ただいま、使徒言行録2章1節から4節をご一緒にお聞きしました。弟子たちの上に聖霊が降った、聖霊降臨の出来事が述べられている箇所として広く知られている記事です。
1節に「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とあります。この1節で既に2つのことが述べられています。一つは「五旬祭の日が来た」、すなわち「時が満ちた」ということ。もう一つは「一同が一つになって集まっていた」ということです。この「一同」とは誰でしょうか。1章15節に出てくる人たちを指しているものと思われます。そこには、「120人ほどの人たちが一つになっていた」と言われており、その120人の真ん中にいたのはペトロをはじめとする使徒たちですが、1章14節では「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」と言われていますから、120人ほどの人が主イエスの家族や弟子たちと心を合わせて、熱心に、主イエスにお祈りを捧げていたということになると思います。
先週の説教でも申しましたが、弟子たちは、甦った主イエスが40日間自分たちと共に歩んでくださり天に昇られた後になって、初めて、主イエスにお祈りを捧げるようになっていました。意外に思う方がおられるかもしれませんが、主イエスが地上のご生涯を歩んでおられた当時は、弟子たちは主イエスと親しい交わりを持っていたので、「この方こそ、神から遣わされたメシアである」と言うことはあって、主イエスに向かって祈るということはありませんでした。それは、恐らくあまりにも身近に主イエスがおられたので、祈るよりも、主イエスに直に話せば事足りたからだろうと思います。そして、自分たちが先生だと信じて従ってきた主イエスが十字架に架けられて亡くなられた時に、弟子たちは深い嘆きと絶望を経験して、すっかり落ち込んでしまいました。けれども、主イエスが甦って再び訪れてくださったことで大いに慰められ、40日間復活の主イエスとの交わりを与えられ、その後主イエスは弟子たちを残して天に上げられてからは、今度は、弟子たちは嘆いたり落ち込んだりするのではなく、主イエスがおられる天を見上げて、神の右の座についておられる主イエスに向かって心を向けて祈りを捧げる者へと変えられて行きました。
弟子たちはもともとガリラヤに住むユダヤ人ですから、ユダヤ教の神を最初から信じていたに違いありません。しかし思い返したいのですが、主イエスが捕らえられ十字架に架けられた時の弟子たちはどのようだったでしょうか。蜘蛛の子を散らすように逃げ散って、怯えて隠れたり固く戸を閉ざしたりしてはいましたが、まさに自分たちの救い主が取り去られたということで自分たちの神に祈るという姿があったかというと、そういう姿があったとは聖書に出てきません。あるいは、主イエスの復活を聞かされても、なお故郷に引き上げようとしていた弟子たちがいました。怯えたり引き篭もったり故郷に帰ろうとする弟子たちの姿は福音書に語られていますが、「どうか私たちを助けてください」と神に祈った弟子たちの姿は語られていません。主イエスが十字架に架かり地上におられなくなった時、弟子たちはまだ祈ることができませんでした。けれども、今日の箇所では違っています。主イエスが天に上げられて見えなくなる、その時に、120人ほどの人たちが一つになって心を合わせて天を見上げ、主イエスに祈るようになっていました。
私たちは、キリスト者は祈ることが当たり前だと思っていますから、今日の箇所を聞いても、あまり違和感なくあっさり読み過ごしてしまうかもしれません。しかしこれは、十字架直後の弟子たちの姿から考えますと、驚くような変化だと気づかされる出来事です。
今日私たちは、家族や身近な人が病を得ているとか、何か辛い境遇に置かれていると聞かされると、その方のことを覚えて祈るということを、さも当たり前のようにすることがあると思います。私たちはあまり深く考えずに、誰かのことを覚えて祈ると思います。神を信じている、だから祈ることができるのは幸いなことだと思うことはあっても、何か特別のことをしているとは思わずにしているでしょう。けれども、主イエスの十字架前後の弟子たちの姿をよくよく思い出しながら考えますと、神を信じれば一人でに祈れるようになるという訳ではないようです。主イエスの弟子たちは、主イエスが地上で自分たちの身近に共に歩んでくださっていた時には、主イエスがそこにおられたので、祈る必要はありませんでした。そして、十字架の出来事によって主イエスが取り去られてしまった時には、もちろん、頼るべき目当てがなくなってしまったのですから、自分たちの保護と導きを父なる神に祈り求めても良かったのですが、主イエスが取り去られてしまったショックで、神の御心が一旦まったく分からなくなってしまい、神がよそよそしいお方のように思えて祈ることができなかったのです。
ところが、そういう弟子たちのもとを甦りの主イエスが訪れてくださって、一人一人に出会ってくださり、「わたしは確かに、死を超えて生きている」と弟子の一人ひとりに確信させてくださり、そして主イエスが天に上げられて行かれる、その時には、弟子たちは熱心に天を見上げ祈る者へと変えられていたのだということを、今日の箇所は伝えています。
私たちキリスト者が何かにつけ、天におられる父なる神を見上げ、また主イエスのお名前を通して祈ることができるようになっているのは、もともと私たちの中に備わっている宗教性の表れというようなものではなく、復活の主イエスが私たち一人ひとりと出会ってくださり、私たちに働きかけてくださり、私たちの信仰を励ましてくださった結果もたらされている「信仰の賜物」だと言ってよいと思います。弟子たちが主イエスを見上げて祈るようになったのは主イエスが天に昇られた時だと言いましたが、主イエスが天に上げられたからこそ、弟子たちの心も天に向かうように導かれたのです。
私たちが祈る時には「天の父なる神さま」と言って祈ると思いますし、あるいは讃美歌2編1番に「心を高く上げよう」とありますが、私たちが無理やり自分たちの心を天に向かわせているのではないのです。何もなかったのに、私たちが突然、天に向かって祈り始めるということではありません。福音書の最後と使徒言行録の始めを読んで分かることがあります。十字架によって主イエスが取り去られた時には、弟子たちは本当に惨めになってすっかり傷つき沈み込んでいるのですから、とても自分たちから心を上げることなどできませんでした。ところが、そういう弟子たちの所に甦りの主イエスが訪れてくださって、「わたしはここにいる。確かにあなたたちと共にいるよ」と知らせてくださって、そして主イエスが天に上げられることで、弟子たちは、天を見上げて祈ることができるようになっているのです。一度十字架で死なれた主イエスが陰府にまで下り、陰府にまで下ってくださったお方として私たちのもとを訪れてくださって、私たちはうなだれ希望を失いやすい弱い魂を持っていますが、そういう私たちに「確かにわたしは復活している」と示しながら、例えて言うならば、主イエスがその腕に抱いて私たちを持ち運んでくださっているのです。
ですから「心を高く上げよう」というのは、主イエスと関わりのないところで私たちが勝手に自分で心を上げることではありません。そうではなく、罪と破れの中に沈み込んでいる私たちの魂を主イエスが天にまで運んでくださっている、その働きに、私たちも自分自身を手渡す、そういうことがあってこそ、私たちは本当に自分の心を高く高く神に向かって上げることができるようにされるということが起こるのだと思います。
主イエスが仲立ちしてくださることで、私たちは「天の父よ」と呼びかけて祈ることができ、また心を高く上げて神を賛美することができるようになります。そしてそういう祈りと賛美の生活の中で、私たちは、天におられる神との交わりを親しく経験するようになるのです。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていた」と何気ないような書き方になっていますが、1章14節15節「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた」という言葉を合わせて聞き、また十字架直後の弟子たちの様子を思い返しながらこの箇所を聞くときに、本当に大きな変化が弟子たちの中に生じている、そして弟子たちの一人一人が天に上げられた主イエスを通して天の父とも固く結ばれた者とされ祈っている、このことを是非覚えたいと思います。
天におられる主イエスを見上げ、天におられる父なる神に心を上げて祈る、そのようにして天へと思いを向けていくその時に、私たちは、天からの出来事を知るようになります。天におられる神は、もちろん、ご自身が良しとされれば、いつでもこの地上に御業をなさることがお出来になります。今も私たちの上に御業をなさってくださっているかもしれません。ただ、神が私たちに何かをしてくださったとしても、私たちの側が思いを天に向け神の御業を期待していない時には、せっかく神がなさってくださった御業に私たちが気づかないこともあり得ると思います。神が私たちの毎日の生活を支えてくださっている、必要をすべて備えて人生を歩ませてくださっている。私たちはそのことをしばしば祈りにおいて感謝しますが、しかし、感謝しないという人も世の中にはいるのです。自分の人生は自分のものだと思って生きてしまう人は大勢います。それはどうしてかというと、その人が神に何も期待しないからです。私たちが神に自分の人生を「お支えください」と願い、朝には「この一日をお守りください」、夕べには「一日を過ごせてありがとうございました」と祈っている時には、私たちは、自分に与えられている一日が神から与えられた賜物に満ち支えられた一日だと思って、一日を終えて休むことができるのです。けれども、もし私たちが神に何も期待せず祈りもしないとすれば、その一日は私たちにとって、何事もなく過ぎていった一日、神がいようがいまいが関わりない一日だと思うに違いありません。
ですから、復活した主イエスが弟子たちのところに40日間訪れてくださり、絶望と悲しみのうちにあった弟子たちをもう一度、甦りの主イエスとの交わりの中に置いてくださったということは、弟子たちにとって本当に有り難い主イエスのなさりようだと思わずにはいられないと思います。主イエスが訪れてくださり天に上げられた、そのことによって私たちは、地上にいながら思いを天に向ける者へと変えられたからです。もし主イエスが弟子たちを訪れてくださらなければ、弟子たちは、神を信じていると思いながらも、天と自分が一つに結ばれるという感覚は持てなかったと思います。主イエスが40日間弟子たちと過ごされた意味というのは、弟子たちが天に向かって思いを向けることができるための備えをなさってくださったということです。復活の主イエスが弟子たちと親しく交わりを持ってくださり、ご自身が天に上げられることで、弟子たちの思いをもう一度、天におられる神へと向けてくださる。そしてそのことによって、弟子たちは、聖霊がまさに天から自分たちの上に注がれたのだということを知ることができるようにされているのです。弟子たちが聖霊を受け取る準備のために、復活の主イエスは弟子たちを訪れ天に上げられました。
さて、そのように主イエスが準備してくださった上で聖霊降臨の出来事が起こっているのですが、聖霊降臨というこの出来事は、理解しようとすると誠に難しい書き方がされていると思います。聖霊降臨は、私たちが頭で理解する事柄ではなく、一人一人が自分の人生の上に経験させられるような性質の事柄だからだと思います。聖霊降臨を経験した弟子たちは、何とかして自分たちのこの経験を言葉に言い表そうとして苦心しています。2節3節に「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。この日経験したことを、弟子たちもどう言い表したら良いのか、困りながら語っているように思います。それはこの箇所に「ような」という言葉が使われていることで分かります。
「突然」とありますから、弟子たちの経験は突然訪れました。「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」そして「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」た。「激しい風が吹いて来るような音」ですから、風の音に似ているとは言っていますが、地上を駆け抜ける風の音ではないのです。また「炎のような舌」と言われると、私たちはますます困ってしまいます。私たちにとって、炎と舌は別々なものだからです。ですからこのことを私たちが映画のワンシーンのように思い描こうとしても、なかなか難しいと言わざるを得ません。
ペンテコステの朝に、弟子たちは、口では容易に言い表せないような経験をしました。そしてそれを何とか伝えようとしています。分かりにくいことですが、その幾分かでも受け止めたいと思います。
ここに言われていることをどう受け止めたらよいのでしょうか。弟子たちは多分この時、自分たちが今までの自分と違う新しいものに造り変えられる、そういう経験をしたのではないか、そのことを表現するために「激しい風が吹いて来るような音」と語っているのではないかと思います。「激しい風」とは何のことを言っているのでしょうか。創世記の最初、天地創造の記事の最初、創世記1章1節2 節に「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。神の天地創造の始め、一切は混沌としていたと語られています。何の形も何の秩序もない、光もなく真っ暗な得体の知れない水、深淵と表現されていますが、真っ黒な水の表面を「神の霊が動いていた」と言われています。「神の霊」と訳されている「霊」という言葉は、ヘブライ語でもギリシャ語でも「息」「風」とも訳される言葉です。つまり、天地創造の最初の場面は、一切が混沌としたところに神が息を吹きかけて、何の形のないところに形をもたらせようとして働きかけておられる、そういう様子です。真っ黒な水、水は形を取りませんから扱いづらいものですが、神はその水に何とか形を与え秩序を与えようとしてご自身の息を盛んに吹きかけておられるのです。ペンテコステの朝に弟子たちが耳にした音は、そういう神の激しい息遣いです。
弟子たちはそれまで、主イエスを救い主だと言いながらも、しかし信仰者として、神の民として、何かの形を持っていたかというと、何の形も持たないような人たちでした。弟子たちは、言葉の上では「どんなことになっても主イエスに従っていく」と言い、心の中では勇敢でしたが、実際に主イエスが捕らえられた時には、一目散に逃げ散ってしまいました。そして引き篭もり鍵をかけて自分を守ろうとしたり、希望を失って郷里に帰ろうとしました。弟子たちは「主イエスに従って行く」と言いながらも、実際には従っていく形を何も持っていませんでした。けれども、そういう弟子たちに神は、弟子としての形を与えようとしている、主イエスに従って行くという一人の人間しての姿を与えようとしている、その音を弟子たちは聞いたのでした。
神の民、主イエスの弟子だと言いながら全くその実を持たない弟子たちに、新しい形を神が与えようとしておられる、神が弟子たちを新しい者、主イエスに従うという形を持つ者へと変えようとしておられるのです。
弟子たちは、これまで聞いたことのないような言葉が自分たちに迫ってくる、そういう経験として、神の働きかけを知りました。それまで思いもよらなかったような言葉を聞かされ、その言葉によって、不思議なことに自分が新しい者に変えられていくという経験をしました。それが「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」ということです。この翻訳は、随分と穏やかな表現だと思います。原文では「舌」は「言葉」ですが、「炎のように燃えている言葉が、一人一人の上に鞍を置いてどっかりと腰を下ろした」と書いてあるのです。「一人一人の上にとどまった」とありますが、「とどまる」は原文では、馬や牛の上に鞍を置いて跨るという言葉が使われています。その上に居座ると言ってもよいでしょう。馬であれ牛であれ、鞍を置かれてしまうと、その後は御者の思いに従って走るようになります。鞍を置かれなければ、野生のまま、自分の行きたい方に行くことができますが、鞍を置かれ御者がその上に座れば、御者に従い御者のために働くようになります。ペンテコステの朝に弟子たちが経験したのは、「燃えるような言葉が自分の上に跨った」という経験なのです。突然、言葉が自分の上にやってきて、そして自分を動かすようになったのだと語られています。
弟子たちは、この時までは、例えて言うならば野生の獣のようなところがあって、「わたしは主イエスに従っていきます」と言いながらも実際には自分の思いのようにしか行動できず、主イエスを見限って逃げ散っていくような者でした。ところが、聖霊が降った時に、そういう弟子たちが変わり始めるのです。それまで自分の思いを実現することだけで生きてきた弟子たちに、神の御言葉、神の御心に従って生きようとする思いが生まれてくるのです。
聖霊が私たちの上に働く時には、その人はもはや、自分が自分の主人であることを辞めるようになります。もちろん私たちは、それまでずっと自分中心に生きてきましたから、聖霊が降ったからと言っても急に天使のように神に従って生きていくことはできませんが、それでも私たちは、どこかに、自分の思いではなく神の御心に従って生きるのだという思いが生まれてくるのです。そして、そういう私たちのところに主イエスが来てくださって、住んでくださるようになるのです。主イエスが鞍を置いて、私たちの上に座り込んでくださるようなことが起こるのです。そしてその時には、聖霊を受けた人たちは、もはや自分の思いだけで行動するのではなく、神の御心を尋ね求め主イエスこそが自分の主なのだと思って従う生活を始めるようになるのです。
ペンテコステの出来事の最後、4節には不思議なことが語られています。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。聖霊に満たされると、自分の話したことのない異国の言葉で話し出したと言われています。けれども、原語で読みますと、ここに「国」という言葉はありません。ですからそのまま読みますと、「霊が語らせるままに別の言葉を話すようになった」となります。「キリスト者は聖霊の力によって元々の自分とは違う言葉を語るようになる」とこの箇所は告げています。それは聖書の箇所を読んでも、また自分自身の生活においても思い当たることがあるのではないでしょうか。
例えば、使徒パウロは、キリスト者を迫害する急先鋒でしたが、主イエスとの出会いを通じて回心し、キリストの使徒となって、それまでとは全然違う言葉を語るようになりました。私たちも同じようなことがあるのではないでしょうか。自分のことしか考えず周りに辛く当たる、とても付き合いづらかった人が、聖霊の働きによって信仰を持つようになって変えられる、その時には以前とは全然違う姿で生活を始めるということがあり得るのではないでしょうか。聖霊が働く時に私たちは、今までの自分とは違う、主イエスに伴われ神に信頼し、主イエスに自分を明け渡して主イエスに従って生きようとする、そういう新しい者に変えられていくのです。聖霊が働いて私たちが新しい者にされていく、そのことを私たちが自分に起こっている変化だと率直に認め、感謝したいと思います。
私たちは元々は、神に祈ることすらできないような人間でした。生まれてからひとりでにお祈りできるようになる人はいません。教会学校の子供たちを見ていても分かりますが、祈りを教えれば言葉だけをなぞることはできます。けれども、そこから本当に祈るようになるためには、聖霊が働くのだろうと思います。心の底からアーメンと思って祈る、そこから自分の神に対する願いや思いが続いて出てきて神に向かって祈るようになっていく、これは教えてできることではありません。神が働いてくださり、祈ることができるようにされていくのです。その根底にあることは、甦りの主イエスが私たちに出会ってくださって、「確かにわたしはいる」と信仰を励ましてくださっているということです。
私たちは、私たちの中に起こっている新しい好ましいあり方があるのだということを認めて、それが更に私たちの中で強められ確かにされるように祈り願う者とされたいと願います。そして遂には、私たちの中で「主イエス・キリストがわたしの全てです」と言える完成の日を目指して、希望を持って、聖霊がわたしの上に働いてくださるように、わたしが神の民として、主イエスの僕として相応しい姿を取ることができるように祈り願いながら、この地上の生活を歩みたいと願います。 |