ただいま、マタイによる福音書第26章の17節から25節までをご一緒にお聞きしました。17節に「除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、『どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか』と言った」とあります。
この日、弟子たちが主イエスのもとにやってきて、過越の食事の支度について主イエスのお考えを尋ねたときに、弟子たち自身は、この食事については特別な思いを持っていなかったようです。これまでも弟子たちは、何度か主イエスと過越の食事をしていました。今年もまたその季節になったので一緒に食事をする、そしてそれはこれからも続くと考えていました。この弟子たちの姿は、丁度私たちが毎週礼拝を捧げている姿に似ていると言えるかもしれません。過越祭は年に一度、礼拝は週に一度と違いはありますが、私たちも毎週礼拝に来るときに、「今日が最後だ」とは思わないだろうと思います。多くの方は、これまでもそうであったように、これからもそうするつもりで来ていることと思います。
弟子たちは、過越の食事について、これからもずっと続くと考えていました。しかし、主イエスはそうではありません。主イエスは、この日の食事が地上のご生涯の中でお摂りになる最後の食事になるということを弁えておられました。弟子たちとこの食事を共にしたら、その晩遅くに、弟子の一人に裏切られ、敵に捕らえられ、翌朝には十字架に釘付けにされる。地上での務めを全て終えて息を引き取ることになることを、主イエスは既にご存知でした。
ですから、主イエスは食事の支度について尋ねた弟子たちに対して、後から思えば大変印象的な返事をしておられます。18節に「イエスは言われた。都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています』」とあります。この言葉を聞くと、主イエスはこの日の食事をどこで摂るかを既に決めておられた、しかも既に交渉して話もまとまっていたような印象を受けます。
けれどもここで重要なことは、主イエスが既に段取りを決めていたということではなく、その家の主人に対して「こう言いなさい」と言い含めて弟子たちに話させた最初の言葉です。これが極めて重要です。18節「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています』」。
「わたしの時が近づいた」という言葉は、4つの福音書の中でマタイによる福音書だけが伝えている、いわば特ダネのような記事です。主イエスが弟子たちに言わせた「わたしの時が近づいた」という言葉をこの福音書が伝えているのは、もしかすると主イエスの直弟子だったマタイが、実際に食事の席の交渉に行った弟子たちの一人だったのかもしれません。主イエスから直接聞かされた言葉を、弟子たちは「都のあの人」と言われる人に伝えました。弟子たちは、主イエスから言われた言葉をおうむ返しに伝えただけです。自分たちには分からなくても、聞いた人には分かるだろうと思ったのでしょう。けれども、おそらくこれは、その家の人たちにも分からなかったかもしれません。「わたしの時が近づいた」という言葉は、この過越祭の食事の準備の段階ではまだ宙に浮いた言葉で何を言っているのかわかりませんが、ただ主イエスのみ、はっきりと「わたしの時が近づいた」と感じておられるのです。
「わたしの時が近づいた」とは、どういうことなのでしょうか。ここだけを読んでも分からないのですが、この先を読むと主イエスが弟子たちに「時がやって来た」とおっしゃる場面があります。26章45、46節です。「それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た』」。主イエスが裏切られ逮捕される、まさにその場面で、主イエスは「時が近づいた」とおっしゃっています。主イエスがおっしゃる「時」とは、「十字架に上げられる時」のことです。
主イエスは、過越の食事を準備なさった時、そして一緒に食事をなさった時に、非常にはっきりと「十字架の時」を承知しておられました。弟子たちのうちの一人が裏切ることも承知の上で食事を共にされました。そして、主イエスが最後に摂った食事の席で、十字架にお架かりになる主イエスからの光が弟子たちの姿を明るみに出しています。
主イエスは、最後の過越の食事の席で、弟子たちが思いもよらないことを語り出したのだと、21節に言われています。「一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている』」。「はっきり言っておくが」と訳されている言葉は、ギリシャ語聖書では「アーメン、アーメン」と書いてあります。讃美歌や祈りの後のアーメンと同じですが、「まさしくその通りです」という意味です。主イエスは、今から本当に大事なことを教えるという時には、「アーメン、アーメン」と言いながら大事なことを教えてくださったのです。「アーメン、はっきり言っておく」という言い方は、いわば、主イエスの語り方の癖なのです。
では、その後に何とおっしゃったでしょうか。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われました。私たちは、イスカリオテのユダが主イエスを銀貨30枚で祭司長たちに売り渡して来たことを知っていますから、「あなたがたのうちの一人」はイスカリオテのユダだと分かっています。そして実際、この数時間後に、ユダは接吻をもって主イエスを裏切ることになるのです。「あなたがたのうちの一人」がユダであることは間違いのないことですけれども、この箇所を聞いて、私たちが簡単に「裏切ろうとしているのはユダだ」と考えてしまいますと、この晩、主イエスが弟子たちに伝えようとなさった、極めて大切な事柄を聞き逃すことになるかもしれないと思います。主イエスはここで、「イスカリオテのユダがわたしを裏切る」とおっしゃったのではありません。「あなたがたのうちの一人が裏切る」とおっしゃったのです。主イエスはユダが裏切ることをご存知なのですから、「ユダが裏切る」と言おうと思えば言えたはずです。けれどもそう言わず、わざわざ「あなたがたのうちの一人が裏切る」とおっしゃったのには意味があるに違いありません。
ところが私たちは、裏切ったのはユダだと分かってしまうと、主イエスがこのように言われた意味を深く受け止めようとしなくなります。「あなたがたのうちの一人」と言われていることが、ここでは殊の外大事なことです。主イエスは言われました。「わたしは今晩、これから裏切られる。そして敵に捕らえられ、十字架に架けられて処刑されることになっているけれど、そうなる裏切りは、あなたがたのうちの一人によって起こるのだ。よくよくこのことを聞いておきなさい」と、「アーメン、アーメン、裏切るのはあなたがたのうちの一人だ」とおっしゃったのです。
これは、親しい交わりの食事であるはずの席で言われたのですから、爆弾発言と言ってよいと思います。主イエスのこの発言を巡って、たちまち、この食卓が騒然となったことが述べられています。22節に「弟子たちは非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」と言われています。「主よ、まさかわたしのことでは」という言葉は、口語訳聖書では微妙に違うニュアンスの言葉でした。「主よ、まさかわたしではないでしょう」と尋ねた、それが口語訳です。事柄としては同じことを尋ねていることは分かりますが、微妙な違いがあると思います。「主よ、まさかわたしのことでは」という尋ね方では、「多分自分ではないだろう」と思いながら、しかし「もしかすると、わたしのことなのかもしれない」と、どこか思い当たらない節がないでもない、そういう幾分か怯んだような言葉の綾が感じられるのではないでしょうか。口語訳では「主よ、まさかわたしではないでしょう」と、明らかに違う、「100%わたしではない」と言っているように感じられます。
では、実際にはどうなのか、原文では打ち消しの言葉、否定の言葉が書かれています。英語でいうと「No」「Not」です。ですから弟子たちは、「もしかすると」という不安を抱いたというよりは、「わたしではない」という否定の気持ちの方が強かったようです。口語訳の方が若干正確なのかもしれません。
けれども、よくよく考えますと、まさに弟子たちがそのようだったからこそ、主イエスはこの過越の食事の席で「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切るのだ」とおっしゃったのかもしれません。弟子たちはもちろん、裏切る気はないのです。「自分たちの先生を裏切るはずないじゃないか」と思っています。ですから「裏切る」と言われた時に、「弟子たちは非常に心を痛めた」と言われています。「心を痛めた」ということの中には、「裏切るはずないのに、裏切るなんて言われて心外だ」という不満の気持ち、あるいは「疑われてしまった」という悲しみの思いが込められている、そういう弟子たちの心の痛みが含まれていると思います。弟子たちにとっては、主イエスの言葉は心外な言葉だったのです。ただ、弟子たちはそう思ったとしても、よくよく思い出してみますと、ユダのようにはっきりと裏切った弟子はユダだけですが、他の弟子たちは裏切らなかったのでしょうか。実は最後には、ユダだけではなく、弟子の全員が主イエスを見限り、見捨てて逃げ出すという仕方で裏切ったのではないでしょうか。
今日は過越の食事の最初のところだけを聞いていますが、この食事の場面はこれから35節まで続き、食事の後半になると、主イエスがもう一度弟子たちに向かって31節「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」とおっしゃる場面が出てきます。「あなたがたは皆、わたしにつまずいて、裏切るのだよ」とおっしゃるのです。ところが、これを聞いたペトロは、33節「するとペトロが、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』」と、大変威勢のよいことを言いました。そしてそれは、他の弟子たちも同じでした。弟子たちは、自分たちは決して主イエスを裏切るはずはないと思っていました。けれども実際はどうだったかというと、ユダの裏切りがあり、主イエスが逮捕されると、弟子たちは皆、蜘蛛の子を散らすように逃げ出したのだと記されています。「主よ、まさかわたしのことではないですよね? 他の誰が裏切ったとしても、決してわたしは裏切りません」と言っていた弟子たちが一人残らず主イエスを見捨てて逃げてしまう、そういう弟子たちが、ここで、主イエスの周りに集まって過越の食事を摂っているのです。
主イエスは、そのように弟子たちが皆、不甲斐ないことをご存知です。そして、そうであればこそ、わざわざユダの名前を伏せて「裏切り者が現れる」とおっしゃっています。「裏切り」がユダ一人だけの問題ではなく、弟子の誰にでもそうなってしまう危険があるとご存知だからです。そして、24節「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われました。この言葉は、ご自身を裏切るユダのことを思いやって、主イエスが深く憐れんでおられる言葉です。これは決して、ユダに対する呪いの言葉、恨みつらみの言葉ではありません。ユダへの復讐心があるならば、この時、他の弟子たちの前でユダを吊るし上げてもよかったのです。けれども、実際に主イエスは、ユダを恨んではいません。むしろ、ユダを憐れんで、行く末を思って嘆かれるのです。「生まれなかった方が、その者のためによかった」と主イエスは言われましたが、それはユダ自身のために「できれば思い止まり悔い改めてほしい」と願っていらっしゃるのです。
ユダが銀貨30枚で主イエスを売ったことは、先週の礼拝で聞きましたが、それは旧約聖書のゼカリヤ書に書いてあることが下敷きなのだと話しました。銀貨30枚は奴隷一人の身代金です。神から遣わされたまことの王であり羊飼いである方が、心込めて自分たちを養おうとしてくださったのに、羊たちは羊飼いになつきませんでした。そこで羊飼いは仕事を続けられなくなり、辞めるにあたって、羊たちに「わたしがちゃんと働いたと思うならば報酬を支払ってほしい。そうでなければ支払わなくてよい」と言ったところ、羊たちは銀貨30枚を支払いました。それは、心を込めて養ってくれた羊飼いを、自分たちにとっては奴隷同然だとみなした、そういう思いの表れです。
主イエスは弟子たちの間に来てくださり、親しく交わってくださいました。真実の主であり導き手である方が弟子たちと共に過ごしてくださった。にも拘らずユダは、主イエスを自分の思い通りにできる奴隷のような者だと思って銀貨30枚で売り払ってしまいました。
ユダはそのように主イエスを裏切りましたが、その結果がどうなるのか、主イエスは承知しておられました。後にユダは、自分の過ちに気づいて後悔します。主イエスが逮捕され、不当な裁判にかけられ、とんとん拍子に事が運んで十字架刑が決まっていくのを見て、ユダは深く悔いて、「銀貨30枚を返すので、主イエスの身柄を返して欲しい」と懇願しましたが、祭司長たちには取り合ってもらえませんでした。そういう中で、自分を責め、自分の運命を呪って悲観し、自ら命を絶ってしまうのです。主イエスは、ここではまだ生きているユダをご覧になっていますが、後に裏切ったユダがどうなっていくのかを、ここで既にご覧になっているのです。それで、ユダのことを深く憐れみ悲しんでおられるのです。この主イエスの嘆きは、真実の主であり羊飼いである方の嘆きです。99匹の羊を後に残しても、失われ迷っている一匹の羊を何とかして見つけ出し救い出し、元の群れに戻したいと羊飼いは願うのですが、その願いは果たされず、とうとうその羊は失われてしまう、そのことをユダの裏切りからご覧になって、主イエスは深く悲しんでおられるのです。
ですから、今日の箇所では「弟子たちが心を痛めた」と書いてありますが、それは、自分たちが疑われたからであり、自分のために心を痛めているのです。しかし主イエスは違います。ここに記されてはいませんが、裏切るイスカリオテのユダのことを思って、本当に心を痛めておられるのです。けれども、そういう主イエスの悲しみは、ここではユダには届きませんでした。ユダは此の期に及んでまだ、自分の企みを主イエスに気づかれていない、隠しおおせていると思っています。それで、素知らぬ顔で他の弟子たちと同じように言いました。25節「イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことでは』と言うと、イエスは言われた。『それはあなたの言ったことだ』」。ここで「まさかわたしのことでは」と言ったユダの高慢さに驚かされますが、それ以上に気になる言葉「それはあなたの言ったことだ」と、主イエスはおっしゃいました。
この主イエスの言葉は謎めいた言葉として、昔から注目されて来ている言葉です。原文では「あなた、言った」と書かれています。ユダが「まさかわたしのことではないですよね?」と言った言葉を、「それを言った」と強調している言葉だとも言われます。この強調は、ユダが「わたしではない」と言っているのに対して、主イエスが「よく言った。お前はそう言った」とも聞こえなくありません。主イエスはこの場面で、ユダのことを心から深く憐れみ悲しんでおられます。できるなら、ユダも他の弟子たちと同じようであって欲しい。他の弟子たちも主イエスを裏切りますが、しかしユダのように接吻によって「この人だ」と指し示すような、決定的な仕方で裏切るのではなくて、他の弟子たちのような、主イエスの逮捕を見て驚き逃げる程度の裏切りであって欲しいと思われたのでした。裏切りであることは間違いありませんが、他の弟子たちと同じであれば、おそらくユダは、自分が主イエスを売り渡したということにはなりません。一度は逃げ去ったとしても、そこで悔やんでもう一度やり直すことができる程度の過ちに踏みとどまることができたのです。
では、もしそうであった場合に、主イエスはどうやって逮捕されるのかということは分からないことで想像もつきませんが、しかし主イエスは最後までユダが決定的な裏切り者にならないで欲しいと願い、自分たちが主イエスを裏切るはずはないと思っている他の弟子たちと同じように、素知らぬ顔で「まさかわたしではないですよね」と言っている、そのユダに「あなたがそう言っているのだよ。あなたは他の弟子と同じことを言っているのだよ」と言おうとしてくださっているのです。できれば他の弟子たちと同じところに留まっていて欲しいと願っておられるのです。けれども、それでは主イエスの十字架の救いの御業がどのように行われていくのか、それは最後には主イエスの決断ではなく、父なる神の御心によることです。
今日の箇所では、主イエスがすべてをご存知であり、既に主イエスを裏切ることを決めていたユダの心にさえ憐れみをかけておられる、そういう主イエスの姿が語られています。そして、「思い返すように」と願ってくださる主イエスがおられることを聖書は語っています。
私たち自身のことを思います。私たちはどうでしょうか。主イエスを売り渡そうとか、捨て去ろうとか、皆と同じ顔をしているけれど実は自分は裏切っている、そういう方はおられないでしょう。しかし同時に、私たちは、天使のような存在ではありません。無垢ではなく、心の中に思い計っていることも様々です。実際に私たちは、自分の生活の中で、始終主イエスを忘れ、神に背を向けて歩んでしまうような時がしばしばあるような者です。神に従い、主イエスに従うよりは、自分の思いや自分の願いや楽しみを追いかけ、迷い出してしまう、そういうことが起こりがちな、ままならない生身を引っさげながら生きています。主イエスと食卓を共にして親しく交わっていても、なお、私たちは主イエスと常に共に生きることができないような深い溝を、主イエスとの間に抱えてしまうような者です。
しかし主イエスは、そういう者を深く憐れんで、「迷い出すのではなく、できれば元に戻るように」と願ってくださるのです。そして主イエスは、何とかその深い溝を越えようとして、ご自身が十字架に向かって行かれるのです。主イエスと私たちの間にある隔ての壁を、主イエスが自ら身を捨て、打ち壊して、そして私たちのところに来ようとしてくださるのです。その主イエスが、ユダのことを深く御心にかけて憐れんでくださり「わたしの許にいるように」と呼びかけてくださるのです。
そして、その主イエスに、同じように、ここにいる私たちは覚えられ、主イエスに立ち返って生きるようにと願われている一人一人であることを覚えたいと思います。
そういう者であるからこそ、私たちは、教会で聖書の御言葉を繰り返し聞かされ、主イエスの呼びかけを聞かされ、御言葉によって新しく造り変えられて生きる、そういう生活を与えられています。
主イエスがいつも共に歩んでくださろうとしている、そのことを聞き取り、それを信じ、主イエスの御言葉に与りながら、ここから歩み出したいと願います。 |