2019年3月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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神の前の裁判 | 2019年3月第4主日礼拝 3月24日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マタイによる福音書 第26章57〜68節 | |
<57節>人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。<58節>ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。<59節>さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。<60節>偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、<61節>「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。<62節>そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」<63節>イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」<64節>イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。」<65節>そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。<66節>どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。<67節>そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、<68節>「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。 |
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ただいま、マタイによる福音書第26章の57節から68節までをご一緒にお聞きしました。57節に「人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた」とあります。弟子の一人ユダの裏切りによって捕らえられた主イエスが大祭司カイアファの官邸に連れて行かれたと言われています。そして、このカイアファの官邸で主イエスはこの晩、裁判をお受けになりました。 この裁判が正しく成立しているのかという点では、開かれた場所、時刻、手続きにおいて不適切ではないかと言われています。今日でもそうですが、裁判は、裁判所の法廷で開かれて判決が下されてこそ、決するものです。主イエスの時代で言うならば、それはエルサレム神殿の中にユダヤの最高法院の議場があり、そこが法廷です。ところが、この晩の主イエスの裁判は最高法院で行われたのではなく、大祭司カイアファの官邸の中でしたから、まず場所がおかしいということになります。また、時間も問題だと言われます。主イエスが捕らえられ、その夜のうちに開かれていますから、時間帯は深夜です。太陽が沈み暗闇に覆われる夜の時間帯には、最高法院の会議は行われませんでした。明るい太陽が隠れている夜には、神に敵対する罪と死が力を振るって影響を及ぼすことができると考えられていましたから、影響を受けることがないようにと、最高法院の会議は昼間行われるものでした。ところが、まさに暗闇の中で、人目を忍んでという意味もあるのですが、そのような時間帯に主イエスの裁判は開かれたのでした。 後の3つの問題は、実際の裁判の進められ方が不公平だという批判です。裁判では、そこで審議が尽くされて、あらゆる可能性が検討されて、有罪か無罪かが確定されます。そうでなければ公平な判決とは言えません。けれども主イエスの裁判には、この点でいくつも問題があるのです。 ですから、夜に行われたこの裁判は、裁判自体が成立しているのか怪しいですし、また実際の裁判の進め方にも非常に問題があると、昔から言われ続けてきたことですが、本当にお粗末な裁判であったと言わざるを得ません。そして、こういう姿というものが、人間の大変惨めな側面を表しているとも思います。様々な裁きが行われる際に、正義に基づいて、愛や慈しみに満ちて評決されるのではなく、大変人間臭い、好みや妬み、憎しみなどによって力づくで判決が確定され死刑が執行される、それが主イエスが受けられた裁判であったのです。 さて、そのような不当な裁判でしたが、その裁判の中で、主イエスはどのように過ごしておられるのでしょうか。主イエスはこういう不当な権力によって、為す術もなくただ居られたのでしょうか。そうではありませんでした。今日の聖書が告げていることは、この裁判が不当なものだったということだけではなく、その中で主イエスはご自身のあり方でこの裁判に向き合っておられたということを告げています。 主イエスが黙っておられるので、多くの偽証が重ねられていくのですが、今日の箇所にはその最後の偽証が出てきます。二人の人が来て、61節「『この男は、「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」と言いました』と告げた」とあります。主イエスは確かに、これに近いことをおっしゃったことがありました。主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日あれば建てられる」と言われましたが、それは、「あなたたちは神殿を壊している。けれど三日あれば建て直せる」と言って、ご自身の復活のことを語られたのだとヨハネによる福音書で説明が語られているところです。神殿は実際に滅びに向かっています。主イエスの裁判は紀元30年頃ですが、紀元70年にはイスラエルの国がローマ帝国に攻められ神殿が陥落し、それ以来、神殿は建て直されることがないまま打ち捨てられているのです。今私たちは黒服のユダヤの人たちが「嘆きの壁」の前で祈っている姿を見ることがありますが、「嘆きの壁」は、壊された神殿の外側の一部なのです。ですから、この時の祭司長たちは、実は、戦争に向かって進んで行っているのです。国を滅ぼし、それによって神殿が壊される方に向かっています。そのような中で主イエスは、「確かに神殿は崩れていく。けれども、十字架の死と復活によって神への礼拝は三日あれば立て直すことができる」と、かつて弟子たちに語っておられたのでした。 ここで主イエスが黙っておられるので偽証が重ねられますが、偽証ですので証拠がありません。不当な裁判ですが、裁判を行なっている祭司長たちにとっては、証拠がないことは何ほどのことでもないのです。どうしてかと言うと、この裁判は最初から判決が決まっている裁判だからです。つまり主イエスに有罪だと判決を下し死刑を宣告するための形をそれなりに整えているだけですので、証拠が無ければ無罪になるという方向にはならないのです。 ところがこの問いは、大変決定的な問いとなり、ここで主イエスは口を開かれました。主イエスの答えは、大祭司の予想をまったく超えるものでした。ニュアンスを付け加えて言うならば「あなたは遂に、今、これを言った」となります。64節です。「イエスは言われた。『それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る』」。この最初の部分は、日本語に訳すのが難しいようです。口語訳聖書では「あなたの言うとおりである」と訳されていました。「それは、あなたが言ったことです」と「あなたの言うとおりである」とでは、日本語では同じではありません。明らかに違っています。どうしてこのように訳がブレるのかと言うと、元々の聖書の言葉の直訳は「あなたは言った」とだけ書いてあるからです。主イエスに向かって大祭司カイアファは「お前は生ける神の子、メシアなのか」と問いました。主イエスはその決定的な問いを聞いて、「今、あなたはそれを口にした。あなたは言った」と言われたのですが、どうしてこんなことをおっしゃったのでしょうか。それはまさに大祭司カイアファが問うた言葉が、事柄の中心、的の真ん中を射抜いているような言葉だったからです。 実はこの言葉は、主イエスが弟子たちに何とか伝えようとしていた事柄でもあります。マタイによる福音書16章16節に「シモン・ペトロが、『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えた」とあります。主イエスはこのことを弟子たちに分からせようとして、ずっと一緒に旅をしてこられました。そして、ペトロがこう語りましたから、主イエスはここから十字架に向かって救い主メシアとしての歩みを始められるのですから、この言葉は極めて重要な言葉なのです。そしてその言葉を、今日のところで、大祭司カイアファが疑問の形で語っているのです。 主イエスはカイアファに、「あなたたちは二つのことを見るようになる」とおっしゃいました。「人の子が全能の神の右に座っている」「天の雲に乗って来る」、これらを見ることになる。そしてそれは「やがて起こる」と言われました。この「やがて」という言葉は、深い意味がこもっている言葉です。カイアファは今、思いのままに権力を振るっています。自分は何でもできると今は思っている、その「今」に対する「それから後」、それが「やがて」です。今はカイアファが横暴に振舞っているけれど、しかしこれから先にはそうでなくなる。「やがての時、あなたたちが見るのは、『人の子が全能の神の右に座るようになる』ことなのだ。そしてその人の子が『天の雲に乗って来る』のを見るのだ」とおっしゃるのです。 主イエスが救い主メシアであるということに無理解であって、偽証人が次々に立てられている間は、主イエスは黙って、贖いの子羊としての道を歩んでおられました。しかしそれが神の子救い主としての行いなのかと、決定的なことが尋ねられた時には、主イエスははっきりと「あなたはそれを見ることになる」と言われました。実際、その後に、最高法院も大祭司も滅んでいってしまうのです。今エルサレムには嘆きの壁が残っているのみです。 けれどもカイアファは、こういう主イエスの言葉を信じませんでした。カイアファからすれば、当初の計画の一つの答え「主イエスは神を冒涜する者だ」という答えが出たことになります。そして、主イエスの言葉は暴言だと言って裁判を結審させ、この暴言に対してどう思うかと議員たちに尋ね、死刑という判決を下した上で、乱暴狼藉を働いたと語られています。 主イエスは最初から、不当な裁判を受け、この裁判が主イエスを死刑にするという方向に動いていくことは先刻ご承知でした。そしてその中で、神の僕として、神の御業に仕える者としてどう生きるかということを考えておられます。 私たちは、主イエスが十字架に向かって行かれた歩みによって、私たち自身の罪が執りなされているのだということを聞かされています。「主イエスは本当にメシアなのか」、そのことを私たちは一人一人、自分自身に尋ね、そしてペトロのように「あなたは生ける神の子、メシアです」と告白して生きていく者とされたいと願います。 このレントの時に、私たちに与えられているそれぞれの生活の務めを、主イエスがわたしのために戦ってくださり新しい命を与えてくださっていることを覚えながら、一つ一つ担って歩む者とされたいと願います。 |
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