ただ今、マタイによる福音書10章5節から15節までをご一緒にお聞きしました。5節6節に「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい』」とあります。主イエスが12弟子たちを派遣して、「天の国がやって来ていることを知らせる伝道の業」に用いようとしておられます。「十二人を派遣するにあたり」と言われていますが、この12人の弟子のことは、先週の礼拝でもお聞きしました。
12人は能力に溢れた人々というよりも、むしろ種々雑多な人々の寄せ集めのようであり、人間的なものの見方で考えるならば、どうして主イエスはよりにもよって、こういう12人を弟子にお選びになったのだろうかと少し不思議に思うような人たちでした。
しかし、主イエスがこの12人をお選びになった不思議さというものは、私たちにとっては決して他人事ではありません。この12人の顔ぶれから見ますと、主イエスは決して、才能に溢れいつでも働いてくれそうな人を弟子に勧誘なさったというわけではありません。しかしそれは、ここに集っている私たちにしても同じことが言えるのではないかと思うのです。私たちは今日、招かれて教会の礼拝に集っています。皆、この礼拝の一員に加えられていますが、実は、私たちがここにいる一番初めに、あの12人弟子の招きがあるのです。
私たちは、自分自身のことを考える時に、有能だから勧誘されて教会の群れに連なるようになったということはありません。特別に宗教的なセンスが優れているからでもありません。この世的な信頼が厚かったり、お金持ちだから招かれているわけでもありません。ここにいる私たちはそれぞれに、どうしてこの礼拝に招かれてきたのか、ここに招かれて集っているその中にどうしてこのわたしがいるのか、そういう点について、恐らく共通の理由はありません。「どうして他の人ではなくこのわたしなのか」、その理由は主イエスにしか分からない、そういう招きなのです。さまざまな人たちの間から、いろいろな道筋を通って、私たちはここに招かれて来ました。もともと千差万別であり、多様に招かれた私たち一人一人が、一体どこに向かって、また何のために招かれているのかということが、今日の箇所に語られています。
実は、私たちは皆、「神の国の支配、天の国を受け継ぐようになるように」と招かれています。
7節で、主イエスは弟子たちに「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言われました。12人の弟子たちは、一人一人、皆、出身はばらばらですけれども、一つの目的のために招かれました。それは、この12人が「天の国を受け継ぐために加えられる」ということです。「天の国」というのは地上の国家とは違います。あそこにある、ここにあると言えるようなものではありませんし、領土で区切られたどこかの場所がそうだというのでもありません。英語の聖書で読みますと、「天の国、神の国」の「国」という言葉は、普通私たちが想像する英語の「country」「state」ではなく「kingdom」=「王国」という言葉が書いてあります。つまり「天の国」というのは、王様がいる国なのです。神が私たちの主であり王である。私たちがその神の御支配を信じて、神の御支配のもとに、それぞれに与えられている命を生きていく。それが「天の国に生きる生活」ということになるのです。
ですから、弟子たちが主イエスから「宣べ伝えなさい」と言われた「天の国」というのは、「弟子たち一人一人が神の支配のもとに生きている国である」ということです。天の国を宣べ伝える時には、評論家のように「天の国はあそこに来ていますよ」と、自分を棚上げした形で説明するというわけにはいかないのです。「まさしくわたしは、神の御支配のもとに生活しています。神の御心に従うように求められていますし、わたしもその国の一員として歩もうとしています」、このことを、弟子たち、私たちは伝えるようにと招かれているのです。
「天の国は近づいた」ということは、「天の国の支配を受け入れ、神の御言葉を聞いて信じている、その人が、今あなたの傍に来ていますよ」ということです。つまり、「天の国を伝える」というのは、お話として言えるということではなく、まさに天の国の支配に生きている人が、「わたしは神の支配のもとに生きています。ですから、あなたは今、天の国の目の前にいるのですよ。わたしが伝えようとしている、この神の支配を信じるならば、あなたも今ここで、神の支配のもとに生きることができるようになります」と伝えること、それが「天の国を伝える」ということなのです。ですから、キリスト者が出かけて行って誰かと出会うところ、そこでは必ず、相手にとっては天の国が近づいて来ているということが起こるはずなのです。
私たちキリスト者は、生まれ育ちの境遇や社会的立場、政治的意見はばらばらであるかもしれません。けれども等しいことは、私たちには「神の支配が宣べ伝えられた」ということです。私たちもそのことを信じて、今、キリスト者にされているのです。私たちのところに誰かがやって来て、神の支配を宣べ伝えてくれた、その点では、一人の例外もなく共通なのです。そして、「神の国を信じてよいのだよ」という招きを信じてキリスト者になった人は、その次には、その同じ知らせをひっさげて、次の人へと天の国を伝えるのです。それが、天の国を受け継いで持ち運んでいく者たちの姿です。
今日の箇所は、主イエスが弟子たち一人一人をお招きになって天の国を受け継ぐ者としてくださり、そして次の人に宣べ伝えるように遣わされるに当たって、弟子としての歩みをどのように歩んだらよいのかという心構えを教えておられる、そういう箇所です。そして、その一番最初に言われているのが「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」という言葉です。
弟子たちが「主イエスというお方がこの世界に来ておられる。そして、あなたと一緒に歩もうとしておられる」と宣べ伝える時に、まさに宣べ伝えている一人一人のキリスト者は、既に主イエスの御言葉を信じ神の支配のもとに生きているのです。ですから、天の国が来ているという知らせは、話が上手だから伝えられるとか下手だから伝わらないというようなものではありません。たとえ話が上手くなくても、事実として、伝えられる人の目の前に天の国の支配に生きている人が来ているのです。ですから、キリスト者一人一人は、まさにその人が神の支配を受け入れ、神の民として生きようとしている生活、それ自体が証しになっているのです。そしてそれは、伝えられる人にとっては「神の国が近づいている」ということになるのです。
私たちは、もしかすると上手に言葉で神を伝えることは難しいかもしれません。けれども、一人一人が本当に喜んで神を礼拝し、御言葉を聞き御言葉に従って生活していくことを通して、天の国の御支配を宣べ伝えていく、そういう僕(しもべ)とされているのだということを、ここに語られている第一のこととして、まず覚えたいと思います。
主イエスの恵みのもとに遣わされていく弟子たちに教えられている第二の心得、それは、弟子たちに注がれている神の恵みと御支配の生活が、もともとその人に由来しているのではないということです。8節にはそのことが非常に鮮明に語られています。「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とあります。
弟子たちが天の国を伝えるために遣わされていく、その時に弟子たちは驚くようなことを命じられています。「病人を癒しなさい。死者を生き返らせなさい。重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。そういうことをあなたたちはするのです」と言われているのです。ここに言われていることを、弟子たちがもし、自分自身の力、見識、自分自身の熱意、知性によってやろうとしても、とても行うことはできないような内容が語られています。恐らく弟子たちも戸惑ったのではないかと思います。私たちであっても「あなたも行って福音を宣べ伝えなさい。そして死者を生き返らせなさい」と言われたら戸惑うことでしょう。
このように、弟子たちは自分の力ではできないことを行えと言われているのですが、それはどうしてかと言いますと、もともと人の力に由来することを行えと言われているわけではないからです。「弟子たちを送り出した主イエスが弟子たちと共に働いてくださるから起こる」、そのことを行いなさいと言われているのです。使徒言行録には、ちょうどこの裏返しの例があります。19章です。主イエスの弟子はここではパウロですが、パウロが主イエスの御業に仕えて病人を癒し悪霊を追い出していたときに起こったユニークな話です。13節から16 節に「ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』と言う者があった。ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちがこんなことをしていた。悪霊は彼らに言い返した。『イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ』そして、悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した」とあります。この祈祷師たちは、「主イエス・キリストというお方の御名」を人間にとって都合よく便利に使える魔法の呪文のように考えたのです。そして、ただ形だけ、その名前を唱えさえすれば病気も悪霊も追い出すことができるのではないか、パウロがやっていることはそういうことだと簡単に考えて行ったのですが、その結果は悲惨なものでした。どうしてかと言いますと、悪霊に取り憑かれている人というのは、本当に深刻な現実の中で苦しんでいる人ですから、ただ形だけ主イエスの名を唱えれば事が解決するなどというものではないのです。
主イエスの弟子たちは、主イエスから手軽な呪文を教えてもらって、「主イエスという名を使いさえすれば、どんな問題でもたちどころに解決することになっているから、そうしてみなさい」と言って送り出されているのではありません。そうではなく、「真に主イエスというお方がわたしと共に歩んでくださっているのだ。どんな時にもどんなに苦しいと思う場面に直面する時でも、そこに主イエスが共にいてくださる。そしてきっとこの困難な状況に出口を与えてくださる」と信じて主の業に仕える、そういう者として弟子たちは送り出されているのです。何事であれ、自分ですべてできるのではない。そうではなくて、本当に難しく困難だと思っても、そこで主に祈り、助けを求めるようにして粘り強く癒しの業に仕えていく、弟子たちはそのことを教えられて出かけて行きました。
そして実際には、主イエスご自身も、10章の先を読んでいきますと弟子たちと一緒になってこの御業に仕えておられたことが語られています。11章1節に「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された」とあります。つまり、主イエスは、12人の弟子に心得を教え送り出した後は、ただ弟子の帰りを待っていたということではありません。「そこを去り、方々の町で教え、宣教された」とありますが、主イエスは弟子たちと一緒に出かけて行って、「天の国を宣べ伝える」という弟子たちの業に仕えてくださったのです。11章には、人間にはとてもできないと思うことも、弟子たちと共に主イエスがいてくださり、支え、行わせてくださったのだという経緯が語られているのです。
私たちは、主イエスが伴ってくださるゆえに、驚くような業に遣わされていくのだということを覚えたいと思います。最初から、主イエスが一緒ではないことを前提にして、人間の思いや人間の考えでできる範囲のことだけに遣わされているのではないのです。もし、人間の考えでできる範囲のことだけにしか遣わされないのだとすれば、結局この地上において神の御業など行われない、人間の考えや人間の思いによることしか行われないことになります。けれども、12人の弟子たちは、主イエスから送り出されていくのです。「天の国、神の御支配がやって来ていること」を宣べ伝える使命に、一人一人が生きるように招かれているのです。そして、そこに主イエスが伴ってくださる、それが第二のことです。
私たち一人一人の生活にも、主イエスが伴ってくださって、私たちの力、思いを超えるような支えを与えてくださる。そして、きっと果たすべき業に仕えさせ、実現させてくださる。このことを信じるように招かれていることを覚えたいと思います。
3つ目の心得として、主イエスが弟子たちに教えておられることは、この世の富に依り頼むなということです。あるいは、この世の財産や安定した生活を築くために心を煩わせるなということです。9節10節に「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」と言われています。
実はこの言葉は、ここが語られるたびに躓づく方が出るということで有名な箇所だそうです。いかにも厳しすぎると感じる人が多いのです。それは確かに、今日的状況から言えばその通りかもしれません。私たちが今日、もし、主イエスから遣わされて働きに行くのだからといって、この通りであったら、行けるでしょうか。この通りだったら、金銭的には果たして目的地まで辿り着けるかどうか、また裸足で行くなど自分にはできそうにないという感想が出てきそうです。確かにそうかもしれません。旅に遣わされるのに、旅に必要な備えを何もしないで行けと言われているように聞こえてしまうのです。
けれどもこれは、聖書が書かれた時代の生活を背景にしているのだと言われています。実は、主イエスご自身がどんな服装で弟子たちと一緒に旅をされたのかについては、聖書には書かれていません。主イエスと同じ時代の人とすれば、洗礼者ヨハネの服装は聖書に語られています。「ラクダの毛を衣として、腰には皮の帯を締めていた」と言われています。毛皮一枚と帯だけ、食べ物は野密とイナゴ、それで生きていくことができた時代の話ですから、ここで語られている旅の装いは、今日では成り立たないものです。
けれども、ここで言われていることは、「弟子とされ遣わされていく人は、天の国を宣べ伝える以外のことに心を煩わされてはいけない」ということなのだろうと思います。旅をするからには当然備えがあった方がよいと思えば、あれもこれもあった方がよいと考え、そう思っているうちに、旅立てないまま終わってしまうということも起こります。けれども「あなたは、天の国の支配を宣べ伝えるために遣わされて行くのだから、そのことにまず目を向けるようにしなさい」、それを主イエスは教えておられるのだと思います。準備を欠いた軽率な旅をして、行く先々で人に迷惑をかけなさいと言っておられるのではありません。
お金のことで言いますと、8節の終わりで「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われています。弟子たちは「ただで受けた」と言われますが、何を受けたのでしょうか。それは「天の国の支配を宣べ伝えてもらう」、それを「ただで受けた」のです。「あなたは、天の国の支配のもとに生きてよいのだと招かれています。神があなたを支えてくださる方として、あなたの前に立っておられます。あなたは、神抜きで、自分でくよくよしながら一人で人生を生きるのではなく、どんな時にもどんなことになっても、神があなたの身柄の責任を取ってくださるのだから、信じて生きていきなさい」という招きの言葉から始まるのですが、それを弟子たちは「ただで」聞かせてもらっているのです。
「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」という言葉は、実は意訳で、原文では「贈り物としてそれを受けたのだから、贈り物として与えなさい」と書いてあります。ですから、少しニュアンスが違うと思います。「ただ」と言うと値打ちのないものと思ってしまいますが、「贈り物」と言うと違ってきます。「贈り物」は、もらう時には何も支払いませんから、その意味を考えますと「ただで受けた」ということになります。
次に「ただで与えなさい」というのは、「『天の国が近づいている』ということを、贈り物として与えてあげるようにしなさい」ということです。もらう場合はただですが、贈る場合にはただというわけにはいかないでしょう。ですから「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」という言葉は、受けるのも与えるのも損得なしだと受け取ってしまうと、多分、内容がずれてくると思います。
私たちは「ただで受けた」ように思っていますけれど、しかし実は、本当にたくさんの贈り物を受けて天の国の支配を知るようにされているところがあります。例えば、私たちが初めて主イエスのことを聞かされ、神の御支配が目の前に来ていると知らされた時に、即座に「はい」と首を縦に振って受け入れたかというと、そういう方は殆どいないのではないでしょうか。散々疑ったり反発したり、あるいは分かったつもりになって勘違いしながら、少しずつ信仰に導かれていったことでしょう。そういう私たちに天の国を伝えてくれた人は、本当に忍耐し祈りをもって支えてくれたに違いないのです。あるいは「この人には分からないかもしれない」と思って、言葉を選びながら語ってくれて、それで私たちは少しずつ天の国がわたしにも関わりあるのだということを分かるようにしてもらって、その末に受け入れたに違いありません。
ですから、私たちはただで受けていますけれど、しかし、私たちに天の国を知らせ福音を宣べ伝えてくれた人たちは、決してただで私たちに与えているのではありません。大きな労力、あるいは金銭も使われているかもしれません。そのようにして、私たちは、先に信じていた人たちの信仰によって支えられて、信仰を受け継ぐ者とされています。「あなたは、贈り物として天の国を信じる者とされている。だから、あなたはそれを受け継ぐ者として歩んで行く先では、あなたが次の人のために祈ったり、許したり、配慮ある暖かな言葉を与えるようになりなさい」という勧めが、ここにはあるのです。私たちは、神の御業に仕えて、相手に対しては「ただで与えるように」と、求められているのです。
さらに11節12節では、神の支配を信じてその中に生きる弟子たちの生き方が教えられています。「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」。
弟子たちが出かけた先で誰かに出会ったら、旅立つ時まで一つの家に留まり続けるようにと教えられています。これは先の「財産や富への思い煩いをするな」ということに繋がるところがあるのですが、「ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」というのは、ある町に入った後で、自分にとって有利な条件を出してくれる人は誰かなと考えて、有利そうな人のところを転々とするようなことがないようにという戒めです。どこかの町に入って、最初に弟子を迎えてくれた人がいれば、当然、その町で主イエスのことを宣べ伝えるのはその家からになります。ところが、弟子たちがふと、もう少し裕福そうな人が暮らしていることに目を留めてしまい、せっかくそれまで献身的に支えてくれた家の人を見限って、自分にとって都合の良さそうな次の家にさっと移ってしまうような不信仰なことが起こらないように、主イエスはここで戒めておられるのです。
「ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」という言葉は、ルカによる福音書ではもっと際立った言い方になっています。10章7節に「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな」とあります。「家から家へと渡り歩くな」という言葉は非常にはっきりしています。「自分に都合が良いからと言って、次々と場所を動かすようなことをするな」ということです。この最後の言葉が言われているということは、裏返しに考えますと、私たちがどんなに弱さを持っているかということだろうと思います。主イエスの恵みの御支配をこの身をもって証しするのだと言いながら、私たちはつい、目の前に提供されるこの世の富とか豊かさ、安楽というものに心惹かれてしまうようなところがあるのです。そう歩んでしまうと、もはや私たちは、主イエスが共に歩んでくださるのだからどこへでも歩んで行けるという明朗さは失われてしまうことになります。神に依り頼み神に信頼して生きる代わりに、好条件を出してくれる人に誘惑され引っ張られて生きていく、それは結局、神を知らない人がやっていることと同じです。「あなたは、神の国の訪れを告げ知らせる者として招かれている。主イエスがあなたの人生を支える方として立っていてくださることを伝えるために弟子とされているのだから、潔いあり方をしなさい」と教えられているのです。
ところで、今日の箇所で主イエスは、留まるべき家を調べてから入りなさいと言っておられます。「ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」。「ふさわしい人」は、どうやって見つけるのでしょうか。弟子たちの時代のありようを検証してみたいのです。
弟子たちは二人一組で遣わされて行ったのですが、どのように主イエスを宣べ伝えたでしょうか。恐らく、その町にユダヤ人の会堂がある場合には、まずそこに入って、神の御業と主イエスを宣べ伝えたのです。「主イエスを通して、今、あなたにも天の国が及んで来ようとしています。私たちは今、天の国に生活している者として、あなたの前に立っています。あなたもわたしと同じように神に信頼して天の国の民としての生活を送りませんか」という招きを、二人一人でするのです。
その時に、聞いている人たちは様々だったことでしょう。「もう間に合っています」と言う人、「主イエスなど知りません」と反発する人、「本当にそういうものがあるのか」と思って聞く人もあったかもしれません。弟子たちは話をしながら、聞いている人たちの態度を注意深く見守るように、そして本当に乗り気になって主イエスのことを聞く人を探すようにと教えられているのです。「天の国が近づいた」という言葉を聞いて、本当にそのことを心から求める、そういう人を探し出して、そしてその人の家に行きなさいと言われているのです。もちろん、そういう人が必ずしも裕福だとは限りません。けれども、裕福であるということよりも更に大事なことがあるのです。本当に天の国を待ち望んでいる人、神の国の御支配に生きたいと願っている人がいれば、その人の家に暮らせば、その人に天の国を伝えることが大変身近にできるのです。
弟子たちは、神の訪れを聞きたいと願う人の側近くにいて、その人と一緒に暮らすことで、自分の生活を全てさらけ出すことで、本当に自分が天の国の者として生きていることを見せながら「あなたもそう生きてよいのだよ」と招く、そういう役割を果たすようにと招かれているのです。そのようにして、弟子たちと行った先の町の人たちが親しく交わるときに、その家とその町に天の国がやって来ているという福音が根付いていくようになるのです。
12節に丹念に言われていますが、弟子たちは、「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」と教えられています。その家に入ったら、その人と上手くいくように「やあやあ」と言ったり、儀礼的に「平和あれ」と言うのでもないのです。「平和があるように」と挨拶して祈ることで、ある特別な状況が生まれてくるのです。それは、本当に平和が、その瞬間からその家に生じ始めていきます。主イエスは、決して言葉だけで「平和」を考えておられません。弟子たちが実際に生きて、その生活の中で実現していくことなのだと考えておられます。
少し前に聞きましたが、主イエスは、マタイによる福音書5章9節「山上の説教」で「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われました。ここで「平和を願う人」とか「平和を愛する人」とおっしゃるのではなく、「平和を実現する人こそが幸いである」と教えておられます。弟子たちに向かって「平和があるように」と挨拶しなさいという時に、平和を実現する、実際にそこに平和を成り立たせていく、その最初の行いとして、主イエスはこう挨拶しなさいと言っておられるのです。
平和が好きな人というのは、世の中にたくさんいると思います。平和が嫌いだという人はいないでしょう。けれども、自分たちの生活の中に実際に平和を実現しようとする時には、多くの困難が伴うということは事実だろうと思います。家庭の中で考えてもそうでしょう。家族と一緒に暮らしていると、一番近しいはずの人たちですが、大体そこでわだかまりが生まれてくるのです。家事でも子育てでも、互いに自分の思いと違うことが日常的にあって、そんな時には、平和な気持ちで穏やかにいることはできずに、けれども平和を壊しているなどとは思わずに暮らしています。しかし考えてみますと、不和になっていくのは、そういうことの積み重ねのようなところがあるだろうと思います。壊れてしまった後から考えれば、「こんなに小さな事なのだから、あの時あんなにこだわらなければよかった」と思うようなことを私たちは重ねていって、大変深刻な事態にまで広げていってしまうということをしてしまいがちなのです。
「平和」を私たちは好きなのですが、それを実現することは本当に難しいところがありますし、困難なことがあります。口先だけで「平和があるように」と言っても、実際に成り立たせるのは容易ではないのです。けれども主イエスは、弟子たちが「平和があるように」と挨拶し、そして「その家に神の平和をもたらしてください」と祈っていくことによって、「あなたたちは、その家に平和を作り出していく者となっていくのだよ」と、弟子たちを送り出してくださっているのです。
そして、もしその家の人たちがそれを受け入れるにふさわしい人であったら、まさにその平和はそこに実現していくのだと教えられます。13節に「家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる」とあります。
平和は、人間同士の間柄において成り立つものですから、片方の努力だけで成り立たせることはできないのです。場合によっては、主の弟子たちが平和をもたらせようと願って行うありようが受け入れてもらえずに、上手くいかないということも残念ながらあるのです。しかし、たとえそうであっても、「あなたが平和を来らせようとして祈った、そのことは決して虚しくならない」と、主イエスは教えてくださっています。もし平和がそこに成り立たないとしても、その平和はあなたたちに返ってくる、そして、あなたを強めてくれると言われます。
主イエスは、山上の説教の中で「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われました。平和を実現しようとする人は、たとえその時上手くいかないとしても、神の子として持ち運ばれていくのです。思ったことが上手くいかなかった、そういう悲しみや傷を負うかもしれません。けれども「あなたはよくやった。本当に困難な状況ので、わたしが愛し、わたしが支えている中で、あなたはわたしの子なのだ」と、主イエスから言っていただけるのです。まさに、天の国の支配のもとで、その人は、慰められ支えられ、そして本来あるべき姿で生きるようにと励まされながら、人生を先へ先へと持ち運ばれていくのです。
私たちは、信仰生活の中でそのような神の平和を実現する者として、天の国を宣べ伝える者として、それぞれの人生に遣わされているということを覚えたいのです。主イエスが弟子たちに一つ一つ、心構えを教えてくださいましたけれども、私たちも、主イエスの御言葉によって、神の恵みの支配を宣べ伝える者として、ここから遣わされていきたいと願います。そして、私たちの人生の歩んでいく先には、主イエスが常に来てくださり、主イエスが共に歩んでくださるのだということを覚えながら、ここから一巡りの時に遣わされていきたいと願うのです。 |