聖書のみことば
2019年2月
  2月3日 2月10日   2月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

2月24日主日礼拝音声

 羊飼いの打倒と躓き
2019年2月第4主日礼拝 2月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第26章31〜35節

<31節>そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。<32節>しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」<33節>するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。<34節>イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」<35節>ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。

 ただいま、マタイによる福音書第26章の31節から35節までをご一緒にお聞きしました。31節に「そのとき、イエスは弟子たちに言われた。『今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」と書いてあるからだ』」とあります。
 過越の食事を済ませて、オリーブ山のゲツセマネの園に向かう道すがら、主イエスは弟子たちに、今から彼ら全員が経験することになる「つまずき」の事柄を教えておられます。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」とおっしゃるのです。「あなたがたは皆」と言われていますが、これは、この時従っていた12弟子全員という意味ではないように思います。およそ弟子となって主イエスに従おうとしていく、そういう人すべてが経験する「つまずき」、主イエスに心を向け、主に従っていきたいと願う人たちすべてが経験する「つまずき」を、主イエスはここで語っておられるのです。
 しかもそれは、他ならない主イエスご自身につまずいてしまう、主イエスに従っていこうとするのですが、その主イエス自身がつまずかせるのですから、すべての人がつまずくということになるのです。「あなたがたは皆わたしにつまずく」と書かれていますが、ここは原文を読むと、「あなたがたは全員がわたしのうちにある。そしてつまずかされるのだ」と書かれています。「あなたたちは、わたしとの交わりの中にある。だからつまずく」、ですから、このつまずきは、主イエス以外の何か他の者につまずくということではありません。まさしく、主イエスその方につまずく、そういうつまずきです。主イエスを知らず、あるいは他のことに気を取られていて足元に注意が及ばないのでつまずく、ということではありません。そうではなく、主イエスとの交わりの中に招かれていて、主イエスとの交わりを知るからこそ、つまずくのです。
 ですから、ここに言われているつまずきは、既に主イエスに受け入れられ交わりの中に置かれている、そのしるしと言ってもよいかもしれません。「主イエスとの交わりの中にあるからこそ、つまずかされる」と言われているのです。

 主イエスとの交わりがあるからこそつまずく、このつまずきとは、はっきりと言うならば、主イエスがお架かりになる十字架へのつまずきです。弟子たちに先立って、主イエスはまっすぐに十字架に向かって行かれます。今、エルサレムにおられますが、間もなく捕らえられ、次の朝早くには十字架に上げられてしまう、そういう時です。どんな人であっても、こんなことにはとても付いて行けそうにはありません。次々と矢継ぎ早に事が起こり、気がつけば主イエスが十字架に架けられてしまう、弟子たちが付いて行くのはとても無理なことです。ですから主イエスは「あなたがたはわたしにつまずく。付いて来られなくなるのだ」と言われるのです。
 十字架に向かって行かれる主イエスに付いて行けない、従えない、そうなってしまうつまずきは、我が身可愛さで身の安全を第一に考えるところから生じるとは単純に言えないのかも知れません。私たちは日頃、弟子たちが主イエスに付いて行けなかったのは、自分の命を惜しんだからだと考えています。主イエスが逮捕された時に、弟子たちがちりじりになって逃げ去った、それは弟子たちの本音からして、我が身可愛さで命を惜しんだせいだと考えがちだと思います。
 もちろん、弟子たちにとって自分の身の安全は大事だったのでしょうけれど、しかしそういう理由だけで主イエスに従えなくなったと決めつけられるのだろうかと思います。今日の箇所で、ペトロをはじめとする弟子たちは皆、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言っています。この言葉を口にした思いはあるはずです。口先だけの嘘八百で言ったに違いないと言うのは、言い過ぎだと思います。少なくとも、こう語った時のこの場面での気持ちからすれば、「もし万が一主イエスと一緒に死ななければならないとすれば、潔く死のう」という思いはあったに違いありません。けれども実際には、そうなれませんでした。どうしてでしょうか。覚悟が足りなかったのでしょうか。
 一つには、主イエスの処刑までのテンポがあまりに早すぎて付いて行けなかったのでしょうし、もう一つには、今ここで起こる一連の出来事がどういう意味を持っているのかということを、弟子たちが理解できなかったということも理由だと思います。
 何か大変な出来事がある時には、私たちは前もってよくよくその意味を考えて、決心したところで事に当たるということがあるのではないでしょうか。大変な力を要する事柄が起こる、場合によっては自分の命を投げ出すことになる、そういう時には、私たちはよくよく考えて、それでもこれはやらなければならない、やっても良いと決心した上で始めるのではないでしょうか。そうでないと、事が進む中で、いろいろな思いを超えたことが持ち上がると、そこでどうして自分が苦労しなければならないのか、やり遂げなければならないかが分からなくなって、もはや粘り強く事に当たれなくなる、途中で放り出してしまうということになりかねません。苦しいこと、大変なことに向かって行く時には、なぜそうしなければならないのか、なぜ自分はこの道を選んでいるのかということを承知している必要があるだろうと思います。弟子たちには、なぜこう矢継ぎ早に事が運んで主イエスが十字架に架けられてしまうのか分からなかったでしょうし、従うとはどういうことか、考える暇がありませんでした。それで付いて行けなかったのではないかと思います。

 主イエスは、弟子たちがそうであることを承知しておられます。それで、今から起こることを教え、またなぜ弟子たちがつまずいて従えなくなるのかを教えられました。それは、「旧約聖書のゼカリヤ書に書かれていることが、まさにここで起きるからだ」という教え方をなさるのです。31節で主イエスは「『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ」と言われました。「聖書にこう書いてある。だからあなたがたはつまずくのだ」、突然主イエスがこうおっしゃっても、私たちはこの旧約聖書の言葉をすぐに思い浮かべることはできないでしょう。ちょっとびっくりするような言葉です。ゼカリヤ書13章7節の言葉です。「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ。わたしの同僚であった男に立ち向かえと、万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ」。主イエスが引用なさったのは、この箇所の言葉です。この中の「わたし」は、「万軍の主、神ご自身」です。そして、「わたしの羊飼い、わたしの同僚であった男」と言われているのは、「神がご自分の民のためにお立てになった王、イスラエルの王」のことです。「羊の群れ、小さい者」は、「神の民イスラエルに属する一人一人」のことです。つまりここで言われていることは、神がせっかくイスラエルの民のために王をお立てになったのに、その王を神自らが打ち倒し、死に追いやるということが言われているのです。羊飼いが打ち倒されれば、羊たちはちりじりになる他ありません。守ってくれる羊飼いがいなくなれば、羊たちは自分たちだけで群れを守って一つでいることはできなくなるからです。
 神は羊の群れであるイスラエルを守らせるために王をお立てなったにも拘らず、せっかく立てた王を、神ご自身が打ち倒す。これは普通では考えられない不思議なことが述べられています。
 けれども、ゼカリヤ書はこれで終わらず、羊飼いが打たれた結果どうなるのか、群れの3分の2は死に絶えてしまうけれど、3分の1は生き残り、その生き残りは火で精錬され鍛えられ、最後には、「主こそ、我々の神です」と言うようになり、神も「本当に彼らはわたしの民だ」とおっしゃるような麗しい交わりが生まれるようになると語っています。羊飼いが倒され羊が散らされるのは、その辛く苦しい、痛みを伴う経験を通して、生き残った羊たちが「主こそ我々の神なのだ」と神を賛美するようになる方向に向かって行くことだとゼカリヤは教えました。
 ゼカリヤが生きた時代は、イスラエルがバビロンに負けて滅んでしまう時代です。主イエスは、この古いゼカリヤの予言を引用しながら、「今晩ここで今から起こること、それもちょうどこのゼカリヤが言っていることと同じようなことなのだ」とおっしゃったのです。
 神がイスラエルの民のために立てた真の王とは誰か、それは主イエスです。神がそこに王を立て、弟子たちを招いて一つの群があるのですが、神は羊飼いである主イエスを捕らえさせ十字架に上げて死なせてしまう。主イエスの十字架の出来事は、弟子たちにとっては羊飼いが打ち倒されるような出来事なのです。そうなると、これまで羊飼いに導かれてきた羊の群れである弟子たちは、「なぜこんなことが起こるのか。神さまがわたしたちを愛してくださっているのなら、どうしてこんなに辛いこと、悲しいことが起こるのか」と思いながら、導き手を失って、てんでんバラバラになってしまうのです。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」、今日の箇所で、主イエスがおっしゃっているのはここまでです。
 けれども、これはゼカリヤ書の引用ですから、主イエスはゼカリヤ書に書いてある事柄を頭に置きながら話しておられるに違いないのです。「今晩、あなたたちはわたしにはつまずいて、ちりじりになるよ」、けれどもその先があるのです。「散らされてしまったあなたたちが生き延びる時に、『本当に主は私たちの神だ』と言う時が来る。そして神もまた『まさしくあなたがたはわたしの民だ』とおっしゃってくださる新しい群れ、新しい民が起こされることになる」、そういうことを思いながら、主イエスは教えておられるのです。
 ですから、32節で、散らされた弟子たちが再び集まってくる場所として「ガリラヤ」という地名が示されます。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。弟子たちはもはや、今のまま地上の生涯を、主イエスの周りにいる一つの群れとして生活することはできなくなる。「けれども、よく聞きなさい。あなたがたは羊飼いが取り去られた結果どうなるかというと、ガリラヤへ行くことになる。本当に神さまに信頼し、『神こそ主です』と告白し、神もまた『あなたたちこそわたしの民』とおっしゃってくださる一つの群れが起こされる。そういう新しい交わりに、あなたがたは招かれるのだよ」と、主イエスはここでおっしゃっているのです。
 これからご自身が捕らえられてしまうという時に、弟子たちにこのゼカリヤ書の言葉を覚えているようにとおっしゃっているのです。十字架の出来事が起こっても、その後、弟子たちがどうするべきかを教えられたのです。まさしくこれは、羊飼いとして、しかも倒されていく羊飼いとして、羊の群れの一頭一頭を思えばこそおっしゃっている言葉なのです。

 主イエスはこれまで、何度も弟子たちに、「今、私たちはエルサレムに向かっている。そこでわたしは敵に捕らえられ侮辱され遂には命を取られてしまう。けれども三日目に復活するのだよ」と繰り返し教えておられました。弟子たちは、その時にはその言葉を理解できませんし、受け止めようとしませんでした。けれども、その主イエスの言葉はどこかに残っているはずです。ほんの1時間か30分後には捕らえられる、そういう時に主イエスは、一番最後の弟子たちとの語らいの中で、「わたしは捕らえられ殺されてしまうけれども、しかしあなたがたはガリラヤへ行くのだ。そしてそこに新しい始まりがある」と、弟子たちの将来に繋がる大切なことをおっしゃいました。今日私たちが聞いた言葉、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」、この言葉があったからこそ、弟子たちは、主イエスの十字架と復活の後にガリラヤに集まることができたのです。そして、もう一度主イエスの弟子の群れとして歩み出すことができるようになるのです。ですから、この言葉はとても重大な言葉です。

 さて、この日主イエスはこのように弟子たちに教えられたのですが、弟子たちの方は主イエスが伝えようとした重大な事柄をさほど大きく受け止めなかったようです。主イエスのおっしゃったことにではなく、別のことに注意を向けてしまいます。それは、主イエスが「あなたたちは皆、わたしにつまずく」とおっしゃったことです。まるでアレルギー体質の人がアレルゲンに触れてしまった時のように、弟子たちは激昂し、主イエスに向かって話しています。33節、まずペトロが口火を切りました。「するとペトロが、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』と言った」。主イエスが「あなたはつまずく」とおっしゃったことに、ペトロは反発しました。「わたしがつまずくはずはないではないですか!」、こう言ったこと自体、ペトロが素直に主イエスの言葉を受け止めていないのです。つまり、ペトロはこの時、主イエスの言葉につまずいています。つまずきながら、しかし「決してつまずきません」と言っている、どこか滑稽です。
 考えてみますと、私たちがつまずく時にもこのような感じではないでしょうか。「わたしは決してつまずいてなんかいない」と言いながら、私たちは聖書の言葉を聞き取れなくなることがあります。弟子たちはこの後、主イエスの逮捕の場面で、本当につまずいていることが明らかになります。主イエスは「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われましたが、その「今夜」とはいつのことでしょうか。十字架の時ではありません。主イエスが捕らえられ、皆が散らされて行く時、そこで弟子たちがつまずいていることが露わにされるのです。実は弟子たちには、主イエスがこう言われた時、この言葉の意味が分からず、既につまずいています。最初に口火を切ったのはペトロですが、他の弟子たちも心の中で同じように反発しています。ですから35節後半で「弟子たちも皆、同じように言った」と語られています。弟子たちは皆、主イエスの言葉につまずきます。そしてそのつまずきが実際の行動で露わになるのです。
 そして、それはどうしてかと言うと、まさしく主イエスとの交わりの中にあるからです。主イエスが語りかけてくださる言葉がある。だからそれにつまずくのです。もし主イエスの言葉を聞くことがなければ、つまずくこともないのです。

 私たちにもこのようなことがあるのでないでしょうか。聖書の言葉を聞く時、不可解で受け止められないと、反発を感じることがあるかもしれません。でもそれは、私たちが主イエスとの交わりの中に置かれて神の言葉を聞いているから起こっているのです。神の言葉を聞くことがなければ、私たちは、反発もできません。ですから、「わたしにつまずく」ということは「主イエスの言葉につまずく」ということです。そして主イエスがこの日、ゼカリヤ書を引用しながら教えられたこと、それは、「人間にとっては不可解なことを神さまがなさることがあって、人間はそこでつまずくけれども、神さまは人にとってつまずきとなる出来事を通しても、ご自分のご計画を実現していかれるのだ」ということです。ゼカリヤ書に言われているのは、そういうことです。神が羊の群れを大事に考えているのなら、なぜ羊飼いを倒すのか、倒さなくてもよいではないかと羊たちは考えます。自分たちがどんなに危険な目に遇うかと言って怒ったりします。しかしそれは、羊である一人一人が本当に神との交わりの中に置かれる、そのために行われるのです。神がそう行うと言われる。けれども羊たちはそうは受け止められずに、自分たちの思った通りの救われ方で救われたいと思うのです。しかも「決してつまずかない」と言い張っていますが、主のおっしゃる通り、既につまずいているのです。

 主イエスは、弟子たちがそのようにいきり立ったところで、もうそれ以上の議論をしておられません。今日の箇所は、35節にように、弟子たちが主イエスに向かって反発する言葉で終わっています。形の上では物別れです。けれども主イエスは、そういう弟子たちに向かって、「覚えておきなさい。わたしは復活したら、あなたがたより先にガリラヤに行くから、そこで会えるよ」とおっしゃって、そして十字架に向かって歩んでいかれるのです。この十字架に向かって行かれる主イエスのお姿こそが、羊たちを導いていく羊飼いの姿なのです。羊たちは、羊飼いが「こっちだよ」と言って先に行っている方に向かって付いて行きます。「あなたたちはわたしにつまずくけれど、でも、あなたたちが来るのはここだよ」と言って「ガリラヤ」という地名をおっしゃるのです。
 では、一体ガリラヤには何があるのでしょうか。ガリラヤは、主イエスが弟子たちに親しく教えられた、弟子たちにとって故郷のような場所です。そして、マタイによる福音書を最後まで読んでいくと、弟子たちが実際に主イエスにガリラヤでお目にかかるのですが、そこで主イエスはやって来た弟子たちに、「あなたがたに教えたことをすべて守るように、すべての人に教えなさい。そして父と子と聖霊の名によって洗礼を施し、わたしの弟子にしなさい。わたしはいつもあなたがたと共にいるのだから」と言われました。
 主イエスは、弟子たちをガリラヤに招かれて、そこでもう一度、本当に主イエスと共にある生活を経験させ、それをすべての人に教えて、主イエスとの交わりの中に生きるようにとしてくださるのです。

 私たちも、今日、肉体がガリラヤに行くわけではありませんが、そういう主イエスの招きの中に置かれ、主イエスとの交わりを生きるようにされています。私たちの弱さやつまずき、私たちの悟りのなさや頑なさ、そういうものすべてを用いて、主イエスが、いよいよ弱く頑なな私たちと一緒に歩んでくださるお方なのだということを味わいつつ、生きる者とされたいと願います。

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