聖書のみことば
2019年2月
  2月3日 2月10日   2月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

2月10日主日礼拝音声

 キリストの体、契約の血
2019年2月第2主日礼拝 2月10日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マタイによる福音書 第26章26〜30節

<26節>一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」<27節>また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。<28節>これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。<29節>言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」<30節>一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 ただいま、マタイによる福音書第26章の26節から30節までをご一緒にお聞きしました。始まりの26節に「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である』」とあります。
 マタイによる福音書26章というのは、主イエスの地上のご生涯の中で、最も激しく光と暗闇が交錯し戦いが戦われている、そんな箇所だと言っている人がいます。まことに麗しく輝かしい出来事と、まことに暗い出来事とが交互に出てくる、それがこの章です。

 この章の始まりからを思い返してみたいと思います。最初のところでは、祭司長たちが密かに集まって、主イエスを捕らえ有無を言わせず殺してしまおうと企てています。そこには、まことに深い闇があります。
 その後に語られているのは、一人の婦人が極めて高価な香油を主イエスの頭に注いだという出来事です。そうしてこの人は彼女なりの精一杯の主イエスへの感謝と献身、愛を表しているのですが、しかし、弟子たちの中にはそれを理解しない人たちもいました。理解しない人たちからは「何という無駄遣いか」という非難の声が上がります。ところが主イエスは、この出来事を、ご自身の十字架の死の葬りに結び付けてくださり、御業の一つとして「この人の行なったことは福音の語られるところではどこでも記念として語られるようになる」と言って、この人の行ないをかばい、気高い出来事であったことを弟子たちに教えられました。
 さて、その次に続く話は、この婦人を非難した弟子たちの一人であるイスカリオテのユダが、自分から祭司長たちの元を訪れて主イエスを裏切り身柄を引き渡そうとする、そういう密談が語られます。またしてもこれは、深い闇の出来事です。ユダは、銀貨30枚という奴隷同然の値段で主イエスを引き渡しました。ユダは密かに事を運んだつもりですが、しかし主イエスはすべてそれをご存知で、弟子たちと食事をしながら「あなたがたの一人がわたしを裏切るのだ」とおっしゃいます。弟子たちはその時に口々に「まさかわたしではないですよね?」と尋ねました。12弟子たちは主イエスの言葉を聞いて、誰一人平然としていることができませんでした。皆、心のうちにユダのような陰りを密かに宿していたからです。そうでありながらも、自分が主イエスに対して不従順だということを直視できずにいます。弟子たちが抱えている闇は、もちろんイスカリオテのユダのところで最も深くなっていますが、しかしあの場面では、一人の真っ黒な弟子と11人の真っ白な弟子がいたのではなく、12人が12人とも自分の中に暗い陰を宿していました。しかし弟子たちは、自分の心の闇を直視できず自覚もしていないので、「どこまでも主イエスに従う」と言い張ります。「一緒に死ななくてはならないとしても、付いていきます」と言い、主イエスから「あなたたちは、そうすることができないのだ」と申し渡されます。実際に主イエスが逮捕された途端に、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまい、主イエスを裏切ったのだと語られています。
 この26章は、いわば、「神が明るい光を照らしてくださる、その下で、人間が深い闇を抱えていることが明らかになってくる」、そんな章です。まるで綱引きをするように、光が勝つか闇が勝つか、ギリギリのところで戦いが行われている、そういう章だと言ってよいと思います。
 最後には、主イエスがゲツセマネの園で必死に祈ってくださるのですが、今日の箇所は、そのように、主イエスが祈りをもって戦われる中でなさってくださった出来事、私たちが最後に勝利を与えられるような大きな出来事が語られているところです。
 私たちが最後に神のものとされ、確かに清らかな者として生きていくのだということは、実は、信仰によってしか知ることはできません。肉眼で自分自身を見て、ずいぶん自分は清らかになったと言うことはできないのです。地上の生活を生きている限り、私たちは自分の抱えている闇に忍耐しながら生きていきます。そして、それでも神が生きてよいと言ってくださり、支えてくださり、価値ある者として生かされているのだと信じる他ありません。その信仰を強めるために、主イエスは今日のところで一つの記念碑的な出来事を制定してくださっています。これから主イエスが十字架に架かり肉を裂き血を流される、そのことが、古の「過越の出来事」に重なるのだということを弟子たちに示してくださったのです。

 26節の初めのところでは、「一同が食事をしているとき」と始まっています。この食事は、過越の食事です。過越の食事とは、はるか昔、エジプトから脱出して来たイスラエルの先祖たちにまで遡ります。エジプトで奴隷暮らしをしていた人たちがエジプトから救い出される、その前夜に、神はエジプトを生き巡られ、人間であろうと動物であろうとすべての初子を打って死なせるという裁きを行われました。皆が初子を殺されてしまうという悲しみを経験させられるのですが、そういう中で神を信じる人は、生贄の子羊を屠り、その子羊の血を家の門柱や鴨居のところに塗るようにと命じられます。神が言われたことを信じて、血を塗った人たちは、裁きが過ぎ越され、その家の初子だけは助けられるということが起こりました。身代わりの子羊の血によって裁きと滅びが過ぎ越されて行ったということを覚えるのが過越の祭りで、そのことを覚える食事が過越の食事です。主イエスはこの時、弟子たちと一緒にこの過越の食事を摂っておられたのですが、そこで、これから起こる十字架の深い意味を教えられました。今日のところでは主イエスがご自身でパンを取り、神に賛美の祈りを捧げ、それを裂いて弟子たちに渡しておられます。主イエスが自分でパンを取りそれを分け与えたということは、この食事のホスト役、主人を主イエスがなさっておられるということです。十字架の御業もそうですが、主イエスはまずご自身が率先して御業をなさっていかれるようなところがあります。弟子たちがその意味を分かるまで待って、分かるようになってからなさるのではないのです。弟子たちが分かろうが分かるまいが、主イエスはご自身の御業としてなすべきことをなさいます。
 ここで、主イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われました。「取って食べなさい。これはわたしの体である」。裂かれたパンを示しながら、「このパンはわたしの体である」と言われます。そういう言い方で、主イエスは、ご自身の身が暴力的な仕方で引き裂かれるということ、そしてそういう仕方で亡くなるのだということをお示しになります。「このように暴力的で痛ましい死に方をするけれども、まさにそれは、あなたがたのために裂かれているパンとなる、そういう出来事だ」と教えておられるのです。主イエスは、その引き裂かれたパンを食べるようにと弟子たちに促されました。そしてまた、弟子たちの前に杯を差し出して、この杯から飲むようにと促されました。「パンを食べ、杯に与る」そのことを通して、主イエスは、過越の犠牲として肉を裂き血を流すご自身に弟子たちを結び付けようとなさっているのです。
 もちろん、この時に食べたのは肉と血ではありません。パンであり葡萄酒ですが、しかしその出来事を通して、実は、弟子たちは「キリストの体をいただき、キリストの血に与る」者とされているのです。

 主イエスはここで、ぶどう酒を示しながら、更に丁寧な説明をなさいます。28節に「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とあります。主イエスはこれまでも、弟子たちに対して繰り返しご自身の受難の話をしてこられました。「これから上っていくエルサレムで人の子は捕らえられ、侮辱を受けた後、十字架に架けられて殺される。けれども三日目に復活する」と、何度も教えておられました。しかし、ただ痛々しいだけの死ではなく、「多くの人の身代わりとして流される血であり、その血によってあなたがたの罪が赦されるのだ」と、今日のところではっきりと語られるのです。十字架の上で主イエスが流される血は、「あなたのために流される血である。あなたに代わって、あなたが流さなければならない血を、わたしが十字架の上で流す。その血が流れるのだから、あなたは赦されるのだ。その血を無駄にしてはならないのだから、今、あなたはこの杯から飲みなさい」とおっしゃるのです。
 大昔の過越の時に裁きを過ぎ越された人たちは、「子羊の血を自分の家の門の鴨居に塗る」ということを求められました。「神さまが裁きをなさることを聞いて知っている。だから、その裁きを逃れたいと思った。だから逃れることができた」ということではないのです。実際に、「子羊の血を自分の家の門の鴨居に塗る」、それをした人が裁きを免れたのです。そして、「主イエスが差し出すパンをいただき、杯を飲む」ということも、そういうところがあるのです。
 私たちは自分の信仰について考える時に、どうしても「自分が理解する」ということを大事に考えるようなところがあります。そして「理解しさえすれば、救われたも同然だ」と思ってしまうところがあります。主イエスはここで、このパンと杯の意味を理解できるように説明をしてくださいましたが、しかし「理解すればよい」とおっしゃっているのではありません。「このパンを取って食べなさい。この杯に手を伸ばして、ここから飲みなさい」とおっしゃるのです。それは、「十字架によって私たちに赦しと命を与えてくださる主イエスとの交わりの中を、あなたは生きて行きなさい」ということなのです。
 私たちの生活は、ただ私たちの心の中、思いの中にあるのではありません。私たちはこの地上で生身を引きずり、肉体を持って生きて行きます。実は、聖餐式でパンとぶどう酒に与ることを通して、私たちは、「ここで実際に主イエスに養われながら、主イエスに清められながら生きていく」という意味があるのです。「聖餐に与ることは大事だと知っている」と言えば事足りということではありません。私たちは、この生身の生活が清められていかなければならないのです。それは、「主イエスの十字架と復活に私たちが生活をもって与っている」ということです。イエスの十字架と復活は、ただ私たちの心を救い、気持ちを軽やかにしてくれるだけのものではありません。私たちの全体を救ってくださる御業がキリストの十字架であり復活なのです。

 私たちは心の思いを朗らかにされるだけでなく、手の業も、人生全体も、神が主イエスに結んでくださり、清めて救ってくださるのです。私たちの人生は、ただ単に主イエスが復活して私たちと共にいてくださると知って心が軽やかになるというだけではない。主イエスが共に歩んでくださる生活を送る時、私たちは、自分の生活の中で、ついうつむきがちになる自分の心の思いを確かに支えられ慰められ、力づけられ、そして、実際に私たちの生き方も変わってくるようなところがあるのです。
 すなわち「主イエスがあなたのために犠牲となり血を流している。そしてあなたと共に今も歩んでいる、だからあなたは神さまと結ばれるのだ」と聞かされる時に、私たちの中にはある種の落ち着きが生まれてくるようになります。「神さまがわたしを愛してくださっている。主イエスを見上げると、本当にそれは確かなことだと分からせてもらえる」、そう知る時に、私たちは、一人一人様々な問題を抱え、悩みを抱え、嘆きや痛みを持って生きていますが、「ここに生きている弱く貧しい、乏しいわたしを、それでもなお神が確かに覚えてくださっている。そして主イエスが確かにわたしに伴って歩んでくださる」という平安な思いが生まれてくるのです。そして、「今のわたしの状況では思うようにならないことがたくさんあるけれど、それでもなお、わたしは、ここで神さまに支えられている。神さまが、ここで生きてよいとおっしゃってくださっている。だからわたしは、本当にくたびれて弱っているけれど、しかし大丈夫に違いない」という思いが与えられ、それを信じた上で、新しい態度が生まれてくるのです。それは、「自分は、今は小さく弱い者に過ぎないけれど、しかしここで、ここから、自分には何ができるだろうか。わたしにできることは何なのだろうか」と考える落ち着きが与えられて、もう一度ここから歩んでいこうとするスタートラインを与えられるのです。そのようにして、一日一日、今日なすべきこと、今わたしにできること、その一歩一歩の歩みを歩んでいくうちに、私たちは随分と変えられていくということが起こるのです。

 そしてそれは、一時だけ起こるのではなく、私たちの生涯を通してずっと御言葉に聞き続けていくならば、私たちは、一生の終わりまで主イエスに伴われ、神が支えてくださる自分なのだという生活になるのです。
 またそれは、思いがけないほど、後にまで続きます。私たちはやがて高齢になり、もはや教会に行くことができないという時が来るかもしれません。私たちが死の床に横たわり、あと数時間、数分後には地上の命を終えるという時が来た時にも、ここまで自分を歩ませてくださった神に感謝をしながら、今弱っていく自分自身を神にお委ねし、心残りである周りの愛する人たちのことも神にお委ねをして、最後まで祈りをもって歩むことが許されています。
 私たちにとって信仰とは、心の思いが軽くなるだけということではないのです。そうではなく、実際に主イエスに結ばれ、主イエスとの交わりに生かされている者として、私たちの生活全体が清められ、変えられ、新しくされていくのです。頭や心の中で理解するだけということではなく、「礼拝を捧げ、主イエスの肉と血に与る」、そういう生活をする中で、私たち自身が本当に神のものとされた生活を生涯の終わりまで歩んでいくようになります。
 そういうことですから、主イエスは「このパンを取って食べなさい。この杯から飲みなさい」とおっしゃるのです。そういう生活へと主イエスは私たちを招かれるのです。主イエスと結ばれた者として、「わたしと一緒にこの食卓につき、ここからパンを食べ、ここからぶどう酒を飲み、共に生きる生活を生きるのだよ。わたしは終わりまであなたと一緒に歩んであげるのだから、あなたもここから取って食べ、飲みなさい。ここで養われなさい。そしてここでわたしのものとして生きて行きなさい」と言ってくださるのです。

 主イエスがこの日、弟子たちに与えてくださった食卓の交わり、これは本当に私たちの思いを超えて遥かに広く深く広がっています。私たちが主イエスとの交わりを持って生きるということを考える時には、どうしても私たちは、今のこの地上の生活に捕らわれてしまいますから、この地上の中で主イエスがどうしてくださるのかということぐらいしか想像できません。パンとぶどう酒に与る生活というのも、私たちにとって、差し当たっては、この地上の人生の中で起こることだと思っています。
 ところが、主イエスは違います。主イエスは、「パンとぶどう酒に与る生活は、地上の生活を超えて、終わりの日、全てが完成されて、神さまの御前に私たちが集められる時にまで及んでいくのだ」と言われます。それはもちろん、肉眼で見えるもの、人間の理屈で分かるものではありませんが、しかし主イエスは、はっきりと「そうなる」とおっしゃっています。29節「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」。
 「言っておくが」と、主イエスは前置きをなさいます。これから大事なことをおっしゃる時、原語では「アーメン、アーメン」という言葉が繰り返されているのですが、そうおっしゃった後、大事なこととして「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日が来る」とおっしゃるのです。「あなたたちは、この地上の生活をわたしと共に歩んで、励まされ力づけられながら生きるだけではない。地上の生活を全て終えた後に、全てが完成され、天の国に私たちがもう一度集められる時に、そこでもなお、あなたたちは、わたしと共に過越を祝い、罪を赦され清められた者として生きてよいと言われている。その約束を聞きながら、清らかな食卓に与って、命を与えられている者として歩むことを許されているのだ」とおっしゃるのです。

 もちろん弟子たちは、こんなことを言われても、この時に全て分かったとは思えません。主イエスがここでおっしゃっていることは、あまりに広大、遠大すぎて、地上を生きている私たちには見当がつかないようなことです。私たちがまだ若くて、これから人生を生きていかなければならないと思っている時には、こんな先の、地上の生活が終わった時のことを言われても想像もつかないと思う方もおられるでしょう。けれども、私たちはそれを幾分かでも見せられてもいるのです。教会生活の交わりには、終わりの日の神の食卓に与る交わりを表しているようなところがあるのではないでしょうか。
 私たちの教会では、礼拝後に昼食を共にする「交わりコーナー」がありますが、あの食事の席を見れば、性別も、年代も、国籍も問わずに、皆で共に食卓について、いろいろな人と会話を交わす、そういう交わりが普通になされています。このような交わりが、教会の外にはあるでしょうか。多くの人が集まる場はあるでしょう。けれども、私たちが集まる時には、大抵は自分と同質の人としか集まらないでしょう。多くの集まりであっても、それは同じ趣味の人、同じ年代の人、と同じものを持っている人の交わりです。けれども、教会の交わりは違っているように思います。もちろん、世代や性別や職業の違う人に声をかけるのには勇気がいるということはあるでしょう。引っ込み思案で交わりに入りづらいという人もいることでしょう。けれども、その方が交わりから排除されているということはありません。私たちは皆で一緒に食事を食べ、力を与えられ、午後の生活に向かっていきます。私たちの教会では毎週のことですが、それは実は、終わりの日の交わりを幾分かでも映しているのです。神が私たちすべての者を招いてくださって、一つの食卓に与からせてくださるのです。主イエスが「わたしのパンを食べ、わたしの杯を飲み、そして、わたしの言葉を聞いて慰めと力と勇気を与えられてここから歩んで行ってよいのだよ」と言ってくださる、その交わりの中に置かれた者同士として、私たちは、教会の交わりを経験させられています。

 今日の箇所は、改めて注意して読んでみると、最初と最後に賛美の声が上がっていることに気づきます。26節では「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えた」、そして30節では「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」と、「賛美」ということが語られています。十字架を前にしながら、賛美の祈りを主イエスが祈っておられ、そして終わりには、その主イエスの祈りに導かれるようにして、弟子たち一同が声を揃えて賛美の歌をうたって歩み出しています。
 神を賛美する明るさとは、どこから生まれてくるのでしょうか。それは、「どんな時であっても、主イエス・キリストを通して神が私たちと共にいてくださる」、そこからもたらされてくる明るさです。神は、私たちが神の光の下で生きるようにと招いてくださいます。
 この章は最初から、神の光が照らされ、人間の闇がそこにあって、激しい戦いが繰り広げられていると申しました。私たちの地上の人生とはそういうものだろうと思います。神が私たちを真剣に愛し、「あなたは生きてよいのだ。わたしの前に生きなさい」とおっしゃってくださるのですが、同時に私たちには様々な心の闇があって、なかなか清らかな天使のようには生きられないという嘆きや悲しみを持っています。けれども、そういう私たちのもとを主イエスが訪れてくださり、親しく交わりを持ってくださり、「あなたは、わたしとの交わりの中を生きてよいのだよ」と招いてくださるのです。「あなたはわたしによって清められていく。わたしはあなたがたと同じように洗礼を受ける。だからあなたも洗礼を受け、わたしの民に連なりなさい。そして、そこでわたしのパンを食べ、わたしの杯を飲んで、わたしとの交わりの中を生きていくように」と招いてくださるのです。

 主イエスが共に歩んでくださる、その印が、私たちの教会に洗礼や聖餐として与えられている印です。私たちは、その印を通して、ただ人間同士の交わりの中に入るのではなく、「主イエスが私たちを招いてくださる一つの体」に集められ、「神が顧みてくださり、支えてくださる」、そういう群の一員として生きるように招かれていくのです。

 たとえ、嘆きや悲しみや痛みが私たちを取り囲み、私たちが耐え難い辛さを覚える時にも、主イエスはそこにいて、「わたしはあなたの代わりに十字架に架かっている。あなたは打ち叩かれ弱っているように思うかもしれないけれど、しかし、あなたはそこで生きている。もう一度そこから生きてよいのだ」と言ってくださるのです。
 私たちは、そういう主イエスに励まされ、慰めと力を与えられながら、もう一度自分に与えられている生活を、ここから歩んで行くのです。

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