ただいま、コリントの信徒への手紙二6章1節から13節をご一緒にお聞きしました。1節に「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とあります。パウロがコリント教会の人たちに語りかけたことは「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけない」ということでした。一体「恵みを無駄にする」とは、どういうことでしょうか。コリント教会には恵みを無駄にしていた人がいたということが背景にあると考えられています。そのような教会の姿をパウロが悲しみ、「そうであってはいけない」と勧めたことが分かります。
コリント教会の人たちが忘れていたことは、「十字架のイエス・キリストのお姿」でした。罪ある私たちを、主が十字架の犠牲によって贖い、悪と死の力から救い出してくださった、その恵みを忘れてしまって軽んじている姿、それをパウロは「恵みを無駄にしている姿」と考えていました。そのことは同時に、教会の人たちが自分たちの罪の重さ、罪の姿を忘れてしまっていたことと結びついています。
私たちも、自分の罪というものを忘れてしまうということは、よくあることではないでしょうか。大変気をつけていても、私たちの本質は罪に近づいており、もし仮に礼拝する生活から離れてしまえば、きっと「罪ある自分」ということが分からなくなってしまうのではないかと思います。とても気をつけて、自分の思いを深めていって、内省し続けるということがあって、やっと気づくというようなものではないからです。
私たちは御言葉によって示されて、御言葉、聖霊のお導きによって明らかにされて、初めて、罪ある自分というものを知ります。私たちの罪のために命を献げてくださったお方がおられること、十字架におかかりくださった救い主のこと、その御業に現される神の愛、永遠の命へと導いてくださる救いの出来事というものを知らされます。そのことによって初めて、自分が罪ある者であったことを知らされ、洗礼へと導かれます。清らかなものを知らなければ、清らかさや清らかに生きるということが分からないように、もし主イエス・キリストを知らなければ、主イエスによって罪を赦されたことを知らなければ、罪赦された者として新しく生きる生活を知ることはできないと言って良いと思います。
神からたくさんの恵みをいただいている私たちは、恵みの中の恵みと言ってよい「福音」を知らされました。「救い」をいただきました。その「十字架による救い」を無駄にしてはいけないと、1節でパウロは勧めています。わたしのために命を献げてくださった方がいるのに、知らないふりをして良いのですかということです。ルカによる福音書の放蕩息子の譬え話の中に、弟息子が父の財産を分けてもらって旅に出る場面がありますが、遠い国で弟息子は財産を「無駄遣いした」と出てきます。その言葉は「空にする」という言葉で、今日の箇所の「恵みを無駄にする」と同じ言葉が使われています。ですから、「神からいただいた恵みを、空っぽのようなものに、何もなかったかのように、何のプレゼントも受け取っていないもののようにしてはいけない」と理解することができます。
そしてパウロは、「今こそ恵みを受け、救いに与った日」「これからは恵みを無駄にしない」と語り、そのあと3節では、「それでは、私たちはどのように生きていくのか」と語り出しています。
3節に「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず」とあります。恵みを無駄にしないために、まず、福音を伝える奉仕の務めが非難されないようにする。それは福音そのものに絶大な価値があるからです。福音を伝える務めが身近な人だけではなく、世界中すべての人を完全に救う尊い恵みを伝える務めであるからです。私たちは、その福音を伝える務めが非難されないようにするのです。
「非難」という言葉ですが、私たちはどちらかと言うと、自分が非難されるということには敏感に反応するということが多く、些細な悪口や陰口も気になります。気分を害することを言われることもあり、気にしないようにしていても気になり、言われた言葉を自分の中で繰り返して反復してしまうこともあります。身近にある神の言葉を聖書を通して何度も繰り返し思い起こすというよりも、人の言葉や非難の言葉を大きく聞くことが多かったりします。そのように、自分を保つということに必死になってしまうことがある私たちですが、問題はわたしの評判ではないはずです。もちろん、社会において、良い評判のキリスト者がいるということは良いことでしょうし、尊敬されるキリスト者の存在を通して教会へと足を運ぶ方がおられたら、素晴らしいことだと思います。
けれども、私たちはそこで、自分を見てもらいたいわけではありません。わたしを救ってくださった恵みの御業、福音を伝えたいと願っているはずです。わたしは欠けの多い存在で、誰かのお手本になるような者ではないとしても、そういうわたしをなお認め、赦し、新しい者へと変えてくださった救いの出来事が確かにあったということを伝えたいのです。
3節では「人に罪の機会を与えないようにする、つまずきの機会を与えないようにする」と言われています。救いの御業を語るために、何人かでも救うために、どんなことでもすると語ったパウロは、人をつまずかせないように配慮する人でもありました。私たちも、自分の評判のためではなく、自分をよく思ってもらうためでもなく、ただ救いの御業を語り告げ知らせるために、わたしをお選びくださった主に感謝して、人に罪の機会を与えない、つまずかせない、そういう生き方を勧められています。
そしてそのような生き方を、ここでパウロは一言で「神に仕える者として生きる」という言葉で言い表しています。4節に「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」。「仕える者」には「僕、家来」といった意味がありますが、主人と僕、主人と奴隷、王と家来といった上下の人間関係を身近に経験することが、昔に比べると、少なくなってきているのではないかと思います。身分制度がある中で不平等な社会が認められるということではありませんが、現代に生きる私たちは、主人に仕える、しかも喜んで仕えて生きる、そういう僕の気持ちを分からなくてなってきているように思います。
それにも増して、私たちにとって難しいのは、人間に仕えるのではなく、目に見えない神に仕えるということです。「人に仕える」ということは、それを望むか望まないかは別として現代でもある程度あり得ることですが、神に仕えるにはどうしたら良いのでしょうか。「人に仕える」のと「神に仕える」のとでは、決定的な違いがあるということは分かります。人に仕える場合、上に立つ人が人格的に良い資質を持たないリーダーであれば、仕えにくいということが起こります。そういう意味で、人間のリーダーは完全な者ではありません。しかし、主なる神はご自分の都合で仕える者たちを搾取したり、振り回したり、自分の思いで意地悪をするというようなことはありません。
神の御支配は恵みの御支配です。そしてこの方は、罪ある私たちを救うために、独り子を差し出してくださり、愛を持って匿ってくださる、そういうお方です。非人間的で搾取に手を染めるような残酷な主人に捕らえられていた人が、身代金を払っていただいて助け出されて、新しい主人に仕えるようにされたようなものです。この新しい真の主人は、私たちを悪の力、死の力から救い出してくださったお方なので、人間の主人に仕えるのとは全く違い、私たちは心からの感謝と信頼を持って、このお方にお仕えしていくことになります。どこまでも、このお方に精一杯お仕えして歩みたいと思わせてくださる、そういうお方です。そして、この方の御支配は完全なものであり、誤りはありません。このお方が私たちに為してくださった罪の赦しという救いの御業を知って、そのことを心に刻むということがあればこそ、神にお仕えすることができます。
本来、私たちは誰かに仕えるということ、神にお仕えするということが難しい者であるにも関わらず、神が私たちを救ってくださった、その恵みを知ることによって、神に仕える道への第一歩を歩み出します。
良い僕、良い奉仕者というのは、自分の思いや願い、計画を実現するために生きるのではなく、主人の思い、御心、ご計画に自分を従わせる人です。神が全てとなってくださるように生きるということは、誰にとっても容易な務めではないと思います。私たちは、自分を主人とすることが簡単ですし、心を自分に向けて生きることが楽ですし、そうしがちです。けれども、そういう私たちを救い出して、神に仕える者として生きる、そういう務めを神ご自身が与えてくださっています。ただ普通に主人に仕えるというのではなく、私たちの罪を赦して「子」と呼んでくださった方のために、限りない愛をお示しくださった方に仕える、そういう歩みを、パウロは示しています。
そして、4節の半ばから、神に仕える者の生き方について語り始めていますが、これを読みますと、とてもこのような生き方はできないのではないかと思うような言葉が語られています。「大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています」とあります。
ここに示されている人生の困難のリストというようなものは、パウロが実際に経験したものだと思います。パウロ自身が他の箇所で同じように書いていますし、生涯の終わりは殉教の死であったと伝えられているからです。さらにまた、8節から10節を見ますと「辱めを受ける、悪評を浴びる、人に知られていない、死にかかっている、罰せられている、悲しんでいる、貧しい、無一物のよう」という言葉が続きます。「そうではない」という結論へと導いていくための言葉ですが、実際にパウロがこういう生活をしていたということを示している言葉だと思います。パウロの生活が苦しみ多く、決して平穏なものではなかったことを知らされます。
ここに語られているようなパウロの経験と同じような経験をする人は、私たちの中にはいないかもしれません。けれども、それでは私たちは、ここでパウロが語る「欠乏、労苦、悲しみ」といったことを全く知らないで暮らしているのかというと、それもまた違うと言わなければなりません。パウロとは違う形かもしれませんが、困難があり、欠けを覚え、道が塞がれているような思いになったり、責められたり眠れなかったり、悲しんだりしながら、地上の一日一日を歩んでいるからです。
パウロは4節で「大いなる忍耐」という言葉を使っています。大いなる忍耐によって、苦しみの中でも新しい生活をすると言って、6節以下の生き方を示しています。「純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力、義の武器、誠実、常に喜ぶ」こういう言葉が続いていきます。こういう良い生き方というものは、皆、私たちの救い主イエス・キリストがお持ちものもだったと思います。
ヘブライ人への手紙12章1節から3節に「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい」とあります。ここには「忍耐、耐え忍ぶ」という言葉が使われています。「イエス・キリストご自身の十字架の死の忍耐、このお方のお姿というものを、よく考え、よく見つめながら、私たちも忍耐強く走り抜こう。気力を失うことなく、疲れ果ててしまうことなく、罪赦された者として歩んでいこう」という励ましと勧めが語られています。主ご自身が十字架の死を耐え忍び歩まれたのだから、この方を思って、私たちも忍耐強く走り抜こうと勧められています。
つまり、救い主キリストの忍耐ということを根拠に、私たちは純真さを学び、寛容さを学び、親切と愛を持ち、真理の言葉を語り、誠実に生きる生き方をする。それが神に仕える者の実際の生活になるのだと勧められています。
神に仕える者には忍耐が必要だということは明らかです。イエス・キリストご自身が耐え忍ぶ生き方をされたのだから、私たちも与えられている生活を忍耐強く耐え忍びつつ走り抜こうではないかということです。
今日の箇所の8節からをもう一度お聞きします。「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」。ここに語られているキリスト者の生活が、私たちの生活をそのまま表しているとは言えないと思いますが、私たちがこういう生活と全く無縁ではないことを知りました。ですから、もし仮に私たちが、辱めを受けたり、悪評を浴びたり、悲しみや誤解の中に置かれる際に、何か有り得ないことが起こったかのように思うのではなく、貧しさに満ちたこの生活を、信仰を持って受け止めるように求められていると思います。
その上で、欠けを覚える生活であっても、信仰において誠実に生かされることができる、常に喜ぶことができる、多くの人を豊かにすることができ、信仰において全てのものを持っている、その約束を思い起こしたいと思うのです。見た目は立派には見えず、貧しく欠け多い生活かもしれませんが、私たちは信仰を与えられています。救いをいただいています。それが「すべてを持っている」ということではないでしょうか。「無一物のようで、すべてのものを所有しています」とパウロが語っている通りです。信仰を与えられたということは、すべてを持っている、すべてを与えられているということです。
人生において、苦しみや悲しみのない生活を考えることは難しいことです。信仰を与えられた私たちも、そうでない人たちも同じように、その苦しみや悲しみを経験していきます。けれども、受け止め方は全く違うと言えると思います。試練に遭うときに主に祈ることを許されていて、「どうか助けてください」と申し上げることができます。私たちの知らない試練を経験し、苦しみに耐えてくださった救い主のお姿を知っているからです。
そして何よりも、「あなたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と語りかけてくださる主がおられます。忍耐を持って十字架の贖いをなし遂げてくださったこのお方を見上げて歩むことを許されている、それが神に仕える者の生活です。
この8節から10節と似た言葉が、この手紙の4章8節9節にも語られていました。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」。キリスト者の生活は、何も持っていないようでいて、すべてを持ち、悲しみに満ちているようでいて遥かに勝る喜びに入れられている、そういうものです。神に仕える者の幸いということを、パウロは伝えようとしています。
さて11節で、パウロは改めて、コリントの人たちに呼びかけています。心を開き、心を広くして欲しいと語りかけています。11節から13節「コリントの人たち、わたしたちはあなたがたに率直に語り、心を広く開きました。わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください」。「率直に語り」とありますが、「口を開く」という言葉が使われています。「率直に語り」とあるように、パウロはコリント教会への率直な思いを表して「わたしは口を開いて語る。心も広くして語る」と言っています。
パウロがコリント教会の人たちに対して持っている、「神に仕える人になって欲しい」という願いをまっすぐに語りかけて、心を開いて接しようとしていることが分かる言葉です。先ほども引用しましたが「わたしは福音のためならどんなことでもします。すべての人のためにすべてとなるために」と語っていたパウロですから、コリント教会の人たちと同じ立場に立って語りかけている場面です。それに加え、コリント教会の人たちは特別な愛する兄弟姉妹だったということを、改めての呼びかけの言葉から教えられています。「自分と同じように、あなたがたにもぜひ、心を広くして欲しい」、それは教会を思って、語りかけるように「教会の人たちも自分を心に留めて欲しい。福音を心に留めて欲しい。共に神に仕える者として歩もうではないか」、そういう思いの現れです。心を合わせて主にある教会の交わりを形作っていこうと呼びかけている、そういうパウロの言葉です。
12節にあるように、コリント教会の人たちは、パウロとは違い、自分で心を狭くしてしまっていたという状況があったようです。教会の人たちがこの手紙の時には特に、パウロが使徒であるということを疑い、パウロは使徒ではないからパウロの言うことを聞かなくても良いのだと言って否定し、批判をしていたと言われていますので、そのことを念頭に、パウロがこのように「あなたがたは心を狭くしている」と書いているのかもしれません。
それに対してパウロは、子供たちに語るように、「教会の人たちを子と思い、親であるわたしは、あなたがたが心を広くしてくれるように願っている」と語りかけています。ここにはパウロと教会、伝道者と教会の関係がよく表されていると思いますが、私たちもまた、教会の交わりの中に入れられている者として、率直に語り、心を広く開くような生活、自分で心を狭くすることを避ける交わりをするように、ここから聞き取ることができるように思います。
「心を閉ざす」という言葉がありますように、もし、救いの御業に目を留めることなく、救われた感謝を忘れてしまえば、私たちはいつでも、心を閉ざすことができます。けれども、その反対に、「主にあって互いに心を広くし、主にあって受け入れ合う」ことをするならば、互いに良い交わりを、教会の交わりを形作っていくことを許されますし、互いに神に仕える者として生きることを許されるのです。
そのためにまず、主キリストが私たちを受け入れてくださった、その恵みを覚えるところから、始まります。主が私たちの罪を赦してくださった、そのゆえに、私たちも互いに許し合うということを学ぶことができました。神に仕える者としての生活が、どのようなものになるのか、私たちにすべてが分かっているわけではありませんけれども、御言葉の保証を受けて、安心して歩み始めたいと思います。
今日の箇所の2節に「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」という言葉がありました。2節の前半には、その恵みの時に「神が私たちの願いを聞き入れてくださった」という約束が語られます。
救いの日に神が私たちを助けてくださるという約束も語られています。そして「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」と言うのですから、この約束の御言葉に聞きつつ、大きな御手にお委ねし、新しい一週間を始めたいと願います。 |