聖書のみことば
2017年5月
  5月7日 5月14日 5月21日 5月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

 5月28日主日礼拝音声

 信仰者の試練
2017年5月第4主日礼拝 2017年5月28日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第10章16節〜31節

10章<26節>「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。<27節>わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。<28節>体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。<29節>二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。<30節>あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。<31節 >だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」<32節>「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。<33節>しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」<34節>「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。<35節>わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。<36節>こうして、自分の家族の者が敵となる。<37節>わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。<38節>また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。<39節>自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」<40節>「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。<41節>預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。<42節>はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 ただ今、マタイによる福音書10章26節から31節までをご一緒にお聞きしました。26節に「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」とあります。「人々を恐れてはならない」と、弟子たちに主イエスは教えられます。「あなたがたは恐れなくても良いのだ」とおっしゃるのです。今日は26節から31節までをお聞きしたのですが、最後の31節でも「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と教えられています。
 今日の箇所は、私たちも抱くことのあるこの「恐れ」ということをめぐって、主イエスが一貫して、弟子たちの抱く恐れに配慮して教えてくださっている、そういう箇所です。主イエスがここで弟子たちに恐れについて教え、深く思い巡らして力づけてくださること、それは私たちにとっても本当にありがたいことだと思います。それは、私たちもまた、誰一人として、この「恐れ」という事柄から全く自由であって恐れを知らない、などという人はいないからです。
 今日のところで、どうして主イエスが弟子たちにこんなに深く「恐れ」のことをおっしゃるのか、それは、先週聞いた御言葉と結びついています。ここでは、主イエスが弟子たちを伝道の働きに送り出そうとなさっているのですが、「伝道の働き」、つまり「主イエスという方が私たちの間においでになったことで、私たちのこの世界には神のご支配が臨むようになっています」と知らせる行いは、場合によっては、それを聞いた人たちから反発を招くようなことが十分予想されることだったからです。主イエスは、そういう伝道の業に弟子たちを送り出そうとなさっているのです。弟子たちは遣わされて、一人一人、与えられた場所に出かけて行きます。そして、出会った人たちに「あなたたちの間に、一人の方がおいでになっています。この方こそ、救い主キリストです。この方によって、神様からあなたのところにまで、一本の橋が架けられたような、そんなことが起こっています。あなたは、この一本の橋であるイエス・キリストというお方を通して、神様の御前に進み出ることができて、親しく神様の御言葉を聞くことができるようにされています。主イエス・キリストという方、この方こそが、あなたと神様を結ぶただ一本の橋なのです。この方は本当の道であり、真理であり、命である方なのです」と、主イエスのことをこの世に告げ知らせる、そういう生活に送り出されて行くのです。
 ところが、弟子たちは、相手の人がそれを受け入れてくれるかどうか知らないままに、誰に対しても主イエスを宣べ伝えるのですから、弟子たちからこの知らせを聞いた人たちの中には、もしかすると、それを信じない人もたくさんいるに違いありません。そして、そういう人からは反発を受けるかもしれないのです。「ナザレのイエスなどという得体の知れない人物を救い主として仰がなくても、既に自分の生活は十分に正しく清らかに歩むことができている。主イエスなどという怪しげな者に頼らなくても、自分は自分の生活が成り立っているし、それで十分正しい」と思っている人は大勢いるに違いないのです。そして、そういう人たちが弟子たちを迫害するということになります。

 聖書の中には、主イエスのことを聞いた人たちが反発して、主イエスを伝えようとする弟子たちを迫害するという実例を幾つも見つけることができます。最も典型的なのは、使徒言行録に出てくるパウロの姿だろうと思います。パウロという人は、当時知られていた全世界、今日から見れば狭い世界ではありますが、地中海一帯に主イエスを宣べ伝えようと、伝道旅行をしました。ところが、パウロはその行く先々で迫害を経験することになります。一つの実例を挙げますと、使徒言行録13章の後半で、パウロとバルナバは福音を携えてシチリア州のアンティオキアという町に行きます。そこで主イエスを宣べ伝えるのですが、最初は、聞いた人たちが大変喜んで、「是非来週も、同じ話でよいので主イエスのことを聞かせてください」と言うのです。42節に「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」とあります。どんなに喜ばれたのだろうかと思います。ところが、実際に一週間経って、同じ会堂でパウロが話し始めると、実は一週間の間に大変大きな変化が生じているのです。パウロたちを妬むユダヤ人たちがやって来て、口汚く二人を、福音を罵るということが起こり、結局二人はアンティオキアの町を後にせざるを得なかったのです。44節以降に「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した」とあります。実はここから、パウロが散々な目に遭う迫害ということが始まっていくのです。この後、パウロは世界中に伝道しようと福音を携えて町から町へ次々と出かけるのですが、行く先々でユダヤ人たちが追いかけて来て、パウロの言うことに反対する。時には、パウロに石を投げつけて、その石がパウロの頭に命中してパウロが気絶してしまうようなこともあったと書かれています。
 「主イエスこそ、本当の救い主です。主イエスがまことの神との交わりをあなたに与えてくださいます」と伝える言葉というのは、場合によっては受け入れてもらえない、理解されないどころか反発されて迫害されるということがあり得るのです。主イエスの福音は、信じる人たちにとっては、ただお一人の神と交わりを持つための力に満ちた教えになります。しかし、信じない人には、却って反発や妬みを起こさせるようなところがあるのです。そういうわけですから、先週聞いたところですが、主イエスは弟子たちを送り出すに当たって、「わたしはあなたたちを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものなのだ」と教えておられました。
 主イエスは弟子たちを伝道の旅にお遣わしになるのですが、その行った先で激しい闘いが起こるかもしれないということを真剣に考えておられるのです。

 さて、主イエスがそのように、弟子たちが歩んでいく先で厳しい闘いが生まれ、弟子たちは恐れを抱かざるを得ないだろうと考えておられたということは、ここに集まっている私たちにとっても意味があるのではないでしょうか。主イエスは、福音を告げ知らせる弟子たちがきっと反発を受け迫害に遭遇するに違いない、恐れを覚えざるを得ないような出来事に出会うだろうと予想しておられます。そして、私たちもまた、似たようなところがあるのだろうと思います。
 というのは、私たちも今一つ所に集まって礼拝していますけれども、この礼拝が終わると、それぞれに与えられている地上の持ち場に遣わされ送り出されていくということがあるからです。そして実は、主イエスは、私たちの一週間の生活の中で起こる闘いにも御心を留めてくださっているのです。闘いの脅かしの中にあって、ここにいる私たちもそれぞれに抱かざるを得ない不安や恐れを、主イエスが既に御心に留めてくださっています。そして、弟子たちを教えるように、私たちにも親しく御言葉をかけて、信仰を励まし慰めてくださるのです。

 主イエスは弟子たちに「あなたは恐れなくてもよい。恐れるには及ばない。人々を恐れてはならない」とおっしゃいます。それはどうしてでしょうか。どうして、反発を受けずにはいられないその時に恐れないでいられるのでしょうか。
 その第一の理由は、弟子たちも私たちもそうですが、たとえここから歩んでいって、どんなに厳しい経験をしなければいけないとしても、どんなに辛い迫害に遭うとしても、必ず主イエスがその場所に居てくださるからです。
 今日聞いている26節に、「人々を恐れてはならない」と言われていますが、この言葉のギリシャ語の原文には、26節の先頭に一つの接続詞が書いてあります。日本語聖書では省略されているのですが、「だから」という接続詞が付いています。これは、もちろん、前の箇所との繋がりを表す言葉です。では、前のところでは何を言われているのでしょうか。直前の24節から25節にかけて、弟子と師の関係、僕と主人の関係ということが言い表されています。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」とあります。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない」というのは、もしかすると当時流行っていた慣用句、格言のようなものだったかもしれないと言われています。しかし、主イエスはここで、このような格言があると知識をひけらかそうとして言っておられるのではありません。そうではなく、非常に具体的な間柄を示そうとしておっしゃっているのです。つまり、一般的な僕と主人、弟子と師という話をしているのではなく、これは、弟子たちと主イエスご自身のことを当てはめておっしゃっているのです。ここで弟子とか僕と言われているのは、今、主イエスから送り出されていく弟子たち一人一人です。そして、師とか主人と言われているのは主イエスご自身なのです。
 この格言のようなことをおっしゃった後、主イエスは「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」と言われましたが、「ベルゼブル」というのは、旧約聖書には出てこない名前だと言われており、この箇所で初めて出てきます。「悪霊の頭」という意味で、「バアル」「ゼブル」という言葉が縮まっています。「バアル」は旧約聖書に出てくる、聖書の神に対抗する神々の長のような神の名です。「ゼブル」は上に立つという意味ですので「上に立つバアル」ということから「悪霊の頭」という訳になるのです。主イエスが癒しの業をなさっていたことに関しては、当時、神の力によるのではなく、人々に取り憑く悪霊の力で癒しているのだと悪口を言われました。つまり「わたし自身がそう言われているのだから、その僕であり弟子であるあなたたちがどんなことを言われたとしても仕方ないのだ」と、主イエスは弟子たちに前もって教えておられるのです。
 そして、「だから、恐れるな」と言われるのです。そうは言われても、それは嫌だなと弟子の立場としては思うかもしれませんが、しかし「だから、恐れるな」とおっしゃっている理由は、「あなたがたがどのように反発され、酷いことを言われ、傷つけられ、苦しめられるとしても、それは既にわたしが経験していることなのだよ。あなたが経験する苦難というのは、わたしが経験したことであるし、あなたが苦しむその時に、わたしはあなたと共にいる。だから恐れなくてよいのだ」ということなのです。弟子たちが迫害され苦しめられる、その時にはきっと、主イエスがそこに共にいてくださる。「わたしはあなたと共に歩むのだから、あなたたちは恐れなくてもよいのだ」と教えてくださっているのです。

 先ほど、迫害され苦しめられる弟子の典型として、使徒パウロの名前を挙げました。パウロはユダヤ人たちから激しく罵られ、抵抗され、迫害され、石を投げつけられて命を狙われました。パウロ自身も、そのようなことがあまりに多くあったために、自分がどれほど大変な目に遭ったかを手紙で数え上げているところがあります。コリントの信徒への手紙二の11章24節から29節です。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」と、コリントの教会に対しての手紙に書いています。パウロがまさに、伝道旅行の中でたくさん迫害されたこと、またそれだけでなく、更に、多くの教会の様々な問題を聞かされ、祈りつつ悩んでいるという様子が分かります。
 パウロはこのように苦労話をさせれば尽きないような生活を送っているのですが、しかし、パウロは、ローマの教会に書き送った手紙の中では、8章35節から39節に「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と語っています。
 パウロは本当に多くの迫害によって苦しめられました。パウロ自身の生活感覚から言いますと「わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」と書かれている聖書の言葉は、まさしく本当だと思うと言っています。パウロは、これから屠られる羊を皆が見ているように、自分は眺められている気分だと言うのです。
 けれども、そういう苦難のすべてにおいて「わたしは主イエスによって輝かしい勝利を収めている」と言っています。「たくさんの艱難や苦しみを経験したけれども、しかしそういう中にあって、わたしを愛してくださるお方によって輝かしい勝利を与えられている」と言うのです。これは、パウロ自身の信仰の強さとか思いの深さを自慢して言っている言葉ではありません。パウロ自身は、むしろ自分としては艱難や苦しみの中で自分の限界を感じ、弱さを感じ、もう無理だと思った時があったようです。使徒言行録を見ると、すっかり自信を失って弱り果てているパウロの姿も出てくるのです。けれども、その弱っているパウロに主イエスが現れて、「恐れるな。語り続けなさい。この町にはわたしの民が大勢いるのだから」と慰めてくださって、パウロがなお、伝道を続けることができたという記事も出てくるのです。
 主イエスから送り出された弟子たちは、遣わされて行った先で、様々な問題に出会い、自分の弱さ、欠けを経験させられます。自分は決して万能ではない。現実の生活の中で、本当にたくさんの問題を抱え、弱さを抱えて嘆きを覚えざるを得ない、そういう生活を歩みます。しかし、そういう中にあっても「わたしは決して一人ではなかった」ということを、主イエスの言葉を聞いて思い出させられるのです。「だから」、主イエスから送り出されていく弟子たちは、「恐れなくてよい。恐れるには及ばない」と教えられているのです。

 またパウロは、先ほど読んだコリントの信徒への手紙の、もう少し先のところで「たくさんの苦しみを経験した」と言った後で何と言っているでしょうか。「誇る必要があるのなら、わたしの弱さにかかる事柄を誇りましょう」と言っています。苦しみに遭い辛い経験もしたけれど信仰によって乗り越えることができた、わたしの信仰は強かったと言っているのではありません。「わたしが本当に誇れるものは何か。それはわたしの弱さである。弱いわたしだけれど、弱いわたしだからこそ、そんなわたしを支え励ましてくださる、そして、なおそこで道を拓いてくださる主イエスが、『わたしを導いてくださるという出来事』に出会うことができている。だからわたしは、自分の弱さを本当に感謝に思うし、そのことを誇るのだ」と語ります。ここでパウロが指し示している主イエスの約束というものを、私たちも信じてよいではないでしょうか。

 「恐れ」について、主イエスが教えてくださる二番目のことは、「終わりの日に全ての事柄が神の御前にあって明らかになる」ということです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」と、主イエスは言われます。
 私たちが地上の生活を歩んでいくときに、深く傷つけられ悲しいと思わされること、それは悪意に満ちた隣人の嘘偽りであったり、あるいは世間の無責任な噂を受け売りしていく、そういうことだろうと思います。私たちは、真実ではないことがまことしやかに言われるということで大変困ったという経験を誰もが持っていますし、またそのことで悲しい思いになり、傷つき、人間不信になることもあります。けれども、主イエスは言われます。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」。悪意に満ちた嘘や偽り、ごまかしの出来事は、いずれきっと本当のことが明らかになる時が来るのです。たとえ一時は上手く隠しおおせてごまかしが成り立っているように見えるとしても、偽りやごまかしは決して永遠に続くものではありません。「嘘や偽りでどんなに真実を包み隠しても、隠されたり覆われたりしているもので露わにならないものはない。だからあなたがたは、確信を持って、堂々として、正直に真実に歩んでいるのならば、何も恐れなくてよいのだ」と、主イエスは教えられるのです。
 まさしく、神に御前では真実な事柄しか通用しません。嘘や偽りは、一時は成り立っているように見える時があるかもしれません。しかし、嘘や偽りは時の流れの中で容赦無く過ぎ去っていくのです。神が認めておられ、神の前に通用する真実というのは、神がそれを立ててくださいますから永久に続きます。しかし一方、人間の流す嘘や偽りは、決して続きません。嘘や偽りを言う人間自身が永遠の存在ではないからです。嘘偽りを流す、そういう人は、自分自身の存在にかけてそれを語ります。ですから、その人が間違いないと請け負っている間は、いかにもそれが本当のように聞こえます。けれども、そのように偽っているその人自身が過ぎ去ります。偽りを言う者が過ぎ去っていく、滅んでいくと、そこで語られている偽りも滅んでいく他ないのです。
 ですから主イエスは、たとえ偽りを言うように強要されるようなことがあっても、主の弟子たちは本当のことを語らなければいけない、「真実なことを堂々と告げ知らせるようにしなさい」ということをお求めになります。27節に「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」とあります。「主イエスが真実の救い主である。この方によって、神とわたしたち人間の間に一本の道が引かれて、わたしたちは主イエスによって神との交わりに生きることができるようにされている」という真実を、弟子たちは臆することなく語り続けるようにと、主イエスから求められるのです。
 そしてそれは、ここにいる私たちも同じことです。私たちはこの世の生活の中で、拡声器で宣伝するというわけではありませんが、しかし、私たち自身の生活を通して「この世界に神が救い主を与えてくださっている。わたしはその方によって支えられ、生きる勇気を与えられている。色々な問題を抱えているけれども、主イエスを通して神から力をいただいて生きているのだ」と語る生活を送っていくのです。

 既に申し上げましたが、弟子たちが忠実に福音に仕えて主イエスを宣べ伝えようとしても、そのことを信じない人たちは、この地上にいるのです。そして、そういう人たちからは、弟子たちは妬みを買い、反発を受けるということになります。主イエスが本当の救い主なのだということを面白く思わない人、受け入れようとしない人たちが、何としても弟子たちの口を封じようとし黙らせようとする、そういうことが起こり得るのです。場合によっては、弟子たちに対して、死の脅かしをもって臨む力が、この世で働くこともあるのです。
 これも先週の礼拝で少し申しましたが、今現在の私たちは、そのように野蛮な力が直に牙を向くような時代に生きてはいないということを、神に感謝しなければならないと思います。私は今、この礼拝で説教していますが、説教の中で「主イエスこそが救い主です。真の神はただお一人だけです。天地をお造りになった神だけが本当の神で、他のものは決して神ではありません」と説教しても、恐らく、私が捕らえられたり拷問を受けることはないでしょう。命を取られることなどないと思っています。また、皆さんも、この礼拝に来たために官憲に付け狙われ非国民扱いされて逮捕されるなどという心配をせずにいられると思います。しかしそれは、今がキリスト教にとって比較的寛容な時代だからです。けれども、たかだか70年80年前はそうではなかったということを、私たちは覚えなければなりません。
 愛宕町教会の信仰の種を撒いてくださった鈴木鶴代牧師は、日本基督教団の六部に属する教会がその教えのために治安維持法に引っかかって教会を解散させられ、鈴木先生ご自身が教籍を剥奪されて福音を語ってはならないという立場に立たされたことがありました。私の身内にも、教会の信仰と教えへの疑いから特高警察に拘留された人がいます。私たちの国でも、100年に満たない間にそういうことがあったのです。教会の2000年に及ぶ歴史から言えば、70年80年はつい昨日のような時間です。そういう乱暴な出来事があったことを聞かされますと、皆さんはどう思われるでしょうか。不安だな、恐ろしいなと思われる方もいらっしゃると思います。今の世の中の風潮を見て、そうなるのではないかと心配になる方もいらっしゃるかもしれません。
 けれども、今この時代に私たちがなすべきことは、いたずらに恐れたり憤慨することだろうかとも思います。少なくとも、2017年のこの時は、決して野蛮で剣呑な空気が全てを支配している時代ではないのです。私たちは今この時に、様々なことを言う人がいるとしても、ここで礼拝を捧げることが許されていて、そしてここで「本当の神様はただお一人であって、その神様が救い主をわたしたちの上に送ってくださったのだ」ということを聞くことができる、そういう生活を許されているのです。神がこういう時代を私たちに与えてくださっているということをまず感謝すべきでしょうし、感謝しながら、今日という日をどのように過ごしたら良いのかということを真剣に考えるということこそが望ましいことだろうと思います。
 私たちはつい、福音はいつでも聴けると思ってしまって、ふっと気が緩む時があります。けれども、いつでも聴けるわけではありません。もしかすると、私たちがどんなに望んでも、公には福音を語ることも聞くこともできないという時代がやって来るかもしれません。けれども、今はそうではないのですから、御言葉に聞き、神に忠実に歩む生活を心がけるということが、今、私たちのなすべきことではないでしょうか。
 神はいつの時代にも、どんなに困難な時代にも、また、どんなに社会の片隅に追いやられているような小さい者にも、御心を留め、その人生を持ち運んでくださいます。牧師の肩書きを剥奪されて公には語ってはいけないと言われた伝道者を、それでも神は、信仰を失わせないで持ち運んでくださって、そして、戦後もう一度、人々の前で福音を語るようにされ、そのようにして形作られて来たのが私たちのこの教会なのです。

 主イエスは、「神は一人一人をどこまでも顧みて持ち運んでくださるお方なのだ」ということを、今日の最後のところで、「一羽の雀」の例を出しながらおっしゃっています。29節に「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」とあります。主イエスの時代には、2羽の雀が1アサリオンで売られていたようです。アサリオンがどれくらいの通貨かと言いますと、当時の通貨の最小単で、1デナリオンが大体1日分の生活費だと言われ、1アサリオンはその10分の1だと度量衡の表にあります。ですから、今日の私たちの生活感覚からしますと、1アサリオンは200円とか500円ということだろうと思います。ただ、これ以上、下の単位に割れないという意味では、1円と言っても良いかもしれません。
 それで、2羽の雀が1アサリオンだとすると、1羽だったら値段がつくでしょうか。値段はつかないことになります。実際に、ルカによる福音書の中の同じような箇所で、5羽の雀が2アサリオンで売られていると出て来るところがあります。ですから、5番目の雀は値段がないことになります。「1羽の雀というものは、値段がつかないくらい本当に僅かなものだけれど、しかし神は、その雀1羽であっても御心に留めてくださっている。神のお許しがなければ、その雀が地に落ちることも捕らえられることもない」と主イエスは言われました。そしてこれはもちろん、雀の話をしているのではなく、弟子たち一人一人のことを心に留めておっしゃっているのです。「あなたがたは自分がどんなに弱く、どんなに小さい者でしかないということを、もしかすると思い知ることになるかもしれない。けれども、神はそういう一人一人を、なお御心に留めてくださっている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりはるかに優っているのだ」とおっしゃるのです。

 主イエスは、伝道の働きに送り出されていく弟子たちに「恐れるな」と教えられました。しかし、ここに語られている「恐れるな」という教えが、ここにいる私たち一人一人に向けても語られていることを、心して覚えたいと思うのです。
 私たちは今日、この礼拝から、それぞれに与えられている一週間の生活へと遣わされていきます。一週間の私たちそれぞれの歩み、一人一人皆違う場所で与えられている生活を過ごしていきますけれども、そこで生きる私たち一人一人を神が御心に留めてくださっている。そして絶えず私たちの人生を支え、慰め励まして、神が与えてくださる務めに当たらせようとさせてくださるのだということを覚えたいのです。
 神の祝福の元に置かれて、私たちは、今日を生きることを許されています。そういう者に相応しく、日々神に祈り、そしてまた自分自身と周囲の事柄とを神にお委ねして、神への信頼をもって、ここから歩み出していきたいと願います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ