今朝は、普段別々に礼拝している教会学校のお友達と大人の人が、一緒に神様を礼拝する合同礼拝の時を持っています。普段は別の所で、別の時間に礼拝していますが、こうして教会にやって来る人たちが全体で集まって、神様に讃美歌をお聞かせして、皆で一緒に礼拝できるということは、本当に嬉しいことだと思います。
神様は今日、私たち一人一人を造ってくださったお方として、ここに集まった一人一人を見てくださっています。大きい人も小さい人も、皆が生きていることを、神様が喜んでくださっています。
教会学校では、先週から6月一杯まで、旧約聖書の一番初めのところ、創世記の言葉を続けて聞いています。神様がこの世界、天と地をお造りになった天地創造のことが創世記の一番最初に書いてあるのですが、今朝はその中でも、私たち人間の祖先、一番最初の人間である二人の人が造られたことが語られています。創世記2章27節に「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と書いてあります。ここで神様がお造りになった男の人がアダム、女の人がエバだと言われています。
「創造された」というのは少し難しい言葉ですが、別の言い方をすれば「造られました」ということです。ですから、アダムもエバも「神様にかたどって、神様に似たものとして造られたのですよ」と言われています。私たちはアダムとエバから生まれてきた人間たちのずっと後の子供の子供ですから、私たちもアダムとエバと同じような姿をしています。私たちも、実は、神様と似たものとして造られているのです。けれども、私たちが「神様と似たものとして造られている」というのは、一体どういうことなのでしょうか。神様と同じ形なのでしょうか。でも、皆一人一人、顔が違っています。男の人と女の人では体の格好も違います。ですから、多分、格好の話をしているのではないのです。
これがもし、逆のことを言っているのであれば、分かるような気がします。つまり「神様というのは、人間が自分の心の中や頭の中で考え出したものなのだよ」ということです。人間が神様を考えるときに、本当の神様のことを人間は知りませんから、「きっと、神様は私たち人間に似ているのだろう」と思って、「人間に似せた神様を、人間が頭の中で造ったのです」ということであれば、よく分かる気がします。実際に、聖書以外の神様、この世界には神々と言われるものがたくさんありますけれども、そういう神様たちは、人間に似せて作られた神様が多いのです。
例えば、ギリシャ神話やローマ神話という神様のお話があります。この神話に出てくる神様は、何となく人間臭い、人間ぽいのです。神話を聞いていると、たくさん出てくる神様がお互いに騙しあったり憎んだり、争ったり嘘をついたりするのです。外国の神話だけではありません。日本神話の神様もそうです。高天ヶ原の神様が出雲の国の神様と戦争をしてやっつけた話が出てきます。また、小学校の高学年になると教わるかもしれませんが、日本の暦では10月は「神無月」と言います。「神様がいない月」だというのですが、なぜそう言うのかというと、その月には、日本各地の神様が皆、出雲大社に集合して会議を開いているので、日本中から神様がいなくなるというのです。でも、出雲大社のある島根県の人たちだけは、「今、ここに神様が皆集まっているのだから、神有月だ」と言っています。そのように、日本の神様はお留守になってしまうこともあったりして、何かとても人間臭いなと思います。では、聖書の神様はどうでしょうか。聖書を読んでいて、「神様がどこかへ出かけてお留守です」なんて書いてある箇所があるでしょうか。そういうことはありません。
聖書の神様は、人間と全然違うのです。私たち人間が、夜の間ずっと眠っている時にも、神様は眠ったりしません。神様は、休まなくても平気です。聖書には、「神様は、私たちのことを支え、一人一人の命を、夜の間も持ち運んでくださるお方です」と書かれています。聖書の神様は、嘘もつきません。人間を騙したり、ごまかしたり、憎んだり、そういうことはなさいません。聖書以外の神様たちは、よくそういうことをするのですが、それはその神様たちが、人間が頭の中で作り出した神様だからです。人間は、始終嘘をついたり、騙したり、いじめたりと、悪いことを考えますから、そういう人間に似ている神様であれば、きっと嘘をついたり騙したりするだろうと思います。けれども、聖書の神様は違うのです。
聖書の神様は、人間が造ったものではありません。人間が作った神様のことを聖書では「偶像」と呼んでいます。「人間が頭の中で作った神様のようなものは皆、偶像であって、それは本当の神様ではないのだよ」と、聖書には教えられています。聖書の神様は、私たち人間が頭の中で作り出すものではありません。そうではなくて、神様の方がこの世界を造ってくださって、そしてこの世界の中に私たち人間も生まれさせてくださった、ただお一人の造り主である神様なのだと、聖書は教えています。神様がこの世界の動物たちも植物も、そして人間もお造りになって、命を一つ一つに与えてくださった、だから、この世界の中にはたくさんの命の営みがあるのです。
神様は、たくさんの命ある生き物を造ってくださったのですが、その中でも、人間だけは特別に造られたのだと、聖書には言われています。「神様にかたどって、つまり神様に似せて造られました」と言っています。
では、「神様に似せて造られた」とは、どういうことでしょうか。先ほども少し考えましたが、格好が神様と一緒だということではありません。では、どこが似ているのでしょうか。とても面白い説明を聞いたことがあります。
人間に一番近い動物は何でしょうか。犬でしょうか。猫でしょうか。違います。もっとも近いのは、猿だと言われます。猿は本当に人間によく似ていて、人間のように言葉も道具も使います。それに、人間が教えてあげれば、数字も分かるそうです。例えば、小学生への問題のように、「3+3は?」と聞くと「6」と答えます。ですから、そういう様子を見ていると、猿と人間はよく似ているなと多くの人が思います。人によっては、人間と猿は仲間じゃないかとか、人間はとても賢い猿の一種なのだと言う人もいます。
猿はいろいろな意味で人間に近い動物です。でも、それならば、日曜日の朝に動物園に行ってみると、猿山の猿が集まって神様を礼拝しているでしょうか。猿たちが「今日は日曜日なのだから集まろう」と言って、お祈りしたりしているでしょうか。していないでしょう。猿は、人間ととてもよく似ています。いろいろなことが分かるし、できます。でも、猿は神様に似せて造られてはいないのです。私たち人間が「神様に似せて造られている」ことの、一番確かな印は、私たち人間が毎週日曜日に教会に集まって、神様の前に集まって、こうして皆で神様を礼拝する、礼拝をおささげすることができるということです。このことが、他の動物たちと全然違うことなのです。
神様が天地創造なさった時に、神様は7日間でお造りになったと言われています。それで、人間は6日目に造られました。ところが、6日目に神様がお造りになったのは、人間だけではありませんでした。動物も同じ日にお造りになったと聖書に書かれています。今日は26節から読んでもらいましたが、24節25節です。「神は言われた。『地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。』そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた」とあります。
動物たちも人間と一緒に6日目に造られたと書かれていますから、やはり、動物は人間と近いところがあるのでしょう。確かに近いところはあるのですが、しかし、全然違うところがある。それは、同じ日に造られた動物たちは「神様に似せて」造られてはいないのです。「神様にかたどって造られた」と書いてありません。25節には、神様は造られた動物を見て「良しとされた」と書かれています。神様は動物たちをお造りになった時には、「これは良いね」とおっしゃっただけでした。
実は、神様はこの世界をお造りになった最初の日から、一つのものを造ってはそれをご覧になって「これは良い」とおっしゃって、そしてまた次のものを造られました。神様は、天地創造の一番最初の日に、「光あれ」と言われました。そうすると「光があった。神は光を見て、良しとされた」と聖書に書いてあります。神様は光だけではなく、一つ一つこの世界をお造りになって、すぐにご自分の造ったものをご覧になるのです。そして「これは良い。素晴らしい」と言って、一つ一つを喜んでお造りになったと書いてあります。そしてそれは、人間が造られるまではそうでした。
ところが、人間が造られた時には、神様は、ただ「これは良い」とおっしゃるだけではなくて、別のことをおっしゃったと書いてあります。28節です。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』」。これは、神様が、ご自分がお造りになったこの世界にたくさんある生き物、たくさんの命を、全部上手に治めて育てていくお仕事を、人間にさせてくださるようになったということです。
私たち人間は、「この世界の生き物がどうやって皆で一緒に生きていったら良いか。この世界を守って、皆でどう生きていくのが良いか」を考えながら生きるようにと造られているのです。ですから、私たち人間の仕事の中には、自分がご飯を食べたいからと言って食べるだけではなくて、「どうやったら、この世界を守れるかな」と考えて働いている人たちが、いっぱいいるのです。この自然を壊さないためにはどうしたら良いかを考える仕事をしている人もいるのです。それは、神様がここで、「皆の命を守るのは、人間だよ」と言って、人間をお造りになってくださっているからです。
人間はそういう存在ですから、私たちは一人一人、神様が特別に名前を呼んでいてくださいます。そして、神様からの呼びかけを聞いて生きていくようにしてくださっているのです。29節のところで、神様が、最初に造られたアダムとエバに向かって「あなた」と呼びかけています。「神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる』」と書いてあります。「あなたたちに与えよう。これがあなたたちの食べ物だよ」と、神様が人間を「あなた」と呼んでくださっているのです。
神様がこの世界を全て造られたことが書いてある創世記のどこを読んでも、神様が「あなた」と呼びかけてくださっているのは人間だけです。それ以外の生き物、命は、神様が確かにお造りになって、ご覧になって、「これは良い」とおっしゃるのです。でも、「良い」とおっしゃるけれども、神様から「あなた」と呼びかけられはしないのです。神様が「あなた」と呼びかけてくださるのは、私たち人間だけなのです。それはどうしてかと言うと、私たちが「神様に似せて造られた」からなのです。
人間同士の間でもそうですが、「あなた」と呼びかけるのは、多分、人間に対してですね。朝起きて、筆箱を見て筆箱に「あなた、起きなさい」、鉛筆を見て「おはよう、あなた」とは言わないですね。皆それは人間ではなく、道具だと思って使っているのです。あるいはまた、ペットの動物を人間のように思っている人もいるかもしれませんが、やはり動物は人間のように「あなた」とは呼びかけません。私たちが「あなた」と呼びかけるのは、相手が自分と同じ人間だからです。
神様は、私たち人間のことを「あなた」と呼んでくださいます。「あなたは、わたしの前に、わたしと一緒に生きていく人なのだよ。わたしがあなたのことを助けてあげるよ。だから、あなたはわたしと一緒に命を生きていくのだよ」と言ってくださるのです。「あなたが食べるものは、全部わたしが用意してあげるからね」と言ってくださるのです。
神様が、ここにいる私たち一人一人に「あなた」と呼びかけてくださっているとは、びっくりするようなことだと思います。私たち人間同士が誰かから「あなた」と呼びかけられるのは、全く普通だと思っていますが、神様は私たち一人一人のことを「本当に大事な、大切な一人だよ」と思って、「あなたは、わたしの前に生きていきなさい。わたしの言葉を聞きながら、いつもわたしと一緒に生きていきなさい」と呼びかけてくださるのです。
そして、「あなたのことを最後まで持ち運んでいくから、あなたはわたしの守りの中を生きるのだよ」と、神様が呼びかけてくださるので、私たちは毎週日曜日に教会に集まって、神様、イエス様を礼拝して生きていくようにされているのです。
神様が私たちを「ご自身に似せた本当に大事な一人一人として、今日まで守り育ててくださっている」ことを、大事なこととして覚えたいと思います。私たちは神様から、とっても大切に扱われて、今日の命を生きているのです。神様に喜んでいただけるような生活を、ここから過ごしていきたいと思います。 |