2019年3月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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そんな人は知らない | 2019年3月第5主日礼拝 3月31日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マタイによる福音書 第26章69〜75節 | |
<69節>ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。<70節>ペトロは皆の前でそれを打ち消して、「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。<71節>ペトロが門の方に行くと、ほかの女中が彼に目を留め、居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。<72節>そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。<73節>しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」<74節>そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。<75節>ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 |
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ただいま、マタイによる福音書第26章の69節から75節までをご一緒にお聞きしました。主イエスに一番近かった弟子のペトロが、主イエスのことを三回知らないと言ってしまった、ペトロの失敗の話、ペトロの否認などと言い習わされている箇所です。 今日は、このようにペトロの失敗について聞いていますが、先週聞いた箇所に、今日のことに直接関わっているような言葉が記されていました。57節58節に「人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた」とあります。注意して読みますと、大変興味深い書き方がされています。この時ペトロは「遠く離れてイエスに従っていた」と言われています。これはとても微妙な言い方だと思います。ペトロはこの時、主イエスから離れていたのか、それとも近くにいたのでしょうか。原文で読みますと、「ペトロは彼に付いて行こうとした」とあります。日本語訳では最後に「従っていた」となっていますが、原文ではまず「ペトロはイエスに従っていた」とあります。けれども「従う」という言葉をよく読んでみますと、「付いていった、従った」というはっきりした言い方ではなく、「付いて行こうとしていた、従いつつあった」という言葉です。ペトロ自身としては従おうとしていた、自分としては従っていたつもりなのです。けれども、従って行こうとする様子はどうだったかと言うと、「遠く離れて」と書いてあるのです。ペトロの気持ちは主イエスに付いて行こうとしているのですが、その思いとは裏腹に、実際には遠く隔たってしまっているのです。 実は、マタイによる福音書は最初から最後まで一貫して、「人が神さまと共にあるとはどういうことなのか」ということを問題にしている福音書です。この福音書は系図で始まります。知らない人の名前ばかりで、「さあ、聖書を読もう」と思って開いた1ページ目から取っ付きにくいのです。しかも、旧約聖書を読んでいれば皆分かる人の名前かと言うと、そういうことでもありません。マタイによる福音書の系図にしか出てこない人もいるのです。けれども、どうしてそこに書き留められているかというと、それは、人の思いを超えて、神がその一人一人を覚え持ち運んでくださったことは確かなことであると言っているのです。ですから系図の最後には、ヨセフから主イエスに繋がっていると記し、主イエスの誕生の記事には「ヨセフよ、恐れずにマリアを受け入れなさい。これはインマヌエルと言われていたことが実現するためだ」と書かれているのです。つまり、「神さまが私たちと共にいるということが実現する。それが、主イエスの誕生なのだ」と言って始まるのがマタイによる福音書なのです。 ペトロは、自分が主イエスを思う気持ちによって主イエスと共にいると思っています。自分の気持ちに動かされるようにして、自分は大祭司の中庭にまでついて行っていると思っているのです。ペトロにとっては、自分と主イエスを隔てているのは壁一枚だと思っています。主イエスのすぐ側にいると思っているのです。ところが聖書が伝えていることは、そういうペトロが実は、主イエスを捕らえた下役たちの間に座って、そこにすっかり溶け込んでいるようだったということです。今日の箇所は、58節で言われていた「遠く離れてイエスに従っていた」という言葉の内容の説明のようになっています。ペトロ自身は死の危険をおかしても主イエスに従っていくというつもりでいましたが、実際にはそうではなかったということが、今日の箇所では次第に明らかになっていくのです。 では、そのきっかけは何かというと、一人の女中の言葉です。69節に「ペトロは外にいて中庭に座っていた。そこへ一人の女中が近寄って来て、『あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた』と言った」とあります。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と活字で印字されますと、まるでこの女中がペトロに「お前の正体は見破っているぞ」と言わんばかりに迫っているように聞こえてきます。けれども、恐らくこの時、この女中はそんなに強い思いでペトロに話したのではないと思います。女中は女性ですから、主イエスを捕らえた下役の男性たちとその場に一緒にいたはずはありません。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」という言葉は、「さっき見たぞ」という言葉ではないはずです。ではなぜこう言ったのでしょうか。ヨハネによる福音書にはもう少し詳しく書かれていて、ペトロがどうして中庭に入れたかという理由が書いてあります。ゼベダイの子ヨハネが大祭司と知り合いで、門番の女中に頼んで中に入れてもらったと書いてあります。弟子の中で最も若いヨハネが大祭司と知り合いとは考えにくく感じますが、ヨハネは父親のゼベダイが大きな漁師ですから、大祭司宅に魚を届けていて大祭司や女中と顔見知りになっているのです。ですから、ヨハネに頼まれて女中はペトロを中に入れたのですが、ふと考えて、ヨハネが主イエスの弟子であることを思い出して、ペトロも弟子ではないかと思ったのでしょう。「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」という言葉は、「一緒にいた」と決めつけていたような感じを受けますが、実際には「あなたも一緒にいたのではないですか?」と尋ねるような、軽い疑問のように語られたのだろうと思います。ペトロは、最後には「そんな人は知らない」と激しく否定してしまうのですが、もしそうしなければならないほどペトロの身が危険であれば、今、主イエスを捕らえた下役たちと一緒にペトロが座っていられるはずはありません。下役たちは、さっきまでペトロが主イエスを捕らえた場にいたとは考えていない。主イエスが逮捕されたとき、ペトロは思わず剣を抜いて下役の切りかかって騒ぎを起こしていますから、そう考えますと、あの時騒ぎを起こした人がここにいると気づかいないはずはありません。それなのにペトロが下役たちと薪を囲んで座っていられるということは、最初からペトロの存在は問題にされていないということです。また、主イエスの一味だと分かったからと言って、捕らえられるわけでもないのです。 さて、ペトロが主イエスとの繋がりがどこにあると思っていたかというと、自分が主イエスに付いて行こうとする自分の気持ち、自分の心の中にあると思っていました。もしかすると私たちも、信仰とは心の事柄、気持ちの持ちようの事柄だと思うことはあるのではないでしょうか。けれども、もし信仰が心の事柄であるならば、このペトロのように、私たちの信仰もとても覚束ないところがあると言わざるを得ないと思います。誤解されてはいけませんが、ここでは、ペトロが弱い気持ちになった、それは良くない、もっと強く信じなさいと言っているのではありません。マタイによる福音書は他の福音書と書き方が違っていて、最後のところ、鶏が鳴いた後、「ペトロは激しく泣いた」と言って終わっています。他の3つの福音書も皆この出来事を記していて「ペトロは激しく泣いた」と書いてあるのですが、マタイ以外の福音書は、その後に手当の言葉が記されています。福音書によって様々ですが、甦った主イエスがペトロを特に気遣ってくださり、そしてペトロが立ち直っていく場面が記されています。けれども、マタイによる福音書にはそういう記事はなく、ペトロは泣いたままであり、そしてどこに向かっていくかというと、恐らく最後のところです。「わたしはあなたがたといつも共にいるのだから、あなたがたはわたしを信じ、わたしが教えた通りに人々を教え、洗礼を授け、すべての人をわたしの弟子にしなさい」というところへと、ペトロは招かれていくのです。 マタイによる福音書に語られているペトロの姿は、主イエスを裏切ってしまったペトロの改心の物語ではないのです。もう二度と同じ失敗はしませんという話が続かなければ、改心の物語にはなりません。失敗したままで終わっているのです。なぜそこで終わっているのかというと、マタイによる福音書が問題にしているのは、「神さまが人間と共にあるとはどういうことなのか」ということだからです。つまりペトロは、自分の改心によって主イエスに結び付くのではないのです。そうではなく、ペトロには自分本位な弱さがあるけれど、しかし、主イエスの方では、ペトロがそんな弱さを持っていることを先刻ご承知で、けれどもそんなペトロと一緒に歩んでいてくださったのだということを、この福音書は伝えようとするのです。ペトロは、自分が裏切ってしまったことをどこで知っていくかというと、75節に「ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」とあり、そこで終わっています。ペトロが後になってよくよく考えてみて、「あの時、わたしは主イエスを裏切ってしまったんだな」と気づいたという話ではありません。どこでペトロは主イエスに背いているのか、主イエスに従っているつもりだったけれど従えていなかったことを、ペトロがどこで知るかというと、「『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した」時なのです。 他の福音書では、ペトロが復活した主イエスに声をかけていただいたり、出会っていただいたりして、もう一度気持ちを整えられて主イエスの弟子として生きていくという姿が描かれていますが、マタイ福音書では、それが「大伝道命令に従って歩んでいく」という形で語られるのです。 ペトロは、「主イエスが共にいてくださる」ことにどこで気づいたでしょうか。「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」という主イエスの言葉を思い出して、ペトロは泣いています。 |
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