2019年11月 |
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11月3日 | 11月10日 | 11月17日 | 11月24日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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神の言葉は繋がれず | 2019年11月第4主日礼拝 11月24日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/使徒言行録 第10章1〜23節 | |
10章<1節>さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、<2節>信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。<3節>ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。<4節>彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。<5節>今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。<6節>その人は、皮なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」<7節>天使がこう話して立ち去ると、コルネリウスは二人の召し使いと、側近の部下で信仰心のあつい一人の兵士とを呼び、<8節>すべてのことを話してヤッファに送った。<9節>翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。<10節>彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、<11節>天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。<12節>その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。<13節>そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。<14節>しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」<15節>すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」<16節>こういうことが三度あり、その入れ物は急に天に引き上げられた。<17節>ペトロが、今見た幻はいったい何だろうかと、ひとりで思案に暮れていると、コルネリウスから差し向けられた人々が、シモンの家を探し当てて門口に立ち、<18節>声をかけて、「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねた。<19節>ペトロがなおも幻について考え込んでいると、“霊”がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。<20節>立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。<21節>ペトロは、その人々のところへ降りて行って、「あなたがたが探しているのは、このわたしです。どうして、ここへ来られたのですか」と言った。<22節>すると、彼らは言った。「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです。」<23節>それで、ペトロはその人たちを迎え入れ、泊まらせた。翌日、ペトロはそこをたち、彼らと出かけた。ヤッファの兄弟も何人か一緒に行った。 |
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ただいま、使徒言行録10章1節から23節までをご一緒にお聞きしました。1節2節に「さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。『イタリア隊』と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」とあります。カイサリアという地名が出てきますが、カイサリアは当時、地中海に向かって開いていた大きな港町で、ユダヤの玄関に当たるような場所でした。ローマ帝国にとっても交通の要所で大切な拠点でしたから、この町には、ローマの守備隊が置かれていました。コルネリウスは、守備隊の隊長の一人でした。「イタリア隊」とありますから、イタリア人によって編成されていた部隊だと分かります。 軍人は戦いになれば命のやりとりが出てくる職業ですから、命のことを思い縁起をかつぐ人たちや、ご利益によって守ってもらいたいと考える人も多くいたと思います。 ところで、もう一方の当事者だったペトロはどうだったでしょうか。ペトロはもちろん、カイサリアから自分を招こうと使いが向かっているとは知りません。しかしペトロも祈っていたのだと言われています。9節に「翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである」とあります。屋上とは、屋根の上という意味です。ペトロが居候していたのは、皮なめし職人シモンの家ですから家はあまり広くなく、職場も兼ねていたのでしょう。家の中では一日中シモンが仕事をしている。祈るためには静かな場所を得たい。ペトロはそう願って、平らな屋根の上に登らざるを得なくなったのです。 ところが、そのように祈ろうとして屋根に登ったペトロは、いざ祈ろうとしたところ、お腹が空いているということに気づきました。神の御心を尋ね考えたいと思っていたのに、いざ祈ろうとすると、すぐに気持ちが横に逸れていってしまう、そういうペトロがいます。 私たちも経験することでしょう。私たちの生活しているこの世界には、好ましく見えること、麗しいことだけがあるのではありません。いかにも汚らわしく思えることや堕落したこと、あるいは、神など全く関係ないという中で営まれている生活がたくさんあります。ところが、そうした全てのものを神は一緒くたにして「これは清いものである」とおっしゃり、受け入れてくださるのです。しかしどうしてでしょうか。 ペトロは、夜の間に、そういう理解へと導かれました。そしてこれはペトロにとって、誠に新しい気づきでした。この時まで、ペトロは、もちろん主イエスの十字架によって罪が赦され清められることを知ってはいましたし、信じていました。けれども、それは自分たちのためのことだと思っていました。 ペトロは、そういう主イエスの死の出来事を遠くから見て、それが実は「わたしのための出来事だった」と、後から気付かされます。主イエスが復活なさり、ペトロのもとを訪ねてくださった時です。その時にペトロは、自分たちが本当に不甲斐なく主イエスを見捨ててしまったと、一生自分のことを責め続けなければならないと思っていたのですが、主イエスが甦りペトロの前に現れてくださり、「ペトロよ、おまえはわたしを愛しているか」と尋ねてくださり、ペトロの思いを確認してくださるのです。主イエスを3度知らないと言ったペトロに対して、3度、「おまえはわたしを愛しているだろう」と尋ねてくださいます。それでペトロは気付かされます。自分は主イエスを拒んでしまった、どうしようも無い弱さを抱えた惨めさの中で生きていくより他ないと思っていたけれど、主イエスが尋ねてくださると「わたしは主イエスを本当に愛している」ことに気づかされ、主イエスの弟子として「わたしの羊を飼いなさい」という働きに立てられていくのです。 ペトロはそのように歩んで来たのですが、この日示された幻によって、今やはっきりと知るようになりました。すなわち、主イエスが十字架によって罪を清められた人たちは、ただペトロだけ、弟子だけではなく、もっとずっと広い範囲に及ぶものでした。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」。主イエスの十字架による清めとは、この世界、この宇宙全体に及んでいくものなのです。 そして朝になった時、ペトロはもうためらいませんでした。コルネリウスから遣わされた使いの者と連れ立って、カイサリアへと向かって行きます。コルネリウスの家に着くと、ペトロはまず、自分が幻を見せられたことから話を始めます。「神は本当に人を分け隔てなさらない。どんな人間も神さまの保護と支えの元に生きて良いのだと気づかされたので、ここに来ました」と言って、コルネリウスとの会話を始めます。 神は、そういう幻をペトロにだけお示しになるのではなく、私たちにもお示しくださいます。私たちは、自分が主イエスの十字架によって罪を赦され、清められ、新しい生活を始めることをとても喜び生きていますが、それはただ、自分だけの話ではないと、私たちは今日、聖書から聞かされています。主イエスの十字架による新しい命の光は、わたしだけに注がれているのではなく、初めてこの話を聞く人の上にもその光が差し込んでいますし、あるいはまだこの話を知らない人の上にも差し込んでいく、そういうものなのです。 主イエスが、わたしのためにも十字架に架かってくださり、復活して私たちのもとを訪れて、「あなたはわたしを信じて生きてよいのだよ」と呼びかけられたからこそ、ここにいる私たちはキリスト者となっています。キリスト者となっている人は、一人の例外もなく、そうであるはずです。主イエスから呼びかけられもしないのに、自分で悟りを開いたなどというキリスト者はいません。そうではなく、復活した主イエスが私たちに「わたしはあなたと共にいる。あなたは今日ここで、神さまに喜ばれた者として生きてよい」と呼びかけられていることを信じて、キリスト者となっています。 主イエスが既に十字架にお架かりになり、復活して私たちを招いてくださったからこそ、私たちはキリスト者とされています。そして、主イエスの御業の光は、この世界中に差し出していくものなのです。私たちは、そのことを聖書から聞かされています。 |
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