聖書のみことば
2017年4月
4月2日 4月9日 4月16日 4月23日 4月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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4月23日主日礼拝音声

 派遣
2017年4月第4主日礼拝 2017年4月23日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第16章9節〜20節

16章<9節>〔イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。<10節>マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。<11節>しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。<12節>その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。<13節>この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。<14節>その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。<15節>それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。<16節>信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。<17節>信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。<18節>手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」<19節>主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。<20節>一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。〕

 ただ今、マルコによる福音書の一番最後の部分、16章9節から20節までをご一緒にお聞きしました。先週も申し上げましたが、この部分は、元々の福音書には書かれていなかったものが後から付け加えられたということが分かっています。この箇所の原型は2世紀には既に知られていましたが、実際に福音書の中に書き込まれるようになったのは、紀元989年に、ある修道院で写された福音書が一番最初だと言われています。そして、その写本を見ると誰がそれを書き込んだかまで分かっていますので、この箇所はいつでも括弧付きで、「ここは元々の福音書の記事ではない」ことの注意を喚起するマークが付いて、書き足されているのです。

 では、どうして8節で終わっていたものに、このような付け足しのような言葉が後から加えられるようになったのでしょうか。この部分が何を語っているのか、それを今日は聞きたいのです。
 まず9節から13節を見ますと、主イエス・キリストが復活なさって、最初にマグダラのマリアに、続いてエルサレムから郷里に帰ろうとして歩いていた二人の弟子たちにご自身をお示しになったという二つの出来事が書かれています。これは元々は、ヨハネによる福音書20章、ルカによる福音書24章に語られていることを要約した、そういう文章です。9節と12節に「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。…その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された」とあります。
 復活した主イエスが、まずはマグダラのマリアに、そして二人の弟子たちにご自身をお示しになったとありますが、その際に、どんなお姿で現れられたのかということは、ここには述べられません。「マグダラのマリアに、そして二人の弟子に姿を現された」と聞きますと、私たちにしてみますと、つい、その時の主イエスはどういうお姿だったのだろうかと想像したくなるところです。ところが、この箇所の聖書の記事を読んでいますと、甦りの主イエスが人間に出会う際のお姿というのは、完全に自由なのだと言わんばかりの言い方がされています。私たちからすれば、甦りの主イエスは輝く白い衣を着ていて、頭に光の輪でも付いていれば分かり易いと思いますが、どうもそのような、漫画のキャラクターのような姿ではないようです。恐らくそれには理由があります。それは、主イエスが私たちに「復活を信じるようになるように」と求めておられるからです。
 私たちが、大変分かり易いお姿の主イエスに出会ったとすれば、それは、甦りの出来事があったことを信じるということではなく、自分の目で見たので納得したということになるでしょう。けれども、主イエスはそのように「見たので納得した」というような分かり方ではなく、確かに主イエスは亡くなったけれども、しかし復活して「あなたと共にいるよ」と語りかけられている言葉を信じるようになることをお求めになるのです。
 主イエスがそのようにして、弟子たちが信じる者になることを求めておられるということは、今日の箇所で、最初に主に出会ったマリアも、続いて出会った二人の弟子たちも、「他の弟子たちのところに送り出されている」ということからも分かります。
 マリアが弟子たちのところに遣わされたことは10節に、二人の弟子が送り出されたことは13節に、それぞれ書かれています。10節に「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた」とあります。「このこと」というのは言うまでもなく、「主イエスが復活して、自分に出会ってくださった、現れてくださった」ということです。甦った主イエスが出会ってくださった、そのことを経験させられた人は、次にはその人自身が主の復活の証人となって、自分に近しい人たち、嘆いている人たちの元に行って、「主イエスは確かに甦っておられます」と伝えるようになったのだと言われています。二人の弟子たちも同様でした。13節に「この二人も行って残りの人たちに知らせた…」とあります。復活の主イエスに出会わされた人たちは、次にはその知らせを持って自分の近しい人たちを訪ねて行く、そのように変えられて行くのです。

 その際に、自分の愛する者、近しい者たちに対して「果たして上手く語れるだろうか。伝えられるだろうか」ということは、差し当たり、問題になりません。どうしてかと言えば、主イエスが甦っておられるということは、それを聞いた人が信じてくれたから真実になる、信じなかったら消えて無くなるというようなものではないからです。もし、主イエスが甦っておられるということが人間の考えた作り話であって、それを相手に上手に説得して丸め込むことができたら本当だけれども、そうでなかったら根も葉もない出鱈目であるとしたら、主イエスを信じる教会の群が今日まで続くことはなかったに違いありません。とうの昔になくなっていたことでしょう。どうしてでしょうか。「主イエスが甦っておられる。そして今も生きて働いておられるのだ」という知らせは、普通は、人間の理性では到底受け入れ難いことだからです。
 実際に、マグダラのマリアから主の復活を知らされた弟子たち、そして、二人の弟子から復活を知らされた他の弟子たちも、そのことを信じることができなかったとここに書いてあります。11節と13節の後半に「しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。…彼らは二人の言うことも信じなかった」とあります。最初にマグダラのマリアが、深く嘆いている弟子たちの元に行って、「兄弟姉妹、もう泣かなくて良いのです。わたしはたった今、甦りの主イエス・キリストに出会いました」と告げ知らせた時に、聞かされた仲間の弟子たちは、全くこのマリアの言葉を取り合おうとしませんでした。それには一つ、理由があります。それは、マリアがたった一人でこれを告げているからです。
 よく言われることですが、当時のユダヤの習慣では、本当のこと、真実なことは必ず、一人ではなく二人または三人以上の証人の言葉で確かだと考えられていました。一人の人が何かのことをどんなに声高に言い立てても、一人の主張に留まっているならば、それは、本当のことだと認めてもらえないのです。まして、マグダラのマリアは女性です。当時のものの考え方では、女性の発言は証言として認めないという人も大勢いました。ですから、二人または三人の証人という時、女性であれば数えてもらえないということがありました。マグダラのマリアは、一人で主の復活を告げました。マリアは、当時のものの考え方からすれば、自分の言っていることなど受け入れてもらえないことは百も承知だったに違いありません。まして、語っている内容が「お亡くなりになった主イエスが甦って生きておられる」という知らせです。理屈で言えば、こんなことはあるはずがないことです。マリアは弟子たちのところへ行って、普通であれば受け入れてもらえないようなことを告げ知らせたのです。
 どうしてそうしたのかと言いますと、それはマリア自身のためではありません。ここに「イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って」と書いてありますが、弟子たちが泣き悲しんでいたからです。弟子たちが「もう二度と主イエスとお目にかかることはできない」と言って悲しんでいるので、「そうではない」ことを少しでも信じてもらえたらと思って、マリアは知らせているのです。「主イエスは甦っておられます。あなたと共に確かにおられます。どこにいても、主イエスはあなたと一緒です」ということを、もしも弟子たちが聞き取ることができたなら、大いに慰められ励まされるに違いない、マリアはそう思って、仲間の弟子たちのところへ行って伝えたのです。
 このことは、私たちにとっても同じことだろうと思います。「甦りの主があなたと共にいる。どんな時にも、どんな苦境の中に置かれていても、どんなに辛い立場に立たされていても、どんなに深い嘆きの中に置かれていても、それでも主イエスはあなたを見捨てず、苦しんでいるあなた、嘆いているあなた、痛んでいるあなたと共に歩んでくださる」と語ってくれる人がいたら、私たちはどんなに心強いかと思います。まさしくそういう時には、痛んだり苦しんだりしていればしているほど、「主はあなたの牧者であって、あなたには乏しいことはないのだ」と言われている聖書の言葉の意味が本当に真実であると、しみじみ分かるのではないでしょうか。
 そして、もしそのことを私たちが自分のこととして受け止めることができたならば、次には、私たち自身がそういう言葉を聞かされている者として、周りにいる近しい人たちに、特にその中で心がくじけたり、くずおれそうになっている人たち、深い嘆きや悲しみの中に沈んでいる人たち、そういう愛する人たちのところに行って、「大丈夫です。あなたは決して一人ではありません。主イエスがあなたと共におられます」と、「主イエスに支えられて生きる生活はどんなに素晴らしいか」ということを伝えようという思いになるのではないでしょうか。そういう時には、私たちは、相手がそれを受け止めるかどうかということは、差し当たって思いの中に無いのです。相手が受け入れてくれるのであれば喜んで言うけれども、反発されたり聞き流されるのであれば引っ込める、などという思いにはならないはずなのです。マリアは、嘆き悲しんでいる人たちのところに行って、是非とも主イエスのご復活を伝えたいと願って、祈りをもって行動したに違いありません。

 ところが、そのようにして伝えてもらった仲間の弟子たちは、マリアの言葉を頭から相手にしません。「女性が一人で、何をたわけたことを言っているのか」という具合にあしらうのです。「その言葉を信じるためには、最低でも二人の男性が伝えてくれるのでなければダメ。もし、そのようにして伝えてくれるのであれば、聞かないこともないけれど」というマリアに対する態度です。そこに、田舎に帰ったはずの二人の弟子がひょっこり帰ってきて、この二人もまた、「主イエスが復活して、私たちに現れてくださった」と弟子たちに告げます。では弟子たちは、今度は信じたのでしょうか。今度は男性二人ですから信じたのかというと、そうではありませんでした。13節に「この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった」とあります。
 私たちが読んでいる日本語聖書ですと、11節の終わりと13節の終わりに「信じなかった」という言葉が出てきます。日本語に訳してしまうと同じ言葉ですが、元々のギリシャ語で書かれた聖書を見ますと、よく似てはいるけれども違う言葉が書いてあります。
 11節の「マリアの言葉を信じなかった」方は、「頭から信じない」という言葉が使われています。これは「信じません」という一つの単語です。英語で言いますと「アンビリービング」、とても信じられないことを「アンビリーバブル」と言いますが、その元になっている動詞がここに使われています。「信じることなどできない」という言葉でマリアに返事をしているのです。
 一方、13節の「二人の弟子の言葉を信じなかった」方は、「信じるという、そのことをしなかった」と書いてあります。英語で言えば「ノット ビリーブ」です。とても微妙な違いですが、二人の弟子たちが伝えてくれた時には、二人の証言が一致しているわけですから、「一応これは本当のことだろうかと考えて、それを信じて受け入れることもできる」、つまり「ビリーブ」なのです。けれども、「それをしない」という打ち消しになっています。弟子たちは、可能性としては、二人の弟子が語ってくれた時に、「これを受け入れることもできたかもしれないのだけれど、それをしなかった」と言われています。

 16章9節以下が、なぜ付け加えられたのか。ここに語られている一つの主題は明らかに「信じない」ということです。マグダラのマリアが甦りの出来事を知らせてくれた時には、弟子たちは「そんなことがあるはずがない」と頭から信じません。そして、二人の弟子たちが「確かに復活しておられる」と二人で証言してくれても、やはり信じません。弟子たちは、繰り返し繰り返し、「主イエスは復活しておられるのだよ」と聞かされております。二人の弟子とマリアを加えれば三人の人が、一度にではなく、別々の時に聞かせてくれています。にも拘らず、「弟子たちは信じなかった」と書かれているのです。
 その結果は、どうなっていくのでしょうか。せっかく「主イエスが甦られた」ということを告げてくれた人がいたのに、この弟子たちは結局、その知らせに背を向けたまま、主イエスの復活を信じないまま、「この地上から消えて行きました。神の御前から退けられました」という結末になるのでしょうか。仮にもし、そういうことになったとしたら、それは弟子たち自身の責任です。神は分かるようにと、一人ではなく二人、二人ではなく三人の人たちから、「わたしは主イエスを甦らせた」と言ってくださったのですから、それを聞かされたのに信じなかったのは、弟子たちが信じなかったことに責任があるのです。ですから、もし信じないまま終わってしまったとしても、弟子たちは神に不平を言うことはできなかったはずです。

 ところが、神は、本当に不思議なことに、「信じない弟子たちを見捨てなかった」のだと、ここに語られています。マリアが語ってくれることを信じず、また二人の弟子たちが言うことを受け入れようとしない、そういう弟子たちはどうなったのか。この先を読んで行きますと、この弟子たちのもとに、甦りの主イエス・キリストがおいでになり、そして、信じなかった弟子たちの頑なな心をお咎めになったのだと言われております。14節に「その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」とあります。またここに「信じなかった」という言葉が出てきます。三度目です。
 ただ、この「信じなかった」という言葉の使い方は、前の二回とは違います。前の二回で「信じなかった」というのは、マグダラのマリアに対しても、二人の弟子たちに対しても、弟子たちが、自分が最後の決定を下す者として「信じない」というあり方をしています。「そんなことは信じません。わたしが信じないのだから、信じないのです」という仕方で終わっています。マリアに対してと二人の弟子に対しては、微妙な違いはありますが、しかし、弟子たちが自分の考えで判断しているというところは同じです。
 それに対して三度目の主イエスとの出会いでは、そういう弟子たちの判断や態度が問題にされて、主イエスから咎められているのです。「信じない」という弟子たちの態度で終わっているのではなく、「どうしてあなたは信じようとしないのか」と、主イエスが弟子たちの有りようを問題になさるのです。「あなたはそれでいいのですか、本当に。悲しみの中に沈んだままでいいのですか。わたしとの交わりが無くなっている、それでいいのですか」と、主イエスが弟子たちに尋ねてくださるのです。
 この箇所を聞いていて、本当に考えさせられます。「主イエスが甦っておられることを信じる」とは、一体どういうことなのだろうかと思わされます。

 ある牧師が、この「信じる」ということを巡って、とても面白いことを言っていました。その先生の教会で受洗志願者がいたので受洗のための準備の講座を開き、その人と一対一で話していたそうです。その時に、受洗を志願しているその人に、「先生、教会では信仰告白と言いますが、あの告白は、自分の心の中にある思いを人々の前で告白するということですよね。それで良いのですよね」と尋ねられたそうです。牧師は大変大切な問いであると思い、丁寧に答えたそうです。「いいえ、それは、あなたの心の思いを語るのではありません。教会が信じている事柄を『わたしも信じます』と言い表すことが信仰の告白なのです」と説明したそうです。ところが、その人には合点がなかなかいかず、「信仰告白であれば、少なくとも自分の心の思いを言い表すべきだ」と言ったそうです。「他の人たちが言っていることを、自分も同じだと言うのは変だ」というところで、なかなか信仰告白へ至らなかったそうです。それで最後に、牧師は「二人または三人の人が真実なことを語っているのと同じように、教会の群れも、実は『主イエスは甦って、あなたと共にいるのだ』ということを、2000年の間ずっと言い続けてきているのです。そして、あなたが信仰を告白するというのは、そのようにしてあなたに聞かされている知らせ、『主イエスは甦って、あなたと共に生きておられる、生きてくださる』という知らせを本当だと信じて、そこに身を投じるかどうかです。教会が信じている知らせを、自分も『本当のことを聞いたのだ』と思って、そこに自分の身を投じるかどうかが信仰告白するかどうかということです」と説明したところ、その人の表情が急に明るくなって、「分かりました。そういうことであれば、わたしも、聞かされたことを本当であると思って、信じる方に身を投じることにします」と返事をしたそうです。
 復活を信じるということは、自分の頭であれこれ考えて、理屈が通って合点したので信じるということとは違うのだろうと思います。おそらく、自分の頭で考えて合点がいったというのは、自分が納得したということであって、信じたということと同じではないのです。復活を信じている人も、理屈で考えれば、「死んでしまった主イエスが甦っておられるなどということは、とても間尺に合わないな」と思っている方は大勢いることと思います。けれども、そういうことが実際にあったのだと、教会の群れはずっと言い続けてきているのです。一番最初にはマグダラのマリアが伝え、続いて二人の弟子たちが伝え、更には、主イエスから頑なな不信仰を咎められた十一人の弟子たちも伝え、そのようにして、主イエスに出会っていただいた人たちが「確かに主イエスは甦っていると言うほかない」と言っているその言葉を、2000年の間、ずっと聞かされてきているのです。「わたしは、それが正しい本当のことだと思う側に立つことにする。わたしはそこに身を投じることにする」、それが「甦りの主イエスを信じる」ということなのだと思います。

 もし、教会の礼拝を守っていながら、しかし自分自身は、遂に、「主イエスが甦っておられる」ことを正しいと考える側に自分の身を投じるつもりがないのであれば、それは、教会の証言を繰り返し聞いたけれども信じなかったということになると思います。弟子たちが最初にやっていたようなあり方です。けれども、甦りの主イエスは、そういう弟子たちも愛しておられるのです。復活を聞かされても「そんなことはあるはずはない。とても受け入れられない」と言う弟子たちを、主イエスは愛しておられて、この弟子たちの元にやって来られるのです。そして「あなたたちは、信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と招いてくださるのです。
 最初にマリアを送り「信じる者になりなさい」と、次に二人の弟子を送って「信じる者になりなさい」と、そして最後には主イエスご自身が来てくださって、「なぜあなたたちは信じないのか」と言ってくださるのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。あなたは、わたしが甦ったあなたの主であるということを信じて、そちら側に身を投じて生きる者になりなさい」と、私たちを招いてくださるのです。

 そして、主イエスはそのようにして弟子たちをお招きになった後、今度は、招かれたその弟子たちを「復活を告げる使者」として、さらに一人一人の近しい人たちの元にお遣わしになるのです。それが15節です。「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい』」とあります。「全世界に行って」とありますが、これは世界旅行のように遠くに行けと言っているのではありません。「すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」とおっしゃっているのですから、私たちの身近にいる一人に主イエスの甦りを伝える。そして主イエスがどんなに私たちを慰めて力を与えてくださるかを証しするということでも、立派に世界の片隅に遣わされていることになるのです。
 そして、そのようにして主イエスの復活を信じる側に立って、宣べ伝える証しをした弟子たちには、様々なしるしが起こるようになったのだと、ここに言われております。私たちの生きる力を損なって萎えさせようとする悪霊の力を追い払ってくださったり、あるいは今まで復活などないと思っていた、それが当然だと思っていた時には思いもよらなかった新しい言葉を私たちが語ったり聞かされたりして、御言葉に支えられるようなことが起こる。あるいは、主イエスから人間を引き離そうと蛇のように誘惑する力も、実際に主イエスを証しする生活に身を投じている人にとっては、その人から潮が引くように離れていく、そういうことが起こる。主がそこにおられる時には、サタンが誘惑をしようとしても引いて行かざるを得ないのです。更に、毒を含んだ色々な言葉に心を刺される時にも、すっかりそれに参ってしまうのではなく、毒を身に受けたと感じても、主が伴ってくださり、あれこれと言われた嫌なことを一生の間引きずってダメになってしまいそうでも、主イエスの御言葉が解毒剤のように作用して私たちを不思議と清めて支えてくださる。そのようにして、病んでいる人に、身をもっての証しとなり支えとなる、仕える生活へと変えられていくのです。それが、17節18節に「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」とあることの内容です。
 「主イエスの甦りを信じる。そして甦りの主イエスが常にわたしと共にいて、わたしを支えてくださる」、そういう側に立って生活する時には、確かに、ここにいる私たちにも、本当に不思議なことですが、こういうしるしが伴うということがあるのではないでしょうか。私たちが本当に辛い思いをした時、私たちはどこから立ち直るのでしょうか。主イエスが甦って共にいてくださる。主イエスが御言葉をかけてくださる。そして「あなたは、もう一度ここから、清められた者として生きてよいのだ」と呼びかけてくださる。その呼びかけを聞きながら、私たちは、「本当にそうだ」と思って歩んでいくのではないでしょうか。蛇のような誘惑に襲われる時にも、毒を飲まされたと思うような時にも、私たちはもう一度そこから清められ、主イエスと共にある生活を歩んでいけるようにされるのです。「あなたが主イエスの甦りを信じて、そこに身を投ずるならば、そうなる」と、主イエスはおっしゃっています。

 そしてまた、そういう主イエスの甦りを信じさせるために、主イエスは、マグダラのマリアに始まって、繰り返し繰り返し、甦りの証人を弟子たちの元に送ってくださるのです。その証人を通して、ご自身が私たちに出会おうとしてくださるのです。
 今日の箇所で、11人の弟子たちが「主イエスに出会っていただき、そして主イエスの甦りを証しする人とされて遣わされていった」のと同じように、「私たちにも、主イエスが出会ってくださる」ということを覚えたいのです。
 顧みますと、私たち自身は、この11人の弟子たちが自分に重なると思うことがあるかもしれません。主イエスが甦って確かに生きておられるのだと聞かされても、なかなかそれに合点することができない。自分とすれば受け入れにくい、釈然としないものを感じていると思うことがあるかもしれません。しかしそれでも、主イエスは、幾度となくご自身の甦りの証人を送ってくださって、「信じなさい」と声をかけてくださるのです。
 私たちとすれば、そういう言葉を聞いて、「主イエスが、このわたしに呼びかけてくださっているのだろうか」と少しでも感じる時には、その招きを後回しにするのではなく、率直に「これを聞き取りました」と言って、主イエスに従う者とされていきたいと願うのです。

 「主イエスがわたしに伴ってくださる」、そのしるしを示されながら、私たちは、終わりの日まで、主イエスの恵みの元にかくまわれ、この地上を生かされている者として、それぞれに与えられている旅路を進んでいきたいと願います。

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