聖書のみことば
2019年9月
  9月1日 9月8日 9月15日 9月22日 9月29日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

9月29日主日礼拝音声

 救いの霊
2019年9月第5主日礼拝 9月29日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/使徒言行録 第8章26節〜40節

8章<26節>さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。<27節>フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、<28節>帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。<29節>すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。<30節>フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。<31節>宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。<32節>彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。<33節>卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」<34節>宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」<35節>そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。<36節>道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」<37節> <底本に節が欠けている個所の異本による訳文>フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた<38節>そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。<39節>彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。<40節>フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。

 ただいま、使徒言行録8章26節から40節までをご一緒にお聞きしました。26節に「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け』と言った。そこは寂しい道である」とあります。先にエルサレムの教会が激しい迫害に見舞われるということがありました。多くのキリスト者が都に留まっておれずに落ち延びて行きましたが、フィリポはサマリアへ逃れました。大変不思議なことでしたが、神は逃げて行く人々を用いて、福音がエルサレムの境を超えて更に遠くに広まるようにしてくださいました。フィリポがサマリアへ逃れたことも用いられ、サマリアの町に、主イエスを救い主キリストと信じる教会の群れが起こされました。

 こういう場合、フィリポはこの町に一番最初に福音を伝えた伝道者として長くそこに留まって教会の兄弟姉妹の信仰を慰め励ます役目に当たったとしても不思議ではありません。もしかすると、サマリアの教会に集っていた人たちはそう願っていたかもしれませんし、フィリポ自身も新しい世代が教会の中に育って行く様子を見たいと願っていたかもしれません。ところが、神はフィリポに別の道を備えられ、示されました。26節にあるように、人間的な見方で言うならば「寂しい道」へと、神はフィリポをお遣わしになりました。どうして神はフィリポをそのような寂しい道へと送り出されるのか。フィリポが示された通りの道を歩んで行ったならば、どのようなことが起こるのか、細かく説明されるわけでもありません。しかしフィリポは、新しく示された道、人の目からは寂しいと見える道へと進んで行きます。
 寂しい道を行くということは、その先でサマリアのように多くの人と会うことは期待できないだろうというだけのことではなく、別の不安もあります。当時の旅は、今日よりはるかに危険に満ちたものでした。便利な乗り物もありませんから、フィリポは与えられた道のりを一歩一歩自分の足で進んで行かなければなりませんでしたが、寂しい場所を通る時には、そこで野獣に出会ったり、事件や事故に巻き込まれるリスクも高くなります。
 26節で天使がフィリポに語った「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」という言葉は、私たちがあまり意識せずに聞けばそれまでですが、実際にはとても大変なことが命じられているのです。「あなたは、多くの人に囲まれた、晴れやかなサマリアでの生活を後にして、ガザに行きなさい。そこは寂しい道だけれど、あなたには仕えるべき務めがある」と天使は告げました。そして、その天使の言葉を聞いた時、フィリポはためらわず、すぐに出かけたと27節に言われています。「フィリポはすぐ出かけて行った」。出かけた時に、フィリポが何をどう思っていたかということについては、何も述べられていません。内心では激しい葛藤があったかもしれません。しかし表に出てくる行動からすると、フィリポは従順に従って、天使が示した道に真っ直ぐ向かっています。

 26節には「主の天使が語りかけた」と言われていますが、神の招きというものは、必ずしも同じ形で現れるとは限らないようです。26節では主の天使ですが、29節では「“霊”がフィリポに」、また39節では「主の霊がフィリポを」と、神がフィリポに出会ってくださる仕方は決して一様ではないことを、この箇所は語っているようです。フィリポは寂しい道を進んで行きますが、確かに神はフィリポを導き、そこでの務めを用意しておられました。フィリポは果たさなければならない大きな使命のために、この道に遣わされました。それは、エチオピアの女王カンダケの高官に主イエス・キリストの福音を告げ知らせ、信仰に導くという務めです。27節28節に「フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた」とあります。
 天使の告げたことに、フィリポは迷わずすぐに従いました。もし少しでも迷い躊躇っていたら、恐らくこの高官と会うことはできなかったでしょう。フィリポはまさに神のご命令に従って歩み出し、ガザへの道で高官に出会うようにと送り出されているのです。フィリポ自身は何も知りません。一方で、高官も、フィリポを通して神が近づきつつあるということを知る由もありません。しかし二人は互いに接近して、遂にガザへの途上で歩みが重なるのです。そこは、人に会うことはないだろうと思われる寂しい道でした。

 この高官について少し考えてみたいと思います。この人はエチオピア人で宦官でした。宦官であることは、エチオピアの女王カンダケの側近くに侍らなければならないという職務上の理由での去勢と思われます。その上でこの人は、女王の莫大な財産を管理するという重い務めを担っていました。その立場は晴れがましいものだったと言えるでしょう。けれども、この人には寂しいことも付きまとっていたと思われます。宦官ですから子孫を残すことはできません。この人はいかに出世して栄華を誇ったとしても、結局彼一代で途絶えるのです。
 彼はエチオピア人でユダヤ人ではないのですから、ユダヤ教の神を初めから信じていたわけではないのですが、ところが彼は、エルサレムに礼拝に来て帰るところだったと記されています。エルサレムに観光ではなく礼拝に来ているのですから、彼は人生のどこかの時点で、聖書の神、万物の創造主、全てを統べ治めておられる唯一の神を知る機会があったのでしょう。どんな仕方で神に出会ったのかは分かりませんが、彼が神を求める気持ちになったのは、もしかすると、担っていた重い務めと関わりがあったかもしれません。女王カンダケの莫大な財産全てを管理するのですから、周囲から羨ましがられる高い地位にいたかもしれませんが、彼自身の生活は緊張の連続だったことでしょう。豊かな富というものは、羨ましがられ狙われるものだからです。彼は富の隅々にまで目を光らせていなければなりませんでした。
 莫大な財産の管理ですから、普通であれば信頼のおける身内でもいれば手伝ってもらって一家で勤めに当たるということが考えられます。ところが彼は宦官ですから、家族を持つことができません。結局、自分一人で事に当たらなくてはなりません。しかも、無事に管理して当たり前の仕事ですから、万が一にも管理に失敗して富の一部でも失ってしまえば、責任を問われて死罪になっても不思議ではない立場です。ですから、大変晴れがましい状況に見えましたが、この人は誠に危険な境遇に身を置いていたとも言えるのです。
 彼は自分のそういう境遇についてよく分かっていたと思います。そして自分がいかに取るに足らない者かということも知っていたに違いありません。そういう彼にとって、世界全体をお造りになり、全てを治めておられる「ただお一人だけの神」がおられるという考え方は、大いに心を励まし慰められる教えだったことでしょう。神々が大勢いることを前提としているギリシャ神話やローマ神話などは、悪戯好きの神や、そういう神々が操る魔物などが始終出てきますが、そういうものが現れる世界だと思っていては、宦官が守るべき財産がいつ何時かすめ取られてしまうか分かったものではありません。
 神をただお一人と信じているか、多くの神々がいると思っているか、あるいは神が居ようが居まいが自分には関わりないと大方の人は思っているかもしれませんが、本当に重い職責を負っている人にとっては、それでは済まないのです。もしこの世に得体の知れない力がたくさん働いていて、自分には守らなければならないものがあるけれど、それを超える力が如何様にも働いてしまうとすれば、とても気持ちは休まりません。ですから、宦官にとって、聖書に語られていることは本当に慰めだったに違いありません。「この世界には様々なものがあり、溢れているように思うけれど、しかし、全てをお造りになった神はただお一人である。そしてその神がこの世界の全てを統べ治めてくださっている。そういう世界の中に生かされているのだ」と信じて、自分の生活を歩んでいくことが、この宦官にとって慰めだったに違いありません。
 ですから、この人は遠いエチオピアからはるばる馬車を仕立ててエルサレムまで巡礼にやって来たのでした。

 ところが、この巡礼の旅は、結果的にこの宦官にとって苦い思いを味わう旅になってしまいました。宦官は、エチオピアでは女王カンダケの高官ですから、非常に名の通った人であり大事に扱われていたはずです。馬車に乗っていたとありますが、当時、普通の人は馬車になど乗れません。ですから、馬車に乗っていたということだけで、普通の身分の人ではないことが分かるような姿でエルサレムまで行きました。当然エルサレムでは大祭司が出迎え、丁重に受け入れてくれるものと予想していたことでしょう。しかし彼は、エルサレムで、期待していたような扱いを受けることはできませんでした。
 彼はどう扱われたでしょうか。割礼のない異邦人であるのですから、神殿に入ることすらできませんでした。神殿の外側に広がっている異邦人の庭と呼ばれるところで留められてしまいます。改宗者になろうと割礼を受けようとしても、去勢されていますので、割礼を受けることができません。ですから、エルサレムでは受け入れてもらえるどころか、宦官であるということで蔑すみの目で見られました。旧約聖書の律法、申命記23章2節には「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」と、はっきりと記されています。
 この宦官は、エチオピアに居た時には考えもしなかったような冷淡な扱いを受けました。長旅をしてエルサレムまで来たのに、彼に許されたことは、ただ異邦人の庭に留まって、そこから遠く神殿を眺め、そこから彼なりに神に祈りを捧げて帰ることだけでした。そうであれば、遠くエチオピアの地から神に祈っているのと何も違わないと思ったかも知れません。

 しかし、ただ一つ、彼にとってエルサレム神殿に来てよかったと思えることがありました。それは、異邦人の庭では様々な人が教えていて、キリスト者もその一角で主イエスのことを宣べ伝えていたと言われています。異邦人の庭では、集まってくる大勢の巡礼者たちに、様々な教師、律法学者たち、預言者たちが聖書の御言葉を説き明かして、神のことについて教えるということが行われていました。高官が異邦人の庭を歩いた時、恐らく偶然に、教師たちのうちの一人が語っていた言葉が彼の耳に入り、それはこの人の心に深く響きました。それは旧約聖書のイザヤ書56章3節から7節です。「主のもとに集って来た異邦人は言うな 主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる 宦官が、わたしの安息日を常に守り わたしの望むことを選び わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らのために、とこしえの名を与え 息子、娘を持つにまさる記念の名を わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。また、主のもとに集って来た異邦人が 主に仕え、主の名を愛し、その僕となり 安息日を守り、それを汚すことなく わたしの契約を固く守るなら わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き わたしの祈りの家の喜びの祝いに 連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」。ここには、たとえ異邦人であっても、たとえ宦官であっても、神にまっすぐに仕え、御言葉を守って生きようとするならば、その人は神の身許に覚えられ、その名がとこしえに刻まれ決して消し去られることはないという約束が語られています。まさにこの言葉が宦官にとっては一縷の望みでした。エルサレム神殿に来たけれど神殿での礼拝に立ち入ることが許されず、本当にがっかりしていた宦官にとって、このような聖書の言葉があるらしいと耳にすることができたことは大きな収穫でした。
 宦官はすぐに配下の者に命じて、耳にした聖書の言葉が何の言葉なのかを尋ねさせ、調べさせます。そして神殿でイザヤ書の記された巻物を買い求め、それを読みながら馬車で帰って行くのです。

 宦官には理解できませんでした。神殿では受け入れてもらえなかったにもかかわらず、しかし一方、聖書には「主のもとに集って来た異邦人は言うな 主は御自分の民とわたしを区別される、と。宦官も、言うな 見よ、わたしは枯れ木にすぎない、と」とあることがどう繋がるのか分かりませんでした。なぜこのような慰めの言葉が語られるのか、是非とも知りたいと思い、貪るようにイザヤ書を読んでいました。当時の読書は、今日の黙読とは違い音読ですから、彼が帰りの馬車の中で聖書を読んでいる声は外にも聞こえました。そういうわけで、フィリポがガザへの道の途上で、宦官が馬車の中で読んでいる聖書の言葉が聞こえてきたのでした。28節に「帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた」とあります。
 フィリポは聖霊に促されるまま大胆にも馬車に近寄り、外から馬車の中に声をかけました。これは大変危険な行為です。事の成り行き次第では、この宦官の配下の者に斬り捨てられても仕方ないような行いです。宦官は大変身分の高い人、一方フィリポは身分などない人ですから、普通はそういうことはできないはずです。けれども、フィリポはまさに宦官に声をかけるために、サマリアからガザへの道に送り出されていたのです。30節31節に「フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、『読んでいることがお分かりになりますか』と言った。宦官は、『手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう』と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ」とあります。宦官がフィリポに向かって、馬車に乗って聖書の言葉を説き明かして欲しいと頼んでくれたので、フィリポは斬り捨てられずに済みました。
 この時宦官が読んでいた聖書の箇所は、イザヤ書で言えば53章7節8節のところです。宦官がここを読んでいたのには理由があると思います。自分は神殿では冷淡な扱いをされたけれど、自分のような者も受け入れられるという約束の言葉が、イザヤ書には確かにある、そのことを彼はまず確認したに違いありません。そして、そうなる理由はどこにあるのかを確かめようと、少しずつ前の章を読み進めていたのです。そこで、どうやら鍵になるのは、ある一人の人、イザヤ書では「主のしもべ」と記されている人にあると感じるのです。けれども宦官には、それが誰のことか分かりません。イザヤ書に語られている預言の中で、「一人の主のしもべ」、使徒言行録では「羊のように屠り場に引かれて行って殺されてしまう」そういう「しもべ」です。それが誰なのか。宦官はフィリポに尋ねました。34節35節に「宦官はフィリポに言った。『どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。』そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた」とあります。
 宦官はこのようにして、フィリポの口を通して主イエスのことを初めて聞かされました。この世の全て、一切が神の御支配のもとにあることを人間に知らせるために、ご自身の身を十字架に献げ、全てを失い、神から見捨てられたような姿で十字架上で亡くなったけれど、しかし神に信頼し続けた方が救い主として確かに立っておられる。イザヤ書の預言の中で、「毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない」ままで、人間のために命を捨ててくださった「しもべ」である方がおられる。それが、先ごろエルサレムで十字架にかかり甦られた主イエスなのだということを、フィリポは宦官に伝えることができました。
 宦官はこれを聞いて、主イエスを「この方こそ、わたしの救いを確かに示してくださるお方だ」と信じて、洗礼を受けることを決心しました。38節「そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた」。

 今日の箇所で確認しておきたいことがあります。ここでフィリポと宦官に起こった出来事は、神の御業全体の中で言うと、まだ最初のしるしに過ぎないことです。宦官は洗礼を受けて一人のキリスト者となりましたが、しかしそれによってエチオピアの国にキリスト教会が生まれたかと言うと、そんなことはありません。しかしそれでも、この日の出来事は、異邦人に初めて福音が告げ知らされ、信じられ、受け入れられ、洗礼を受けたという記念すべき最初の出来事なのです。まさに、このエチオピアの宦官は初穂として洗礼を受けた人物です。

 この宦官に福音を伝えるためにガザへと送られたフィリポは、宦官が洗礼を受けると、39節「主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかった」、それでもなお宦官は、この先、「喜びにあふれて旅を続けた」とあります。
 宦官は重い務めに喘ぎながら、自分は本当に無力な人間に過ぎないと思いながら、その自分を支えてくださるお方として、神に出会いたいと心から願っていました。そして、その神を確かに指し示し現してくださるお方として、「主イエス・キリストというお方がおられる」こと、「主イエスが甦っておられ、目には見えないけれど、今日もわたしと共に歩んでくださる」とフィリポから聞かされ、信じ、そして喜びをもって生活を続けたと語られています。
 この宦官の姿が、この後に続く全ての異邦人キリスト者の生活の原型になっていきます。自ら十字架の上に身を捨てて罪人の身代わりとなって命の代価を支払ってくださった、そのことによって信じる人に新しい命を与えてくださる。そういう主イエスが、エチオピアの女王カンダケの高官と共に、また全ての主イエスを信じる人と共に歩んでくださるという約束が与えられています。
 私たちは今日、このエチオピアの宦官が信じる同じ主イエス・キリストの救いに与り、「あなたは、今日ここで、与えられている今日の生活を歩んで良い」と教えられているのです。甦られた主イエスに伴われ心から喜びを与えられ、この方に信頼して歩もうとする思いを与えられた宦官のように、私たちも今日ここから、新しい思いを与えられて歩み出したいと願います。主が伴っていてくださり私たちの生活を支えてくださいます。
 私たちの人生には、思うようにならないことや緊張を強いられること、嘆きに覆われてしまうようなことがありますが、しかし、それでもなお、そういう私たちに目を留めてくださり、私たち一人ひとりを持ち運んでくださる主が確かにおられることが、十字架にかかられた主イエス・キリストが甦って私たちと共に歩んでくださっているということによって、確かであることを覚えたいのです。
 私たちは、主イエス・キリストに伴われた者として、ここから歩んでいきたいと願います。

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