聖書のみことば
2019年6月
  6月2日 6月9日 6月16日 6月23日 6月30日
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

6月16日主日礼拝音声

 ペトロの説教
2019年6月第3主日礼拝 6月16日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/使徒言行録 第2章14〜47節

2章<14節>すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。<15節>今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。<16節>そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。<17節>『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。<18節>わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。<19節>上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。<20節>主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。<21節>主の名を呼び求める者は皆、救われる。』<22節>イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。<23節>このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。<24節>しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。<25節>ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。<26節>だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。<27節>あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。<28節>あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』<29節>兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。<30節>ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。<31節>そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。<32節>神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。<33節>それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。<34節>ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。<35節>わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで。」』<36節>だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」<37節>人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。<38節>すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。<39節>この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」<40節>ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。<41節>ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。<42節>彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。<43節>すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。<44節>信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、<45節>財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。<46節>そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、<47節>神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

 ただいま、使徒言行録2章14節から47節までをご一緒にお聞きしました。聖霊が降って初代教会が誕生し、新しい言葉が与えられた時、ペトロをはじめとする12人の弟子たちが立ち上がって、その場に集ってきた人たちに語って聞かせた説教の言葉がここに記録されています。40節に「このほかにもいろいろ話をして」とありますので、ここに記されている言葉だけが、この日にされた説教のすべてということではないようです。しかしたとえすべての言葉が記録されているわけではないとしても、聖霊が降って新しい言葉が与えられた最初の日に、教会の中でどんな説教がされていたのかということは興味あることではないでしょうか。教会に与えられた言葉は、一体どんな言葉だったのでしょうか。

 14節に「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください』」とあります。ここではペトロが他の11人の弟子たちと共に「立ち上がって話していた」と言われています。説教者が立ち上がって説教するのは、今日の教会では一般的だろうと思います。けれども、当時のユダヤ教の会堂では、話をするラビが座っていて、教えを聞く人たちの方が立っていたと言われています。そう考えますと、例えば、主イエスもマタイによる福音書5章から7章に出てくる「山上の説教」をお語りになった時、座って話されたと記されています。またルカによる福音書で、湖上から岸辺にいる群衆に話された時にも、主イエスは舟の中に座って話され、群衆は岸辺に立って聞いていました。当時は、教える側が座り、聞く側が立つことが普通だったようです。そうしますと、ここでペトロたち12人が立ち上がって話しているというのは異例なことです。ペトロは立っていますが、これは他者に教えるのではなく聞く側の姿ですから、その姿勢からすれば、ペトロは教える者として語っているのではなく、聞いている人として語っていることになります。ペトロは自分が教えているのではなく、自分も主イエスから教えられたことを語っているのです。
 さらに、他の11人の弟子も立っていたということは、ペトロは聖霊に励まされ主イエスから聞かされた言葉を話しているのですが、それはペトロ一人が話しているのではなく、いわば12人の弟子たちを代表してペトロが語っているということになると思います。ここに記録された言葉は、もちろんペトロの言葉ですが、しかし同時に聖霊の働きによって語らされている教会の言葉でもあるのです。他の11人の弟子たちは、ペトロが話している間、横から口を挟むようなことはなかったようですが、もし求められたならば、「今ペトロが告げていることは本当のことです」と、ペトロの話を支持したことだろうと思います。そしてさらには、11人の弟子たちがそれぞれの言葉で、ペトロの語っている事柄を説明しただろうと思います。このように、信仰を同じくする兄弟姉妹たちと共に、ペトロはここで語っているのです。
 そして、この日ペトロが語った最初のことは、「今ここで起こっていることは酒に酔って語っている大言壮語のようなことではない」ということです。ここで起こっていることは、「まさに旧約聖書に教えられていた預言の成就なのだ」とペトロは語りました。15節から18節に「今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する』」とあります。預言者ヨエルを通して言われていた言葉と言っていますが、ヨエルの預言は「終わりの時」についての預言です。私たちが今生きているこの世界が究極的にはどうなっていくのかということを伝える預言と言ってよいかもしれません。
 「終わりの時」と聞かされると、何か恐ろしげに感じるかもしれませんが、ヨエルの預言は違います。ヨエルは、全てが滅んでしまう終わりが来ると言っているのではありません。太陽が暗くなったり月が血のように赤くなったり恐ろしげな出来事は確かに起こるけれど、それで終わりなのではなく、それらが全て最後には完成され新しい世界に変えられる、つまりこの世界は滅んでいくのではなく完成されるのだとヨエルは語っています。そしてその新しい世界、来るべき完成された世界の様子を若者たちは見ることになる、年配者はまるで夢のようだと思いながら見るようになる、息子や娘たちは来るべき世界について語るようになるし、また僕やはしためのように取るに足りないと思われていた人たちまでも同じようになるとヨエルは語っています。
 ペトロはこの日、初めての教会の中で起こったことが、まさにヨエルの預言の実現なのだと語りました。それは確かなことで、語っているペトロ自身もガリラヤのしがない漁師だった人物です。魚の漁り方になら長けていたとしても、聖書や神の事柄について人々に教えたり説き明かすなど考えられないような人物、それがペトロです。けれども、そのようなペトロが人々の前で神のなさりようを伝えているのです。「来るべき終わりの時には、神が与えてくださる新しい世界について、僕やはしため、息子や娘たちが預言すると古の預言に言われていたけれど、まさにそのことが今起こっている」と、ペトロは伝えています。
 しがない漁師に神の言葉を語らせる。神がそのように人間を用いられる。それは聖霊の働きによって起こります。まことに不思議なことですが、しかし思えばそういうことは確かにあって、私たちも見聞きすることがあると思います。例えば、私はかつて調理師見習いでしたが、当時を知っている人が今日この場所に来るならば、「板場にいたはずの人が、何故この人が、神の御業について人々に語っているのだろうか」と不思議に思うことでしょう。けれども神は、どんな人であれ、ご自身のご計画によって召した人間を用いられます。そしてそれは伝道者だけとは限りません。神がキリスト者として召した一人一人が、その人らしい生活、歩みの中で用いられ、神のなさりようについて証ししていくということは有り得るのです。皆さんも、そのような立場に立たされることは有り得るのです。漁師であろうと、僕、はしためであろうと、神は人間を自由自在にお用いになります。神の御業をそのようにして伝えさせ、「この世界は滅びに向かっているのではなく、神が与えようとしておられる完成へと向かっているのだ」と世界中の人に告げ知らせようとしてくださるのです。

 神はご自身の御業を告げ知らせるために、一つの筋道をお立てになりました。それは、神の独り子であるナザレのイエスというお方を通して、私たちに神の慈しみを知らせるという筋道です。神の慈しみをこの世に知らせるために、神はご自身の独り子をお遣わしになりました。そしてこの世界においでになった主イエスは、この世界のそこかしこに満ちている人間の罪の破れと痛みをご覧になって、そのただ中に、罪の赦しと癒しと慰めを持ち運んでくださったのです。
 主イエスが地上のご生涯を歩んでおられる間、主イエスの行かれる所では様々な癒しが起こり、多くの人たちが慰められ勇気づけられ、主イエスに期待を持つようになりました。それは、この世界が神の慈しみのもとに置かれているのだということを垣間見せられるような出来事でした。主イエスのなさった数々の不思議な業は、「この世界は問題に満ち破れの多いけれど、この世界が神の怒りと憤りに滅びていく世界ではなく、むしろ神がこの世界に住む一人一人を憐れんでくださって、ご自身の慈しみに生きるようにと招いて救いを完成しようとしてくださる、そのように神に覚えられている世界なのだ」と教えてくださるためのものでした。22節でペトロが言っている通りです。「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです」。

 ところが、この神の慈しみ、憐れみの大きさは、私たちの想像を超えるところがあります。私たちは、神がただ私たちを憐れんで、私たちの問題や嘆きを解決してくださるのだとごく簡単に考えますが、しかし実は、問題の根っこというのは、私たち人間の中にあるのです。私たちがどんなに自分中心で僻みっぽく、狭い了見しか持ち合わせていないか、人間がどんなに罪人であるかということを神はよくご存知で、そのただ中に主イエスを送ってくださいました。普通であれば、神が送ってくださった救い主を通して豊かな神の慈しみと憐れみがもたらされて、不思議な業やしるしが行われたならば、そのことに驚くと同時に深く感謝して、自分もその神に信頼して生きようという生活が生まれてもおかしくないはずなのです。主イエスによってもたらされたしるしというのは、恐ろしいしるしではなく、私たちにとっては嬉しい有難いしるしだったからです。ですから、そのようなしるしに出会った人は、喜んで神の御名を讃えることが本来あるべき姿だろうと思います。ところが、そうはならなかったということが主イエスのご生涯を通して現れていることです。もちろん、不思議なしるしや業が行われたその当座は、その場にいた人は大いに驚いて喜びますが、その喜びや感謝は決して長続きしないのです。神が主イエスというお方を通してご自身の憐れみを私たちに施してくださっても、私たちの側は、それを受け取るだけ受け取って何の応答もしない、そういう意味で全く甲斐のないようなところがあります。譬えて言うならば、砂漠にジョウロで水を注いでいるようなものです。一時は喜んだり驚いたりしますが、すぐにそれに慣れてしまって、人々はもっと大きなしるしや奇跡を見たがるようになりました。
 そうなってしまう理由はどこにあるのか。それは一言で言えば、私たちがいつも自分中心に考え、自分の満足ばかりを願っている、そういう罪人であるというところにあります。自分が楽しんだり喜んだりする、何よりもそのことが大事で、そればかりを願ってしまう、私たちにはそういう癖があるのです。主イエスが私たちのただ中でしるしや奇跡を行い、神の憐れみと慈しみを示してくださっても、私たちはそれに感謝するどころか、むしろ当たり前になってしまう。そして、自分の気にいるような形で動かないのであれば、主イエスなど要らないとさえ言ってしまう。主イエスをこの世界から葬り去ったのは、そういう人間の自分中心のエゴです。そういう人間のエゴが主イエスを捕らえて十字架に架けるという仕方で現れたのです。

 ですから、ごく普通に考えるならば、私たち人間は救いようがない者だということになります。せっかく神が私たち人間を憐れんで、救い主を送ってくださって、その方が本当に神の慈しみを表してくださり、罪の赦しと新しい命がそこにあるのだと示してくださっても、私たちの側は、そういうお方を、自分が気に入っている間は喜んで受け入れるけれど、そうでなくなったら捨ててしまう。私たちは本当に救いようのない者で、神に対して失礼なあり方をしてしまうのです。そして挙げ句の果てに、十字架に架けてしまいました。そうであるならば、私たちが救われる道理はどこにもありません。むしろ神の怒りを受け、憤りのうちに滅ぼされてしまっても文句など言えません。

 ところが、神の憐れみは底知れません。私たちが、神が送ってくださった救い主に対して身勝手に振る舞うだろうことを承知の上で、独り子をこの世界に送ってくださったのです。そして、神の側では、あろうことか、そういう私たちの罪をすべて独り子の肩の上に乗せてしまって、この方が人間に裏切られて十字架に架けられ殺されていく、それを私たちの罪を清算する出来事として取り上げてくださったのです。23節でペトロは「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」と言っています。神がご自身の慈しみを表すために送ってくださったお方を人間は十字架につけて殺してしまった、けれども神はこのことを予め承知しておられたと言われています。主イエスの十字架での御苦しみの死は、私たちの身代わりとしての死であったために、私たちの罪を清算する救いの御業となっていました。「木に架けられて殺される」ことは、神に見捨てられた者の呪われた死ですが、それは主イエスご自身の責任ではなく、私たちの罪の身代わりとしての死なのです。主イエスには何の落ち度もありません。ですから神は、十字架の死の後に、主イエスを復活させてくださいました。ペトロは、自分たちはそのことの証人だと語っています。32節「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」。

 今日のペトロの説教は、枝葉を省いて幹のところを考えてみましょう。私たちがいつも自分中心にものを考え、お互いに傷つけ合いこの世を生き難い場所にしている。自分自身も生きづらくなって始終問題が起こり、人間の世界全体が病んでいる。それをご覧になっている神は、ご自身の慈しみと愛を知らせるために、独り子を送ってくださったのです。ところが、私たちの病は、ただ神の憐れみや慈しみを見せていただくだけで治るような生易しいものではありませんでした。神の憐れみの出来事を、自分の思い通りだった時には喜びますが、そうでなければ妬ましく疎ましく思って、遂に独り子を磔にして抹殺してしまう、取り返しのつかないことをしてしまうのです。
 神はしかし、そういう私たちの罪の惨めさの上を行かれます。人間がそれほどまでに病んでいるということをご存知で、神はご自身が送った独り子を人間が十字架に架けて殺してしまうだろうということを、まさに神ご自身の御業として用いられるのです。十字架に架けられる主イエスの上に罪をすべて背負わせ、その死によって私たちの罪をすべて滅ぼしてくださったのです。主イエスを通して、神がそのような御業をなしてくださいました。そして、この主イエスの十字架を見上げて、そこで自分の罪が清算され赦されていることを信じて生きていくようにという新しい生活を私たちに備えてくださったのです。

 大変不思議なことですが、ここで起こっている出来事は、聖霊が降って起こったことだとペトロは説明していますが、ペトロは聖霊の話をするのではなく、主イエスの話をしています。どうしてかというと、聖霊の働きは、主イエスの御業に私たちを結びつけるものだからです。神が私たちのために主イエスを通して救いの御業を行なってくださった。聖霊は、その主イエスによる救いを私たちに固く結ぼうとして働いてくださるのです。
 ペトロは今、そういう聖霊に動かされていますから、ただ事の次第を語り聞かせるだけでは終わらず、この日説教を聞いた人たちを、更に、救い主イエスのもとに招こうとします。38節39節で、この日説教を聞いた人たちが「自分はどうしたらよいのか」と尋ねたことに対して、こう答えました。「すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです』」。
 この朝、ペトロの説教を直に聞いた人たちの中に、ナザレのイエスという名を知らなかった人はいなかったでしょう。一月半ほど前に十字架に架けられエルサレムで処刑されたことはよく知れ渡っていたでしょうから、この日、ペトロの話を聞こうと集まってきた人の中で、イエスという名を知っている人たちは多かったでしょう。けれども、それ以上の知識を持っている人はいなかったでしょう。ところが、ただイエスという名を知っているだけの人たちが、大変不思議なことですが、この日のペトロの説教を聞いて、「イエス・キリストの名による洗礼を受ける」ことになりました。
 名前を知っていただけで中身も知らずに、ペトロの説教を聞いただけで洗礼を受けた人がいる。そうだとすると、洗礼を受けるために必要なことは、この日のペトロの説教の中に語り尽くされているということになると思います。

 主イエスの名によって洗礼を受けるということは、自分中心の生き方、自分に仕え自分が喜ぶことばかり願って生きるのをやめて、主イエスによって罪を赦され、神との交わりの中に置かれている者なのだと信じて、主イエスを見上げながら神に従う者として人生の向きを変えようとしたということです。今までの自分とは違う、新しい人間となって生き始めること、それが主イエスの名によって洗礼を受けるということです。
 そして、ここでペトロは言っています。「決心をして洗礼を受けるならば、あなたの罪は赦される。そして賜物として聖霊が与えられるようになる」と告げました。これは平たく言いますと、主イエスによって新しくされていることを信じて、今から生き直そうと思って洗礼を受けたならば、神がきっとそのあなたの決心を一生支え続けてくださるということです。そしてその約束は、「あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも」、どんな人にも、決心をするならば与えられるのだとペトロは語りました。決心して洗礼を受けるならば、聖霊が送られて十字架の主の赦しと、神の愛と慈しみから離れることのない者にされるとペトロは言いました。「信じて洗礼を受けなさい」、けれどもそれは、決心しなければ始まらないことでもあるのです。

 ペトロはこの日、話を聞いた人たち全てに「邪悪なこの時代と決別しなさい」と勧めました。そして主イエスの十字架による赦しと新しくされる約束を信じて生きるようにと招きました。この言葉を信じて洗礼を受けた人たちは、最初の教会のメンバーになりました。初代教会と言われますが、この教会の中では、「使徒の教えと相互の交わり、そしてパン裂きと祈りが熱心に捧げられた」と言われています。40節から42節にかけて「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」とあります。
 「使徒の教え」はまさしくこの日、ペトロが語って聞かせた「主イエスによって新しい生活が訪れているよ」という教えです。それは聖書を通して語りかけられている御言葉と言ってよいと思います。聖書の御言葉に繰り返し聞いて、神のなさりようは何なのかということを真剣に問うということが、初代教会ではなされていました。そして互いに真実に神に愛され救われた者として、互い同士の間で愛を行なっていくような交わり、パン裂きは聖餐式、そして祈ること。最初の教会の様子として語られていることは、今日私たちの教会の中でも同じように大切にされていることではないでしょうか。そしてそれは、「聖霊が注がれたことで始まっている。聖霊の働きによって支えられながら行われている」と、ここに語られていることを覚えたいと思います。

 「洗礼を受け、罪を赦された者として生きるようになりなさい。きっとあなたにも聖霊が与えられますから」と、ペトロはすべての人に宣べ伝えました。私たちの教会生活にも、その通りのことが起こっているということを覚えたいのです。
 教会で証しをするとき、多くの人が言い訳のように「わたしの信仰は弱く、薄い」と言うことがありますが、私たちはもともとそういう人間なのです。神がどんなに慈しみを示してくださり、愛を見せてくださろうと、それだけで変われるような者ではないのです。ですから、私たちが自分中心に生きてしまったり、主イエスや神を忘れてしまうことは、残念なことですが、どうしようもなく私たちが抱えている事柄です。
 けれども、そういう私たちが不思議なことに教会の群れから離れないで、神から離れないで何年も生きることが許されていること、このことこそが聖霊の御業であって、私たちが心しなくてはならないことです。
 短期間、何かに熱中するという人は多くいますが、同じことを何十年もやり続ける人は滅多にいません。ところがキリスト者はまさにそうなのです。私たちは自分の信仰生活について考えれば、常に神を覚え続けていけるかというと自信がありませんけれど、ここまで持ち運ばれてきましたということは言えるのではないでしょうか。それは私たちの上にも聖霊が働いているからなのです。そしてそのように私たちを持ち運んでくださっている聖霊は、私たちの上に働いて力をもたらします。見通しの立たない困難な状況に置かれる時にも、きっと今この時にも主イエスが共に歩んでくださることが私たちの慰さめとなり力となり、生活の励みになるのです。そして、きっとその約束の通りに、私たちは最後の完成に向かって持ち運ばれていくのです。

 私たちは、このことを信じて、聖書の教え、お互いの交わり、聖餐に与り、祈ることに心を傾け歩む者とされたいと願います。
このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ