ただいま、コリントの信徒への手紙二5章1節から10節をご一緒にお聞きしました。1節に「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」とあります。「わたしたちは知っています」と、パウロは語り出しています。パウロと、そばにいる伝道者たちとコリントの教会の人たち、そして今ここにいるわたしたちは、一体何を知っているのでしょうか。
「地上の住みかが滅びても、神によって別の建物、永遠の住みかが備えられている」ことを、「わたしたちは知っている」とパウロは言います。地上の住みかというのは、私たちの地上の生活、また地上で生きる体のことで、パウロはそれを「幕屋」と呼んでいます。地上の幕屋の家と天にある永遠の家という対比を示しながら、「今、私たちは地上の幕屋の家を生きているけれど、それが滅びたとしても、天にある永遠の家を神が備えてくださり、そこへ迎えてくださる。そのことを知っている」と言うのです。
「幕屋」と言うのは、壊れにくいがっしりした建物ではなく、テントのようなものです。そこにずっと住むものではなく、暫くの間暮らすためのものですから、壊れやすく不完全なものです。家としては弱く脆いもので、大風に煽られて飛ばされそうになったり、形が歪んで傷んだりしますから、ずっと住み続けることはできないものです。私たちの地上の生活、地上の体というものは、このようにいつかは滅びていくものであると思います。この地上の生活は過ぎゆくもの、弱く朽ちていくものです。そのことを多くの人は知っていて、人生の秋の季節、冬の季節を迎えて、また想像して、虚しさ、寂しさ、悲しみを覚える場合もあります。いつかは地上の住みかである幕屋が滅びる時が来る。自分自身も、また親しい人たちもそうであることは、私たちがずっと心の奥底で気になっていること、また受け止めようとしていることです。
今朝、私たちは、地上の住みかである脆く弱い幕屋が滅びたとしても、別の新しい住まいが私たちのために用意されているという約束を耳にしています。「この新居は、神ご自身によって用意され、人の手によらずに作られた天にある永遠の家、住まいであると記されている。私たちには永遠の住まいが用意されているということを、私たちは知っている。今は目に見えないけれど、私たちは見えないものに目を注いで生きている者ではないか」と、パウロが語っています。
日頃の生活の慌しさや忙しさの中で、あっという間にカレンダーの日付が進み、いつの間にか季節が移り変わっていくような感覚を持ちながら歩んでいるようなところがあります。そして、何とかこの地上の生活をより良いものにしよう、少しでも充実させようと心がけたりもします。信仰者も、こうした目に見える現実の生活と無縁ではありません。パウロ自身もこの手紙の先の方、11章で、「日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」と語っています。見えるものに目を注ぎ、見えないものに目を注ぐことを忘れてしまう私たちに、「永遠に存続する、人の手にはよらない永遠の住みか、永遠の家がある。そこを目指して今を生きている」ことを示されています。
そして、キリスト者はいつもそのことを思い起こさせられる、そういう者です。信仰生活が地上のこまごまとしたことに取り囲まれてはいますが、同時に永遠の光の中にすっぽりと覆われていると言えます。今のこの生活、地上の体は、いつかは滅びて行きますが、それで全てが終わってしまうのではありません。今は目に見えないままですが、確かに私たちのために天の住まいが用意されていて、私たちはその永遠の家へと招待されている一人一人である。私たち自身についても、親しい人たちについても、このことを信じて歩んでよいのだと語られています。
ある人が、「永遠の家というのは、今の現実の生活以上により良く幸いな、命に溢れるものだ」と説明しています。私たちは、その永遠の世界に限りない憧れを持ちつつ、それが神ご自身によって、私のために、私たちのために神によって用意されているのだという約束を、真剣に真実に受け取るようにと招かれています。
けれども、そのことを私たちはどのようにして確信することができるのでしょうか。私たちのために神によって建物が備えられていることを、どうやって知るのでしょうか。
かつて主イエス・キリストは、弟子たちに言われました。ヨハネによる福音書14章2節3節です。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。御言葉によってこう示されています。キリストがこのように約束なさって、弟子たちに天の住まいをお示しくださいました。キリストは、父の許におられたのに地上においでになり、人の姿を取って私たちと同じ弱く脆い体をお取りになりました。クリスマスの出来事です。十字架の死を経験なさり、その体は滅びてしまいましたが、父なる神はこの方に、新しい甦りの体を用意されて、永遠の住まいへとお招きになりました。これは、私たちのために場所を用意されるためでした。この方のおかげで私たちには、天にある永遠の住みかが用意されています。私たちは、天にある住まい、天での生活を求めて、キリストによって、御言葉によって与えられた約束を信じて、この地上の今の生活を生かされています。
ですから、もしかすると、この地上の生活が人の目にどう映るかということはあまり大きな問題ではないのかもしれません。今見えているこの生活は一時的なもので、私たちには十字架の赦しと復活の恵みが主より与えられていて、永遠の世界への招きが確かにされているからです。その家がどんなに美しく素晴らしく幸いに満ちているかを、私たちはまだはっきり見ることはできなくても、いずれはっきり知ることになるでしょう。その家こそが、私たちの真のふるさと、真の帰るべき家だからです。御言葉の通り「わたしたちの国籍は天にある」からです。
さて、私たちはこの天の住まい、復活の体を上に着ることを切に願って呻いているのだと、パウロは2節に語っています。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」。「苦しみもだえています」という言葉には、「ため息をつく、呻く」という意味があり、地上の生活が苦しみや呻き、またため息をつくようなことと無縁でないことを知ることができます。
そしてそれは、私たちの抱える罪と無関係ではありません。罪の問題、死の問題が解決しなければ、全てにおいて真の解決はないにもかかわらず、私たちは日常生活の様々な必要に心奪われて一喜一憂することがありますし、与えられている救いの事柄を直視できないような、受け止めきれないようなところがあります。与えられている救いの意味が分からなくなり、救いを切に求めて祈り続けるということを忘れてしまうかもしれません。「救われること、わたしには救いが必要だ」ということを切実に求めるよりは、日常生活の安定や平穏な生活を何事もなく送っていくことを願っている、そういうこともあるのです。
けれどもパウロは、「私たちは天から与えられる住まいを上に着たいと切に願って、地上の幕屋にあって苦しみもだえています」と語っています。「罪を赦され救いに入れていただくこと、復活の体を与えていただくことを切望し、苦しい中にあっても祈りつつ歩むように」と示されています。自分の力ではどうすることもできない罪の問題、死の問題に、私たち一人一人が直面しています。「今まで切れていた神さまとの交わりを、どうか回復させていただけますように」という祈りが、私たちにとって大切な祈りであることを、パウロのこの言葉は教えてくれています。
4節でもパウロは、「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」と語っています。「天から与えられる住みかを上に着たい」、それがパウロの願いです。「死ぬはずのこの身が命に飲み込まれてしまう」という出来事が起こって、「天から与えられる住みかを上に着る者とされる」、そのことを願っています。パウロは他の手紙で、「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは、皆、キリストを着ている」と語りました。「滅んでいく生活、朽ちていく体を持ちながら、洗礼を授けられた私たちは、キリストと結びつけられ、贖われ、キリストを着る者とされている。私たちはこのことを願いながら歩む者ではないか」と教えています。
ところで、毎日地上の生活を生きている私たちは、永遠の住みか、天から与えられる住みかが約束されているということをいつも忘れずに信仰生活を送りたいと願いながら、その恵みを忘れやすく、また恵みから離れやすいという面も持っています。本来私たちは救いに与る資格がなく、神の恵みに与るのに相応しくない者でしたから当然かもしれません。罪のために、神との交わりができなくなっていた者でした。
しかし、神が一人一人を選んでくださり、招き、救いを約束してくださり、救いへと入れてくださいました。相応しくない者に対して、神ご自身が働いてくださり、相応しい者へと変えてくださり、私たちを神の子としてくださいました。地上の住みかが滅びたとしても、神ご自身が建物を用意して永遠の住みかへと入れてくださるという望みを持つことを許していただきました。それでパウロは、「私たちをこのような者になるのに相応しくしてくださったのは神です」と、5節で語っています。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として“霊”を与えてくださったのです」。
「救いに与った人は皆、この永遠の住みかへと招き入れられる」という約束を忘れてしまわないように、保証として神が霊を与えてくださった、聖霊が保証として与えられていると言われています。聖霊によって、私たちを信じる者へと変えてくださった神がおられます。聖霊によって、イエス・キリストを信じる者としていただき、救いの恵みを確信させていただいて、それを忘れないようにしていただいています。道に迷う人が正しい道に導き帰されるように、信じる人が帰る家を見出すようにして、私たちは聖霊によって救いの確信を与えていただいています。罪人である私たちの救いのために御子をお送りくださり救いへと招いてくださったばかりか、救いを見失う私たちが身許に立ち返ることができるように、神が聖霊をお送りくださって、救いを見失わないように、信じる者が救いから漏れることがないようにご配慮くださっています。
そうした事情を受けて、「だから、私たちは心強い」とパウロは話を進めています。6節です。「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています」。「それで、それだから、私たちはいつも心強い。聖霊なる神さまをお送りいただいて、この方が私たちに救いを示してくださり、イエス・キリストと共に生きる幸いを分からせてくださり、恵みをさやかに示してくださるのだから、いつも心強い」。「心強い」という言葉は、「元気になる、勇気がある」という意味もあります。「勇気を与えられて元気になる。心強い思いになる。しかもいつもそうだ」と言われています。
パウロは、私たちが地上を生きる時に抱える不安や心配、気がかりで仕方ないこと、解決できない問題に直面して途方に暮れるようなこと、そうした現実を知らないのでしょうか。だから「いつも心強い」というような言葉を語ることができたのでしょうか。
この言葉をかけられたコリント教会の人たちはどうでしょうか。私たちは、コリント教会が深刻な問題を抱えていたことを聖書から知らされています。パウロが語ったことと違う教えを語り、パウロが使徒であることを否定する人たちの活動によって、この時期教会がグラグラしていました。パウロも福音宣教のために迫害を受けて、病を抱え、傷を負って教会の心配事をいくつも抱えていました。平穏で穏やかな波のような生活の中から語り出された言葉ではなく、むしろ反対です。到底解決できない問題、困難に直面しているパウロが、重荷を抱える教会に向けて「私たちはいつも心強いではないか。勇気を与えられていて元気ではないか」と語りかけています。
主イエスご自身も「あなたがたは、この世で苦難がある。しかし勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」とおっしゃいました。地上の生活を生きる上で不安を抱えたり、心配事で心の大部分が占められてしまうようなことがありますが、私たちはそのような時、この世の生活が全てであるかのように思ってしまい、信仰を与えられていることを小さいこと、大したことのないもののように考えてしまいます。
けれども、私たちは皆、心強くされています。信仰を与えられているからです。聖霊のお導きによって、主イエス・キリストの十字架の赦しを信じることを赦されているからです。信仰が地上の生活だけに関わっているものではないということを知っているからです。死の後に私たちを迎え入れてくださる住まいがあること、罪赦されて復活の命に与った私たちは、今この地上を生きる時にも天の住まいと同じ住まいを与えられていること、地上でも天でも永遠の命を生かされること、それでたとえどんな境遇に陥ったとしても、平穏で静かな人生とは程遠い生活を送ることになったとしても、私たちは「いつも心強い」という御言葉を共に語り、共に聴くのです。
パウロはまた、体を住かとしている限り主から離れていることも知っている、むしろ体を離れて主の許に住むことを望んでいると語ります。地上の体を住みかとしている今は主から離れているけれど、死の後には主の許に住いを得、主と親しい交わりを得ることを望んでいる。「わたしが願っているのは、この世を去ってキリストと共にいることであり、地上の命を今生きるより、その方が望ましい」とパウロは考えていたようです。それで8節に「わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」と言っています。「地上の今の生活もいつも心強いものではあるけれど、死の後に、今以上に主イエスと結ばれて生きる天での命も心強い。今以上に幸いなものだ」という信仰を、パウロは言い表しています。
ここを読みますと、パウロという人は死ぬことを恐れていないということを受け止めることができます。けれどもそれは、パウロ自身が死を恐れない強い意志や思いを持っていたというよりは、死の後の、さらに主と共にある生活に強い憧れを持ち、主と共にあるということの限りない幸いを覚えていたからだと思います。地上にいる今はもちろん、死の後も、主によって愛をいただいて主を愛するという交わりはほかの何物にも代え難いという確信に立っていたから、体を離れて主の許に住むことをむしろ望むと言ったのだと思います。
よく引用されますが、ハイデルベルク信仰問答の問い1の言葉を改めて思い起こします。「生きているときも、死ぬときも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いに対して、「わたしが、身も心も、生きているときも、死ぬときも、わたしのものではなく、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることであります」という答えです。生きている今も死の後も、「主と共に、主のものとして歩むことが、私たちのただ一つの慰め」です。
それでパウロは、ひたすらに願い求めます。9節に「主に喜ばれる者」という言葉が出てきます。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。「地上を生きる今も死の後も、いかなるときも、キリストに喜ばれる者であることに熱心に努めたい。キリストに救われ新しい命をいただいているのだから」と、パウロはひたすらにキリストに喜んでいただく者となることを願い、そのことを大切なことだと考えています。そのために、地上を生きていること、地上の命を終えること、それはどちらでもよく、体を住みかとしていても体を離れているにしても、とにかく主に喜ばれる者になること願い、祈って過ごすのです。
私たちは、地上の生活が穏やかに過ごせることを願っていますが、それは信仰を持たない人も同じです。もちろん、その人たちが神に願いを捧げるとは限りませんが、平穏な生活をたくさんの人たちが願うと思います。
けれども、私たちが本当に願うことは、私たちがひたすら主に喜ばれる者になることです。そして、そのような私たちを支えてくださるのは、聖霊なる神によって示された約束です。「地上を生きるときも死のときも、主と共に生きる」、この約束を信じて生きる信仰者の姿が、私たちの姿であると思います。
10節には、終わりの日、キリストの再臨の日に、「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」と語られています。裁きの前に立つ私たちが、自分の行ったことに応じて裁きを受ければ、誰も罪なき者となることはできないことは、私たちがよく分かっていることです。聖なる神の裁きに耐えられる人は誰もいません。
けれども私たちは、裁かれるべき私たちのためにご自身の身を犠牲にして執りなしてくださる御子キリストを信じ、この方の執りなしを受けて裁きの前に立つということを許されています。
私たちのために命を捨ててくださり、贖いを成し遂げられた救い主キリストに喜んでいただく生活を、日々、聖霊のお助けを求めつつ歩みたいと願います。 |