても不思議ではありません。もしかすると、サマリアの教会に集っていた人たちはそう願っていたかもしれませんし、フィリポ自身も新しい世代が教会の中に育って行く様子を見たいと願っていたかもしれません。ところが、神はフィリポに別の道を備えられ、示されました。26節にあるように、人間的な見方で言うならば「寂しい道」へと、神はフィリポをお遣わしになりました。どうして神はフィリポをそのような寂しい道へと送り出されるのか。フィリポが示された通りの道を歩んで行ったならば、どのようなことが起こるのか、細かく説明されるわけでもありません。しかしフィリポは、新しく示された道、人の目からは寂しいと見える道へと進んで行きます。 26節には「主の天使が語りかけた」と言われていますが、神の招きというものは、必ずしも同じ形で現れるとは限らないようです。26節では主の天使ですが、29節では「“霊”がフィリポに」、また39節では「主の霊がフィリポを」と、神がフィリポに出会ってくださる仕方は決して一様ではないことを、この箇所は語っているようです。フィリポは寂しい道を進んで行きますが、確かに神はフィリポを導き、そこでの務めを用意しておられました。フィリポは果たさなければならない大きな使命のために、この道に遣わされました。それは、エチオピアの女王カンダケの高官に主イエス・キリストの福音を告げ知らせ、信仰に導くという務めです。27節28節に「フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた」とあります。 この高官について少し考えてみたいと思います。この人はエチオピア人で宦官でした。宦官であることは、エチオピアの女王カンダケの側近くに侍らなければならないという職務上の理由での去勢と思われます。その上でこの人は、女王の莫大な財産を管理するという重い務めを担っていました。その立場は晴れがましいものだったと言えるでしょう。けれども、この人には寂しいことも付きまとっていたと思われます。宦官ですから子孫を残すことはできません。この人はいかに出世して栄華を誇ったとしても、結局彼一代で途絶えるのです。 ところが、この巡礼の旅は、結果的にこの宦官にとって苦い思いを味わう旅になってしまいました。宦官は、エチオピアでは女王カンダケの高官ですから、非常に名の通った人であり大事に扱われていたはずです。馬車に乗っていたとありますが、当時、普通の人は馬車になど乗れません。ですから、馬車に乗っていたということだけで、普通の身分の人ではないことが分かるような姿でエルサレムまで行きました。当然エルサレムでは大祭司が出迎え、丁重に受け入れてくれるものと予想していたことでしょう。しかし彼は、エルサレムで、期待していたような扱いを受けることはできませんでした。 しかし、ただ一つ、彼にとってエルサレム神殿に来てよかったと思えることがありました。それは、異邦人の庭では様々な人が教えていて、キリスト者もその一角で主イエスのことを宣べ伝えていたと言われています。異邦人の庭では、集まってくる大勢の巡礼者たちに、様々な教師、律法学者たち、預言者たちが聖書の御言葉を説き明かして、神のことについて教えるということが行われていました。高官が異邦人の庭を歩いた時、恐らく偶然に、教師たちのうちの一人が語っていた言葉が彼の耳に入り、それはこの人の心に深く響きました。それは旧約聖書のイザヤ書56章3節から7節です。「主のもとに集って来た異邦人は言うな 主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる 宦官が、わたしの安息日を常に守り わたしの望むことを選び わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らのために、とこしえの名を与え 息子、娘を持つにまさる記念の名を わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。また、主のもとに集って来た異邦人が 主に仕え、主の名を愛し、その僕となり 安息日を守り、それを汚すことなく わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き わたしの祈りの家の喜びの祝いに 連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。ここには、たとえ異邦人であっても、たとえ宦官であっても、神にまっすぐに仕え、御言葉を守って生きようとするならば、その人は神の身許に覚えられ、その名がとこしえに刻まれ決して消し去られることはないという約束が語られています。まさにこの言葉が宦官にとっては一縷の望みでした。エルサレム神殿に来たけれど神殿での礼拝に立ち入ることが許されず、本当にがっかりしていた宦官にとって、このような聖書の言葉があるらしいと耳にすることができたことは大きな収穫でした。 宦官には理解できませんでした。神殿では受け入れてもらえなかったにもかかわらず、しかし一方、聖書には「主のもとに集って来た異邦人は言うな 主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と」とあることがどう繋がるのか分かりませんでした。なぜこのような慰めの言葉が語られるのか、是非とも知りたいと思い、貪るようにイザヤ書を読んでいました。当時の読書は、今日の黙読とは違い音読ですから、彼が帰りの馬車の中で聖書を読んでいる声は外にも聞こえました。そういうわけで、フィリポがガザへの道の途上で、宦官が馬車の中で読んでいる聖書の言葉が聞こえてきたのでした。28節に「帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた」とあります。 今日の箇所で確認しておきたいことがあります。ここでフィリポと宦官に起こった出来事は、神の御業全体の中で言うと、まだ最初のしるしに過ぎないことです。宦官は洗礼を受けて一人のキリスト者となりましたが、しかしそれによってエチオピアの国にキリスト教会が生まれたかと言うと、そんなことはありません。しかしそれでも、この日の出来事は、異邦人に初めて福音が告げ知らされ、信じられ、受け入れられ、洗礼を受けたという記念すべき最初の出来事なのです。まさに、このエチオピアの宦官は初穂として洗礼を受けた人物です。 この宦官に福音を伝えるためにガザへと送られたフィリポは、宦官が洗礼を受けると、39節「主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかった」、それでもなお宦官は、この先、「喜びにあふれて旅を続けた」とあります。 |
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