2019年6月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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ペトロの説教 | 2019年6月第3主日礼拝 6月16日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/使徒言行録 第2章14〜47節 | |
2章<14節>すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。<15節>今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。<16節>そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。<17節>『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。<18節>わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。<19節>上では、天に不思議な業を、下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。<20節>主の偉大な輝かしい日が来る前に、太陽は暗くなり、月は血のように赤くなる。<21節>主の名を呼び求める者は皆、救われる。』<22節>イスラエルの人たち、これから話すことを聞いてください。ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です。神は、イエスを通してあなたがたの間で行われた奇跡と、不思議な業と、しるしとによって、そのことをあなたがたに証明なさいました。あなたがた自身が既に知っているとおりです。<23節>このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。<24節>しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。<25節>ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。<26節>だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。<27節>あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を/朽ち果てるままにしておかれない。<28節>あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』<29節>兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。<30節>ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。<31節>そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。<32節>神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。<33節>それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。<34節>ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。<35節>わたしがあなたの敵を あなたの足台とするときまで。」』<36節>だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」<37節>人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。<38節>すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。<39節>この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」<40節>ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。<41節>ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。<42節>彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。<43節>すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。<44節>信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、<45節>財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。<46節>そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、<47節>神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。 |
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ただいま、使徒言行録2章14節から47節までをご一緒にお聞きしました。聖霊が降って初代教会が誕生し、新しい言葉が与えられた時、ペトロをはじめとする12人の弟子たちが立ち上がって、その場に集ってきた人たちに語って聞かせた説教の言葉がここに記録されています。40節に「このほかにもいろいろ話をして」とありますので、ここに記されている言葉だけが、この日にされた説教のすべてということではないようです。しかしたとえすべての言葉が記録されているわけではないとしても、聖霊が降って新しい言葉が与えられた最初の日に、教会の中でどんな説教がされていたのかということは興味あることではないでしょうか。教会に与えられた言葉は、一体どんな言葉だったのでしょうか。 14節に「すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。『ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください』」とあります。ここではペトロが他の11人の弟子たちと共に「立ち上がって話していた」と言われています。説教者が立ち上がって説教するのは、今日の教会では一般的だろうと思います。けれども、当時のユダヤ教の会堂では、話をするラビが座っていて、教えを聞く人たちの方が立っていたと言われています。そう考えますと、例えば、主イエスもマタイによる福音書5章から7章に出てくる「山上の説教」をお語りになった時、座って話されたと記されています。またルカによる福音書で、湖上から岸辺にいる群衆に話された時にも、主イエスは舟の中に座って話され、群衆は岸辺に立って聞いていました。当時は、教える側が座り、聞く側が立つことが普通だったようです。そうしますと、ここでペトロたち12人が立ち上がって話しているというのは異例なことです。ペトロは立っていますが、これは他者に教えるのではなく聞く側の姿ですから、その姿勢からすれば、ペトロは教える者として語っているのではなく、聞いている人として語っていることになります。ペトロは自分が教えているのではなく、自分も主イエスから教えられたことを語っているのです。 神はご自身の御業を告げ知らせるために、一つの筋道をお立てになりました。それは、神の独り子であるナザレのイエスというお方を通して、私たちに神の慈しみを知らせるという筋道です。神の慈しみをこの世に知らせるために、神はご自身の独り子をお遣わしになりました。そしてこの世界においでになった主イエスは、この世界のそこかしこに満ちている人間の罪の破れと痛みをご覧になって、そのただ中に、罪の赦しと癒しと慰めを持ち運んでくださったのです。 ところが、この神の慈しみ、憐れみの大きさは、私たちの想像を超えるところがあります。私たちは、神がただ私たちを憐れんで、私たちの問題や嘆きを解決してくださるのだとごく簡単に考えますが、しかし実は、問題の根っこというのは、私たち人間の中にあるのです。私たちがどんなに自分中心で僻みっぽく、狭い了見しか持ち合わせていないか、人間がどんなに罪人であるかということを神はよくご存知で、そのただ中に主イエスを送ってくださいました。普通であれば、神が送ってくださった救い主を通して豊かな神の慈しみと憐れみがもたらされて、不思議な業やしるしが行われたならば、そのことに驚くと同時に深く感謝して、自分もその神に信頼して生きようという生活が生まれてもおかしくないはずなのです。主イエスによってもたらされたしるしというのは、恐ろしいしるしではなく、私たちにとっては嬉しい有難いしるしだったからです。ですから、そのようなしるしに出会った人は、喜んで神の御名を讃えることが本来あるべき姿だろうと思います。ところが、そうはならなかったということが主イエスのご生涯を通して現れていることです。もちろん、不思議なしるしや業が行われたその当座は、その場にいた人は大いに驚いて喜びますが、その喜びや感謝は決して長続きしないのです。神が主イエスというお方を通してご自身の憐れみを私たちに施してくださっても、私たちの側は、それを受け取るだけ受け取って何の応答もしない、そういう意味で全く甲斐のないようなところがあります。譬えて言うならば、砂漠にジョウロで水を注いでいるようなものです。一時は喜んだり驚いたりしますが、すぐにそれに慣れてしまって、人々はもっと大きなしるしや奇跡を見たがるようになりました。 ですから、ごく普通に考えるならば、私たち人間は救いようがない者だということになります。せっかく神が私たち人間を憐れんで、救い主を送ってくださって、その方が本当に神の慈しみを表してくださり、罪の赦しと新しい命がそこにあるのだと示してくださっても、私たちの側は、そういうお方を、自分が気に入っている間は喜んで受け入れるけれど、そうでなくなったら捨ててしまう。私たちは本当に救いようのない者で、神に対して失礼なあり方をしてしまうのです。そして挙げ句の果てに、十字架に架けてしまいました。そうであるならば、私たちが救われる道理はどこにもありません。むしろ神の怒りを受け、憤りのうちに滅ぼされてしまっても文句など言えません。 ところが、神の憐れみは底知れません。私たちが、神が送ってくださった救い主に対して身勝手に振る舞うだろうことを承知の上で、独り子をこの世界に送ってくださったのです。そして、神の側では、あろうことか、そういう私たちの罪をすべて独り子の肩の上に乗せてしまって、この方が人間に裏切られて十字架に架けられ殺されていく、それを私たちの罪を清算する出来事として取り上げてくださったのです。23節でペトロは「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」と言っています。神がご自身の慈しみを表すために送ってくださったお方を人間は十字架につけて殺してしまった、けれども神はこのことを予め承知しておられたと言われています。主イエスの十字架での御苦しみの死は、私たちの身代わりとしての死であったために、私たちの罪を清算する救いの御業となっていました。「木に架けられて殺される」ことは、神に見捨てられた者の呪われた死ですが、それは主イエスご自身の責任ではなく、私たちの罪の身代わりとしての死なのです。主イエスには何の落ち度もありません。ですから神は、十字架の死の後に、主イエスを復活させてくださいました。ペトロは、自分たちはそのことの証人だと語っています。32節「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です」。 今日のペトロの説教は、枝葉を省いて幹のところを考えてみましょう。私たちがいつも自分中心にものを考え、お互いに傷つけ合いこの世を生き難い場所にしている。自分自身も生きづらくなって始終問題が起こり、人間の世界全体が病んでいる。それをご覧になっている神は、ご自身の慈しみと愛を知らせるために、独り子を送ってくださったのです。ところが、私たちの病は、ただ神の憐れみや慈しみを見せていただくだけで治るような生易しいものではありませんでした。神の憐れみの出来事を、自分の思い通りだった時には喜びますが、そうでなければ妬ましく疎ましく思って、遂に独り子を磔にして抹殺してしまう、取り返しのつかないことをしてしまうのです。 大変不思議なことですが、ここで起こっている出来事は、聖霊が降って起こったことだとペトロは説明していますが、ペトロは聖霊の話をするのではなく、主イエスの話をしています。どうしてかというと、聖霊の働きは、主イエスの御業に私たちを結びつけるものだからです。神が私たちのために主イエスを通して救いの御業を行なってくださった。聖霊は、その主イエスによる救いを私たちに固く結ぼうとして働いてくださるのです。 主イエスの名によって洗礼を受けるということは、自分中心の生き方、自分に仕え自分が喜ぶことばかり願って生きるのをやめて、主イエスによって罪を赦され、神との交わりの中に置かれている者なのだと信じて、主イエスを見上げながら神に従う者として人生の向きを変えようとしたということです。今までの自分とは違う、新しい人間となって生き始めること、それが主イエスの名によって洗礼を受けるということです。 ペトロはこの日、話を聞いた人たち全てに「邪悪なこの時代と決別しなさい」と勧めました。そして主イエスの十字架による赦しと新しくされる約束を信じて生きるようにと招きました。この言葉を信じて洗礼を受けた人たちは、最初の教会のメンバーになりました。初代教会と言われますが、この教会の中では、「使徒の教えと相互の交わり、そしてパン裂きと祈りが熱心に捧げられた」と言われています。40節から42節にかけて「ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、『邪悪なこの時代から救われなさい』と勧めていた。ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」とあります。 「洗礼を受け、罪を赦された者として生きるようになりなさい。きっとあなたにも聖霊が与えられますから」と、ペトロはすべての人に宣べ伝えました。私たちの教会生活にも、その通りのことが起こっているということを覚えたいのです。 |
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