聖書のみことば
2017年4月
4月2日 4月9日 4月16日 4月23日 4月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

4月2日主日礼拝音声

 主イエスの死
2017年4月第1主日礼拝 2017年4月2日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マルコによる福音書 第15章33節〜41節

15章<33節>昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 <34節>三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。<35節>そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。<36節>ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。<37節>しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。<38節>すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。<39節>百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。<40節>また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。<41節>この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

 ただ今、マルコによる福音書15章33節から41節までをご一緒にお聞きしました。33節に「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」とあります。既に25節のところで「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」と述べられていました。午前9時から昼の12時、午後3時と、主イエスの地上のご生涯の最後の時が静かに進んで行ったと、ここに語られています。

 特に、昼の12時から主イエスが息を引き取られる午後3時までの間には、不思議な暗闇が地の表を覆いました。ルカによる福音書では、この暗闇の現象が「太陽が光を失ったため」という説明がされており、ちょうどこの時に日蝕が起こったように受け取れる書き方がされています。そのため、天文学者の中には、紀元30年頃のパレスチナ地方で皆既日食が起こった日付を計算上で割り出し、まるでその日に主イエスが十字架に架けられたことを科学的に実証したかのように言う人もいます。しかし、科学的な言い方をするならば、学者が行う作業は、計算上では紀元30年頃のその日その時に日蝕が起こった可能性が高いということを言っているだけです。実際にその日に日蝕があったかどうかという証拠を挙げているわけではありませんし、まして、その日蝕のもとで主イエスが十字架に架けられたことを突き止めたという訳でもありません。
 そもそも、この暗闇が自然現象であったのか、それとも超自然的な神のなさりようによってそうなったのかも、はっきりとは分かりません。ルカによる福音書は「太陽が光を失った」と言っていますが、しかしそれが「どうしてそうなったのか」までは語っていません。マルコによる福音書ではそもそも太陽のことが出てきませんから、ここではむしろ、これは自然現象ではなく「神がなさった」というつもりで「暗くなった」と語っているように読むこともできます。仮に、神がそうなさったのだとするならば、この暗闇とは一体何を物語っているのでしょうか。
 マルコによる福音書で有名な注解書の一冊には、「世界の救い主が亡くなり、この世を去るに当たって、人間たちはそのことを知らなかったが、天地はその悲しみを知っていて暗黒を生じたのだ」と説明されています。人間は知らないけれども、人間以外の被造世界が知っていた悲しみがあるというのです。私たち人間の知らないところで、世界が悲しんだり呻いたりするのだろうかと、私たちは少し違和感を感じるかもしれません。自然界の方が人間よりも多くのことを知っているという考え方は、今日の人間中心的な考え方を当たり前と思って過ごしている私たちにとっては、なかなか受け止め難いところもあるだろうと思います。
 しかし、聖書に基づいての考え方があるかもしれません。聖書の中では、私たち人間は「神に似せて造られた」と創世記1章26節に書かれています。私たち人間が神の似姿に造られているということは、私たちがまるで神であるかのように自分で思考して、自由に自分の行動を定めていけるという面を持っているということです。ところが、人間以外の被造物はそうではありません。例えば、岩や鉱物が自分の意志を持って動いたりするわけではありませんし、植物も自分の考えでその場所に生えようとして生えているわけでもありません。動物も地の表を歩き回りますが、それは本能に従って行動しているのです。そう考えると、人間以外の自然界の被造物は、人間よりも遥かに率直に神の御心を映し出すということがあると言えるかもしれません。「神がご自身の独り子の受難を思って深く嘆き悲しまれた」その時に、人間は一人一人が小さな神のように勝手に物事を考え、神の御心などお構いなく自分の思いで生活している。しかし、この世界の上に聖霊が深い呻きをもって臨み、そのような人間と世界の執り成しをしているのだとすれば、天も地も素直にそれに応答して暗闇になるということがあったかもしれません。そう考えますと、マルコによる福音書に語られている「暗闇」というのは、確かに地上に臨んだものではありますが、しかしむしろその由来は、地上をはるかに超えた「天上における神ご自身の深い嘆き、痛み、悲しみ」に源を持っていると言ってもよいかもしれません。
 実は、このように地の表が暗くなったということと全く逆なことも聖書の中には語られています。それは、クリスマスの晩、救い主がこの地上に送り出された時、ベツレヘム郊外で野宿していた羊飼いたちは、「真っ暗なはずの夜空が天の万軍に押しつぶされて、真昼のように明るい栄光が地上を巡り照らした」ことを目撃したのだと語られています。クリスマスの時には、天の喜びが溢れ出て地上まで押し寄せてきました。明るい喜びが天上から地上にまで溢れ出てくる、そういうことがあったのであれば、深い悲しみと嘆きの暗闇もまた、天上から地上に押し寄せてくるということがあっても不思議ではありません。

 そう言われても、私たちは実際にこの時地上が暗くなった情景を思い描こうとしてもなかなか思い描けないのですが、いずれにしても12時から3時まで、非常に重くるしい時の流れがここにあったと言ってよいでしょう。そして、その深い暗闇と沈黙が主イエスの叫び声によって破られたのだと聖書は告げています。34節に「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」とあります。主イエスが発せられた叫び声というのは、本当に大声で、しかも、いかにも印象的だったのでしょう。主イエスが十字架上でおっしゃった言葉は、この言葉を含めて、福音書の中に7つ記録されています。「十字架上の7つの言葉」とか「十字架上の七言」と言われますが、7つの言葉の中で、この言葉だけが主イエスがおっしゃったそのままの口調で書き留められているのです。他の6つの言葉は皆、ギリシャ語に翻訳された形で出てきますが、この主イエスの言葉だけが主イエスが語られた通りのアラム語のまま、その音のままに出てくるのです。
 もっとも、マルコによる福音書では「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」ですが、マタイによる福音書ではヘブライ語で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と書かれています。ですから、実際に主イエスがおっしゃったのはどちらだったかということが、しばしば取り沙汰されます。これは恐らく、ヘブライ語の聖書の言葉、詩編22編1節の言葉ですが、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」とおっしゃったのだろうと言われています。そう考えられている理由は、主イエスのこの叫び声を十字架の下で聞いていた人たちが、「これはエリヤを呼んでいる叫び声だ」と思ったと、35節に書かれているからです。35節に「そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた」とあります。
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、あるいは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」とは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。「エロイ、エロイ」また「エリ、エリ」というのが「わが神、わが神」と、神を呼んでいる言葉です。十字架の下にいた人たちは、この言葉を聞いて「エリヤさん、エリヤさん、どうしてわたしを見捨てたのですか」と聞き間違えたのです。「エリヤ」という名前に聞き間違える可能性があるとすると、「エロイ」と「エリ」とでは、恐らく「エリ」だろうと思います。ですから、主イエスが十字架上でおっしゃったのは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」だろうと言われております。
 十字架の下にいた人たちが主イエスの叫び声を「そら、エリヤを呼んでいる」と聞いた理由は、もちろん聞き間違えだったことが一つですが、もう一つ、もっと根本的な理由があります。それは、旧約聖書の列王記の記事を読むと分かります。旧約聖書の中でエリヤという預言者は、死んでいないのです。列王記下2章11節以下に「彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。エリシャはこれを見て、『わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ』と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた」とあります。預言者エリヤとエリシャが並んで歩いている時に、「火の戦車が火の馬に引かれて現れ、エリヤを乗せて天に上って行ってしまった」と言われています。エリヤの地上での生涯は、旧約聖書の中ではこのように書かれているのです。ですから、エリヤは死んでおらず、生きたまま天に引き上げられたということになります。そのために、ユダヤ人たちの間では、「天上に引き上げられたエリヤは、今どこにいるのだろうか」ということが、常に関心事だったのです。聖書には「天に上げられた」としか書いてありませんから、「天のどこにいるか」を議論したところで結論が出るはずはありません。しかし、想像逞しくして話し合っているうちに、「エリヤは何百年も経った今も天上で生きているに違いない。そしてイスラエルが本当に危機を迎えた時に、あるいは誰かが命がけで助けを求める時には、エリヤが天から降りてきて助けてくれる」という、まことしやかな話も伝えられていました。
 それで、十字架上で大変苦しい状況にいるイエスが、「助かりたいと思って、エリヤを呼んでいるのだろう」と人々は考えたのです。主イエスの言葉を聞き間違えて誤解した人たちは、この主イエスの叫びが「自分の命を救いたい」という主イエスの願いの叫びだと思ったのです。

 けれども本当のところ、この主イエスの叫びは、一体どのような叫びだったのでしょうか。これは、辛く苦しい絶望の叫びなのでしょうか。それとも神への信頼の表明なのでしょうか。アラム語だったかヘブライ語だったかは別として、その言葉の意味は、34節「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉です。マルコによる福音書によれば、主イエスが十字架の上で息をひきとる前、一番最後に声高く叫ばれたのは、この言葉です。「わたしは神から見捨てられている」と、まるで断末魔のようにお叫びになったのだと言われています。
 そうであれば、主イエスはずっと神に信頼を寄せて歩んできたのに、最後の最後のところで「神から見捨てられた」という苦い思いを持って、「裏切られた」という恨みの思いを持って死の中に入っていかれたということになるのでしょうか。仮に、もしそうだとすれば、この主イエスの言葉は、サタンに対する敗北の宣言だと言ってもよいでしょう。
 4つの福音書を読みますと、サタンは、繰り返し主イエスに誘惑を仕掛けますが、そのサタンの誘惑は常に十字架の時を指差しながら仕掛けられます。
 一番最初の誘惑は、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた直後です。洗礼を受けられた時、主イエスは、人間たちの間で人間たちと同じように歩み、そして救い主としての働きをしていくのだと自覚なさいました。その直後に、サタンがやって来て誘惑を仕掛けたことがマルコによる福音書の冒頭に記されています。1章13節に「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」とあります。マルコの記事は、マタイやルカに比べると大変簡潔です。どんな誘惑をお受けになったのか、一切語られません。詳しいことは一切述べられていないのですが、しかし、この時のサタンの誘惑は「野獣によって行われた」と言われています。つまり、野獣の牙や爪によって「お前を引き裂くぞ」という脅しを与えながら行われたのです。「引き裂かれる」という痛みから「十字架に架かると酷い痛みだぞ」と想像させ、主イエスが十字架に向かって行く救い主として歩み始められたその時に、十字架への道を断念させようとする、それが最初の誘惑の出来事です。
 2度目の誘惑は、マルコによる福音書を読み進めた先ですが、フィリポカイサリアの途上で弟子たちが主イエスのことを初めて「あなたは救い主、メシアです」と告白した、その直後です。マルコによる福音書8章31節から33節に「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」とあります。主イエスがご自身のことを「十字架に向かう救い主である」と言い始めると、弟子たちが「そんなことはあってはならない」と、人間の情で主イエスを説得しようとします。主イエスはそういう弟子たちに向かって「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われました。

 主イエスは、「神の御心に従う」ためには、ご自身が引き裂かれる痛みも耐え忍ぶし、弟子たちの人間的な情からの引き留めも顧みずに、十字架に向かって進んで行かれました。そして、そのような主イエスが、今、十字架に架かっておられるのです。どんな時、どんな場合にも、神がご自身の最も大切な方であると考え、神がご自分を保護してくださる、導いてくださる、進むべき道を示してくださると信じて、主イエスはここまで来られました。ところが、今、十字架上で主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。あなたが十字架まで導いてくださると信じ、当然そこにもあなたがいてくださると思っていたのに、最後の最後に、あなたはわたしを見捨てている」とおっしゃっているのです。
 この主イエスの言葉について「まるでこれは、誘拐された子供が、自分が誘拐されたことに気づいた時に上げる叫びのようだ」と、面白いことを言う人もいます。「きっと神さまが一緒にいて道を備えてくださって、手を引いてくださるに違いないと思って、無邪気にここまでやって来た。しかし、ふと気づくと、この先にはもう道が無くなっている。それどころか、足元にも道がなく、奈落がずっと口を開いていて、そこに落ちている自分がいる」。「誘拐された子供の叫び」とはそういうものではないかと言っています。確かにそのように読めなくもありません。
 サタンはこれまで、神の御心に従おうとする主イエスの歩みを逸らしてしまおうとする誘惑を仕掛けました。「神に従うと、とても痛い目に遭う」と脅したり、「先生がいなくなったら困ります」という弟子たちの親愛の情を使ったりしながら、何とかして神と主イエスとの間を裂こうとしていました。ところが、遂にここに至って、主イエスがもはや無邪気に神に信頼できない状況にまで追い込むことに成功しているのです。神への信頼を見失ったかのように、恐怖と絶望の叫びを上げられる主イエスがここにおられます。サタンは最後のところで、主イエスと神との強い結び付きを断ち切ることに成功して、主イエスを手の内に収めたと言えるのでしょうか。

 しかし主イエスはまさに、こういう形で、こういう仕方で、神に対する信仰の歩みを最後まで歩き通しておられるのです。サタンが主イエスと神との信仰による結び付きを壊すことができたと思ったのは、そもそもサタンが、神への信仰の何たるかを知らないからです。
 信仰とは、どういうものなのでしょうか。私たちもそれぞれに、神から信仰を与えられていますが、私たちの信仰とは、岩のように不動のものなのでしょうか。あるいは、彫刻のようにいつでも美しく同じ形をとどめているようなものなのでしょうか。少なくとも、人間の信仰は違うと思います。どなたもそうだと思いますが、いつでも気持ちや思いがくるくると変わって、決してひと所に留まっていない、そういう面があります。そして、私たち人間の信仰とは、まさに、移ろいやすい人間の命の中に場を持っているのです。
 信仰とは、持ちさえすれば、その人が不死身になるというわけではありません。信仰者であっても生身を引きずって生きています。生身を引きずっているという点では、信仰を持たない人たちと何ら変わりはありません。例えば、圧迫されたならば、信仰者であっても苦しみを感じるし、傷つけられれば痛みを感じ、血も流します。「自分の命を最後まで神に委ねる。神に信頼して生きて行く」としても、それでその人がもはや、どんな痛みにも苦しみにも耐えられる、そういうことを一切感じなくなるのかと言えば、そんなことはないでしょう。そういう意味で、信仰とは痛みを感じさせなくするアヘンやモルヒネとは違うのです。

 死を迎える時、私たちは愛する者たちと手に手を取って一緒に死の中に入っていくのではありません。私たちは皆、一人で生まれてきたように、死んでいく時は一人で死んでいくのです。そういうことですから、死の時というのは、当然、どなたの死であっても孤独と絶望が襲ってくるようなところがあります。主イエスの場合には、ご自身の死の苦しみはもちろんのこと、それに加えて更に、すべての人間の罪の深さ、重さ、大きさというものが、その上にのしかかっているのです。
 このように重苦しい中で死を迎えるということは、主イエスがヨハネから洗礼を受けられて、罪ある人間の列に立たれた時に、もう既に決まっていました。主イエスは「十字架に架かる救い主」として洗礼を受け、救い主としての生涯を歩んで来られたからこそ、今まさに、神から遠く隔てられ、絶望を叫ばざるを得ないのです。主イエスは、今ここで真に孤独に、絶望の淵の中に沈み込んで行こうとしています。自分は今、絶望している。見捨てられている。そう叫びながら、なおそこで、神に取りすがろうとしているのです。
 この時、主イエスは、人間の分厚い罪の雲に隔てられたために、完全に神を見失うという状況の中に置かれています。主イエスは深い孤独と恐れと絶望の中に置かれていますが、しかし決して不信仰ではないのです。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ぶ主イエスは、そういう姿で人生の最後の時を過ごしながら、しかし実際には、そういうあり方で神に一番近い所におられるのです。

 マルコによる福音書が語る主イエスの死は、本当に壮絶だと思います。他の福音書のように和らげることを一切していません。主イエスが本当に深い孤独の中で、神からも見捨てられた者としてその生涯を閉じたのだということをはっきりと語ります。しかし、主イエスがこれほどまでに絶望を深くして死の淵に沈んで行ってくださったことが、逆に、私たちにとっては幸いなことなのです。どうしてでしょうか。私たちが自分自身の地上の生活を終える時に、今は「神がおられる」ことを分かっていても、人生の最後の本当に苦しい悲しい時に「神がおられる」と思えなくなってしまうかもしれないからです。ただただ不本意な思いと絶望しかない、そう思うような死の時を迎えることになるかもしれません。けれども、それでもなお、私たちには、十字架で苦しみながら地上の最後を遂げてくださった主イエスが共にいてくださるのです。十字架上で神に呼ばわっている主イエスに、私たちは、なお、取りすがることが許されているのです。
 主イエスの言葉を聞き間違えた人が考えたように、エリヤはこの時、現れませんでした。けれども、エリヤが来なかったことが正しいことなのです。もしここでエリヤが現れて、主イエスが十字架の死から助けら出されでもしてしまったら、私たちには逆に、最後の時に取りすがるお方がいなくなります。主イエスは、私たちが経験する最も深い絶望と最も深い悲しみ、死の苦しみを、生身を持って経験されました。そして、最後まで信仰を持ち続けて、死の中に赴いて行かれました。主イエスは、そういう死の迎え方をなさったのだと、マルコによる福音書は伝えています。そして私たちは、そういう主イエスの救いの御業の中に置かれているのだと、聖書は語っています。

 主イエスはこのように壮絶な死を迎えられましたが、これは実は、主イエスがヨハネから洗礼を受けた時に既に定まっていたことだと、先ほど申しました。主イエスの十字架までの道のりが、公生涯の一番最初の時から既に真っ直ぐに引かれているのです。マルコによる福音書1章9節から11節に「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。主イエスがヨハネから洗礼を受けられて、公生涯に歩み出された時、そこで何が起こったでしょうか。大変簡潔に書かれています。「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」とあります。「天の底が裂けて、そこから地上に霊が降ってくる」というのは、天と地の隔たりが破られるということです。そして、神の働きを地上において見ることができるようになるということです。
 天と地の隔てが無くなって交流が生まれる。神の御業が地上に始められる。そして、そこでは同時に、神の声も聞くことができるようになるのです。「『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。主イエスが公生涯に入られた時、天と地の隔てが破られ、そして「主イエスは神の愛する独り子である」ことが宣言されたと言われています。
 ところが、この出来事が実は、主イエスが死を迎えた、まさにその時、そこでも起こっているのです。マルコによる福音書15章38節39節に「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」とあります。「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」、実はこれも、天と地の隔てが裂けたことを表しています。普通ユダヤ人たちは、垂れ幕に閉ざされているために、神殿の中まで見ることはできないのですが、この幕が真っ二つに切って落とされたことで、神殿の奥まで、つまり神を礼拝する至聖所の中まで見通せるようになったのです。それは、神と人間との間の隔てが取り去られたことを表しています。
 そして、主イエスが息を引き取った時に、しかも大変壮絶な仕方で息を引き取られた姿を見た時に、「本当に、この人は神の子だった」、つまり「この人は神の子です」という証言が、ここに生まれております。
 主イエスが公生涯を歩み始めた日に、天の底が裂けて、そこから声が聞こえてきて、「あなたはわたしの愛する子だ」という宣言がされました。そして、主イエスがこの地上での生涯を全て終えられた時、やはり同じことが起こっています。神殿の幕が引き裂かれ、天と地は一つに結ばれ、そして、天からの声は、今度は地上で受け止めるようにと、「本当に、この人は神の子だった」という人間の言葉が語られました。

 主イエスはこのように公生涯を始められ、今、その生涯を終えられたのだと聖書は語っております。
 そして、そういう救い主が「どんな時にも私たちに伴ってくださる」と、聖書は語っています。主イエスは完全な孤独と絶望のうちに生涯を閉じられたのですから、大変気の毒な一生だったように思うかもしれません。しかし実は、その主イエスの歩みによって、神殿の垂れ幕が引き裂かれ、天と地が結び合わされ、そして、天からの宣言が地上でも聞かれるようになるのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの言葉に対して「本当に、この人は神の子だった」という言葉が、地上でも語られるようになるのです。

 さて、主イエスの公生涯においてこのようなことが生じているのだとすれば、私たちの場合にはどうなるのでしょうか。私たちの信仰は、決して不動のものではありません。永遠に変わらない美しさを持っているのでもありません。始終気が変わり、あやふやになったり覚束ないところを持ちながら、しかし、私たちが生身を引きずって暮らしているこの体の内に、私たちの生活の中に、信仰が与えられています。そして、そのために私たちの信仰は、体が傷つけられたり圧迫されるに従って、揺らいでしまうこともあるのです。けれども、そういう信仰を与えられながら、私たちが苦しめられると時に、「どうか弱いこのわたしをお守りください、お救いください」と祈って、それどころか、「わたしは見捨てられています」とさえ祈ることが許されているのだと言ってよいと思います。
 そして、そういう歩みをする私たち一人一人に、天からの声があり、宣言がされているのです。「これは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」。私たちは、この地上において大変覚束ない、たどたどしい歩みをしている信仰者かもしれません。しかしそういう私たちに対して、「あなたは、わたしの愛する子らの一人であることは間違いないのだ」と、私たちに対しても天から語りかけられているのです。私たちは、そういう天から語りかけられている言葉に対して、声を揃えるようにして、地上で精一杯叫びたいのです。「そうです。あなたは私たちに独り子を送ってくださり、私たちを招いてくださいました。そして、わたしもあなたの独り子に連なる子らの一人に加えてくださいました」と、私たちは、この地上で、今日与えられている命を感謝して、精一杯、神を賛美しながら生きる者とされたいと願うのです。
 十字架の死を遂げてくださった救い主に感謝をして、そして、この方に信頼し、従う生活を強められていきたいと願います。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ