ただいま、マタイによる福音書第26章の36節から46節までをご一緒にお聞きしました。過越の食卓を弟子たちと囲まれた主イエスが、そこで弟子たちの躓きを教えられ、実際にイスカリオテのユダに裏切られ逮捕されてしまうまでの数時間、主イエスがまことに険しく深く厳しい祈りの時を過ごされたことが、ここに記録されています。36節から38節に「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい』」とあります。
ゲツセマネという地名は、油絞り機から来ているとよく説明されます。主イエスと弟子たちがこの夜過ごしていたのはオリブ山という山で、そこにはオリーブの木がたくさん生えており、収穫した実を絞る搾油機が置かれていた場所がゲツセマネです。恐らく広場になっていたでしょう。主イエスはそこに12弟子を待機させた上で、その中からペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて少し離れた場所へ行かれ、祈りを捧げられました。
主イエスがここで弟子たちに、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言っておられます。「座っていなさい」とは、「腰を下ろして休みなさい」とおっしゃったということではありません。これは「屈みなさい」という意味で、原文では「置く、据える」という言葉ですので、「何かに備えをするように」と、この時主イエスはおっしゃったのです。
一体、何に備えをして「屈め」と言われているのでしょうか。これは解釈者によって意見が分かれるかもしれませんが、万が一、主イエスが祈っておられる時に何者かが現れて祈りに邪魔が入るようなことをさせないように、いわばガードマンの役割を果たしてほしい、そのために身構えて屈んでいるようにとおっしゃっているように感じられます。
よく知られているように、この時、弟子たちは目を覚ましていることができませんでした。近くにいたペトロ、ヤコブ、ヨハネを含めて11人の弟子が全員、熟睡してしまいます。主イエスは、最初に「座っていなさい」とおっしゃった後、激しく祈り始められましたが、戻って来て見ると弟子たちが眠り込んでいるのです。それをご覧になった時には、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と、恐らく弟子たちを起こしておっしゃっています。ところが、二度目に祈り、三度目に祈って戻られた時には、実は主イエスの様子が少し変わってきています。45節には「それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される』」とあります。最初と二度目には「目を覚ましていなさい」と言われましたが、三度目には「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる」と、弟子たちの有り様を認めるような口調になっています。原文では大変不思議な言葉が書かれていて、直訳すると「なお眠りなさい。休みなさい」という命令形なのです。なお眠るようにと勧めているようにも聞こえます。
この言葉については、主イエスが皮肉をおっしゃったのだと受け止めようとする聖書学者もいます。主イエスはここで敵の手に落ちてしまう、その時まで不甲斐なく眠っている弟子たちを前にして、「あなたたちは、こんなに切羽詰まった時にも眠っているのか。それならもっと眠れ」と、少し投げやりなことを主イエスがおっしゃったという解釈です。字面だけを追えば、そう言えなくもないでしょう。ただ、そうだとすると、45節以下、46節の言葉が分からなくなり宙に浮いてしまいます。「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。勝手に眠れと言ったとすれば、その後にすぐ「立て、行こう」と呼びかけるはずはありません。ここは弟子たちに「一緒に行こう」とおっしゃっているのですから、弟子たちを皮肉ったということとは違うような気がします。
主イエスが激しい祈りを経験なさる、その中で、救い主として十字架に向かっていく道をはっきりと見定められ、準備がすべて整ったところで、主イエスはここから十字架に向かう道を歩み出す決意を固められたのです。そして「行こう」と言っておられるのです。
ですから、ゲツセマネの祈りは、今まさにここから、十字架に続く苦難の道をまっすぐに進んでいかなければならない、そういう主イエスが、ご自身を神の光の下に置こうとなさった、そういう祈りです。この祈りを祈り始められた時、主イエスには確かに、今から死ななければならないという悲しみ、嘆き、悶えや痛みがありました。祈り始める最初のところで、ペトロ始め3人の弟子に向かって、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と、主イエスが珍しくご自分の内面を打ち明けておられます。「神さまがどんな時にも一緒だし、わたしを支配し持ち運んでくださる」と、主イエスはもちろん承知しておられます。神がご存知で自分を持ち運んでくださる、そこに希望を置いていながらも、しかしそれでも、今から十字架という真に残酷な仕方で死ななければならない、晒し者にされ、人々から嘲られ罵られ、辱められ苦しめられ、痛めつけられて死んでいかなければならない、そういう苦しみを前にして、「死ぬばかりに悲しい」と言っておられるのです。
主イエスが向かって行かれる死、それは確かに、私たちが経験する死とは明らかに違う死です。私たちもいずれ間違いなく、この地上に別れを告げる時がやってきます。誰一人の例外もありません。それで私たちは、「最後には皆死ぬし、皆同じなのだから、主イエスの死も私たちと同じだ」と考えてしまいがちですが、しかし、実際に主イエスの死は違うのです。何が違うのか。それは何と言っても、私たちが地上の死を迎える時には、そこにはなお、「十字架の死を死んで復活された主イエスが共にいてくださる」ということがあるということです。私たちが歳を重ね終わりに死を迎える時、本当に弱っていって、もはや自分の体重を支えることもままならない、そういう時にも、主イエスが私たちのところに来てくださるのです。そして、私たちを下から受け止めてくださる。ベッドの上に横たわるわたしとベッドの間に主イエスが来てくださって、地上の生活の最後の時を過ごす私たちを、一息一息主イエスが支えながら苦しい息の中で共に歩んでくださる。地上の最後の時を私たちはそのようにして召されて行くことになります。ですから教会では、葬儀の中で、「今よりのち、主にあって死ぬ者は幸いである」と繰り返し聞かされているのです。どんな時にも私たちは、決して主イエスから引き離されることがない。どんなに苦しめられ痛めつけられて死んでいく時にも、主イエスがそこにいてくださる、私たちはそういう信仰を持って、それぞれの死に向かって行くことが許されています。
けれども、主イエスの場合は違います。共に苦しみ支えとなってくれるものが、主イエスには一切ありません。神ご自身すら、助けになってはくださいません。それはどうしてかと言うと、主イエスがこれから死ぬ死というものが、私たち人間の身代わりとなって刑罰を受ける、そういう死だからです。私たちが神抜きで歩んでしまった、その結果、神も「人間なんか知らない」と背を向けてしまう、それがごく普通の考え方の行き着く先です。
けれども神は、そのように私たちを突き放そうとはなさいませんでした。憐れんでくださり、私たちの罪を全部、主イエスの上に被せて、主イエスが身代わりに死んでくださることになりました。ですから、主イエスが経験なさる死は、どういう意味においても、何の助けも支えもない、慰めもない、そういう死にならざるを得ないのです。本当に孤独で惨めな死です。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と、そう主イエスが身近なところを歩んだ三人の弟子たちにおっしゃっても、それでも三人の弟子たちは起きていることができなかったと語られています。「わたしは本当に孤独なのだから、わたしと一緒に目を覚ましていてほしい」、そう願っても、誰も目をさましていてくれないのです。主イエスが苦しみながら亡くなって行く、その死自体、誰も目を止めていない、誰も覚えていないし、忘れ去られたようになって死んでいかなければならない、そういう呪われた死に向かって、主イエスはこれから進んで行かれるのです。
主イエスはこの晩、神に向かって激しく二度、三度、祈りを捧げたと語られています。最初の祈りは「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」でした。この大変印象的な主イエスの祈りは、旧約聖書の言葉をなぞっているようなところがあります。旧約の、特に預言者たちは、神が人間の上に下す裁きをしばしば「杯」に譬えました。預言者イザヤは、彼と同時代に生きたエルサレムの人たちが「神から憤りの杯を注がれているのに、それを平気で飲み干している」と言って、大変恐れ戦慄をもって語っています。預言者エレミヤは、イスラエルだけではなく周囲の国々も含めて、すべての人たちが神の御手によって怒りの杯がなみなみと注がれ、それを飲んだ結果、互いに本当に惨めな殺し合いをしていると言って恐れおののきます。さらに預言者エレミヤは、神に背いて偶像礼拝に走った北イスラエルと南ユダの二つの国とその国民が姦淫を犯す姉妹であると神に示されて、この姉妹が恐れと滅びの杯を神からいただき、それをあおって滅んでいくという預言をしています。旧約の預言者たちは、「杯」という言葉で、大変厳しい将来を語っています。
主イエスがここで、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られた時には、そういう旧約聖書の言葉が下敷きにあるのです。主イエスは旧約聖書の言葉を思い出しておられるのです。神が苦い滅びの杯を人々の上に注がれることがある。そして主イエスには、その杯がまさに自分の前に置かれているということが分かるのです。分かるのですから、それを飲みたくはないのです。「神さま、できればこの杯を飲みたくはありません。別のものにしてはいただけないのでしょうか」と祈るのです。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」とダビデが祈り感謝して受けたような、そういう杯にはならないだろうかとおっしゃるのです。
しかし、主イエスはそう祈っても、最後には神の御心に完全に従って、神のご計画に忠実に歩もうとされます。神の御意志に自分を完全に従わせる、そういう思いを持って主イエスは祈られます。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」、そしてこの祈りが二度、三度と重なってくるうちに、段々と強まり、二度目の祈りの時には、42節「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」、また三度目も同じ言葉で祈ったと語られています。
人間が神を捨てて顧みようとしない、神抜きでも当たり前だと思い平気で生きてしまう。そのことによって神の怒りが人間の上に注がれる。そのことに気づかず、恐れもしない。そういう中にあって、主イエスは、その神の怒りをすべてご自身の側に引き受けられるのです。ご自身の死を、人間が自ら招いた裁きを死ななければならない、その死として死んで行こうとなさる。従って、神からも人間からも捨てられ、嘲られ、忘れ去られた者として死んでいかなければならない、そういう死を主イエスは経験なさるのです。
実際に主イエスの父である神に主イエスが「父よ」と呼びかけて、この祈りは始まっていますが、しかしそうであるにも拘らず、この祈りの最中、神は主イエスの呼びかけに一切お答えになりません。どこまでもよそよそしく、冷酷に、主イエスの死への道筋は持ち運ばれていきます。ゲツセマネの祈りに際しても、主イエスは懸命に神に祈っておられますが、神はどこにおられるのか分からない、そういうよそよそしさの中で主イエスは祈らざるを得ません。
けれども、そのようにどこにも光が見出せない、神に信頼してよいと思えるような手がかりを何も感じることができない中にあって、主イエスご自身はなお、神への信頼の道を貫いて行かれます。その時に主イエスが武器にしておられるのは、祈りです。ゲツセマネの祈り、それは、神から完全に捨てられた者として死ななければならないという事実を突きつけられながら、どうやってそこで神への信頼を持って生き続けるのか、主イエスが祈りを頼りにしながら、そのように立って行かれる時間です。
私たちがよく知っている祈りの言葉、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」という言葉の一体どこが一番印象的でしょうか。「杯を取り除けてほしい」と、主イエスが切々と神に祈る悲哀の姿でしょうか。もちろんそれは大変印象的な姿ですが、しかし何にも増して強い印象を与える言葉は、どこまでも追い詰められ追い込まれながらも、最後に「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままになさってください」と祈られた、その一言ではないでしょうか。
実はこの言葉は、常々主イエスが弟子たちに教えてくださった「主の祈り」の言葉が下敷きになっています。主イエスが弟子たちに「あなた方はこう祈りなさい」と教えられた通りの祈りを、主イエスはこの時ご自身でも祈っておられるのです。主の祈りの中で主イエスが教えられた祈りは「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りです。神の御心が天で実現するように、どうかここにも神の御心が行われるようにしてくださいと祈るようにと、主イエスは弟子たちに教えられました。その同じことを、この苦しい状況の中で主イエスは祈られました。
このようにゲツセマネの祈りが主の祈りと重なることに気づくと、さらにほかにも重なるところがあることに気づきます。主イエスはが教えられたことは、最初に「父よ」と祈って始めるようにということでした。そしてここで、主イエスは「父よ、できることなら、この杯を」と祈られました。主イエスが「父よ」と祈った時に、神が微かでもニコリとされたかというと、少しもそういうことはありません。「父よ」と呼びかけたけれど、そこに父がおられるとは微塵も感じられないような、感性として信仰を受け止めることができないような、そういう状況の中で、なお主イエスは「父よ」と呼びかけます。「そう祈ってよい。たとえあなたが、神さまは見えないと思う時にも、神さまに向かって、なお父よと呼びかけてよい」と、弟子たちに教えておられた通りに、主イエスも祈っておられるのです。
ご自身の生涯の最も暗く最も深い闇を経験していく、その時に、主イエスは弟子たちに「こう祈りなさい」とおっしゃった通りの祈りを、ご自身も祈られました。人間の罪をすべてご自身に引き受けた呪いのために、もはや神がまことによそよそしくなって、とても神との交わりを実感できない悲惨な苦しみ、凄惨な嘆き、悶えの中で、主イエスはそれでも主の祈りの通りに神に祈り、この試練の時を神への信頼を失わずに歩み通されたのです。分厚い雲が頭の上に垂れ込めていて、神の光が主イエスの元まで全く届かない、そういう闇に閉じ込められながら、なおそこで主イエスは、主の祈りを祈り、黒雲の上に注いでいる神の光に希望をつなぎます。そのようにしてゲツセマネの祈りの時をお過ごしになりました。
そして、やがてユダがやって来ます。人間的に言えば、ここからが大変なところです。実際に十字架に磔にされる苦難の時がここから訪れたのだと、私たちは思います。けれども主イエスは、その直前の、ゲツセマネの祈りを通して、これから向かう十字架への歩みの備えをすべて整えておられるのです。そして、主イエスを捕らえようとするユダたちに向かって、どうなさるか。逆に主イエスの方から迎えに出て行かれます。「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」と、捕らえられるのですから逃げるのなら分かりますが、主イエスの方から「行こう」と言われるのです。「時が近づいた」、苦しみ疑う祈りの時は終わっています。ここから神に信頼して備えられた道を一歩一歩進むだけだと思い定めた主イエスがここにおられます。ゲツセマネの祈りの記事を聞く時に、私たちは、こういう主イエスが私たちのために共にいてくださるのだということを聞き取り、目覚めて、主イエスを覚える者とされたいと願います。
「わたしと共に目を覚ましていなさい」と、主イエスは言われました。弟子たちに向かって、「わたしがいるのだから、わたしと共に目を覚ましていなさい」とおっしゃるのです。「わたしと共に」というのは、マタイによる福音書の最初から最後までを貫いている極めて重要な言葉です。主イエスが嬰児の姿で地上においでになったクリスマスの記事の中で、マタイによる福音書は「インマヌエル」という出来事が実現したと説明します。「神、我らと共に」、主イエスがお生まれになった時に、そういうお方としておいでになったのです。そして、その主イエスが苦難の道を歩まれ、復活されて、この福音書の最後はどう結ばれるかというと、「見よ、わたしはいつもあなたがたと共にいる」という言葉で結ばれるのです。
「神が共にいてくださる」というお方がお生まれになった、そして、その方がすべて御業をなさったその最後に「見よ、わたしはいつもあなたがたと共にいる」と言ってくださる。その主イエスが、その生涯で最も暗く険しく辛い経験をなさっている時に、私たちのために罪の執り成しをなさろうと懸命に祈る姿の中から、「あなたはわたしと共にいるのだ」とおっしゃってくださるのです。
「わたしと共に目を覚ましていなさい」というのは、主イエスが辛いので一緒にいて欲しいと願っているのだと聞き取る方が多いと思いますが、そういう主イエスの求めには弟子たちは答えず、眠り込んでしまいます。
実は、「わたしと共に」というのは、ここにいる私たちのために、主イエスが本当に深く辛い執り成しの祈りをなさってくださっている、そこにいるのだから、「あなたもわたしと共にいるように」という言葉です。私たちが自分の人生の中で、それまで経験したことのなかったような辛さや痛み苦しみを経験し、これ以上ない悲しみに覆われたようになる、その時に、主イエスはそこで目覚めて祈っておられるのです。誰にも助けてもらえない、孤独で死んでいく他ない、生まれて来なければ良かったとさえ思う、そういう時に、主イエスは私たちと共にいて、「あなたは主の祈りを祈ってよい」とおっしゃるのです。
「どんな時にもあなたは捨てられていない。自分の実感としては、そう感じられないかもしれないけれど、しかしそれでも、なお、神さまはあなたに目を注いでおられる」。主イエスが人間の本当に深い罪を受け止めながら、その中で執り成しの祈りを祈っておられる、そういう主イエスが常に私たちと共におられるのだということに、私たちは心を向けたいと願います。
目覚めて、主イエスが共にいてくださることを覚える者とされたいと願います。私たちのために主イエスは、本当に困難な中で祈りを深くしながら十字架までの道のりを辿ってくださいました。その主イエスの執り成しの愛の中に抱かれている者として、私たちはここから歩む者とされたいと願います。私たちもまた一人一人、自分の覚える愛する者たちのために執り成しを祈り、目覚めて、私たちのための主イエスの十字架の御業に心を向け、十字架を見上げながら、ここから歩んでいきたいと願います。 |