2017年3月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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裁判 | 2017年3月第3主日礼拝 2017年3月19日 |
宍戸俊介牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第15章1節〜15節 | |
15章<1節>夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。<2節>ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。<3節>そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。<4節>ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」<5節>しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。<6節>ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。<7節>さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。<8節>群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。<9節>そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。<10節>祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。<11節>祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。<12節>そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。<13節>群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」<14節>ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。<15節>ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。 |
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ただ今、マルコによる福音書15章1節から15節までをご一緒にお聞きしました。1節2節に「夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』と答えられた」とあります。 主イエスを有罪と裁いて処刑することを決めた裁判は、マルコによる福音書によると3回開かれたことが知られています。第1回目の裁きは木曜日の夜、主イエスが逮捕されて間も無く開かれました。逮捕自体が、日が暮れて夕食を摂った後のことでしたから、当然のこと、第1回の裁判は夜間に開かれたことになります。そして、そこでまず「死刑」が宣告されました。今日は読みませんでしたが、14章63節64節にその場面が語られています。「大祭司は、衣を引き裂きながら言った。『これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。』一同は、死刑にすべきだと決議した」とあります。これは、大祭司の屋敷で開かれた最高法院の会議です。最高法院が、非公式に夜間に召集されたわけですが、実は最高法院というものは、夜間に会議を召集することも夜間に判決を下すことも禁止されていたと言われています。夜間は暗闇の力が勢力を増す時であり、多くのユダヤ人たちが知らないところで一握りの人が物事を決することは神の御心に適わないと考えられており、「夜間の裁判はあってはならない」とされていました。ところが、主イエスの敵対者たちは、まさにその禁じ手である夜間の会議を開いて、主イエスを有罪とし死刑判決を下します。ゲツセマネの逮捕から恐らく10時間足らずのうちに、この判決が下されているのです。 さてここには、「主イエスを十字架刑にしてもらうためにピラトに引き渡した」と言われていますが、この時に、主イエスの敵対者たちは、ある「ごまかし」を行いました。それは、主イエスを死刑にする理由、口実を、前夜と少しだけ変えたのです。第1回目の死刑判決の理由は何であったか、14章61節62節に「しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。そこで、重ねて大祭司は尋ね、『お前はほむべき方の子、メシアなのか』と言った。イエスは言われた。『そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。』」とあります。それは主イエスご自身が「自分はメシアである」と認め、「神の右の座に着く者だ」と言われたこの発言が、神を冒涜しているというものでした。この言葉を決め手として、63節に「大祭司は、衣を引き裂きながら言った。『これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。』一同は、死刑にすべきだと決議した」と言われています。ですから、主イエスが最初の裁判で有罪にされ死刑が確定する理由というのは、宗教的な理由です。 宗教的な理由と言っても、主イエスはまさにご自身が神の独り子、救い主メシアなのですから、「お前はメシアなのか」と尋ねられて、主イエスが「そうです」と答えても、「わたしは人の子であって、神の右に座する者だ」とお答えになっても、それは本当のことであって、汚し事は何も言っておられません。けれども、主イエスをメシアだと認めない人たちにとっては、主イエスがおっしゃったことは並外れて尊大な汚し事だということになるのです。そしてそれ故に、主イエスは死刑に相当すると判断されたのです。ですから、最高法院の死刑判決の理由は、主イエスがご自身を神と並ぶ者と称した神冒涜という宗教的な理由です。 このように最高法院ではそういう判決が下ったのですが、ピラトが総督を務めているローマ帝国当局は、ユダヤ人の宗教的な事柄には一切立ち入った判断をしないのです。財産が奪われたり人命が損なわれたりする世俗的な事件や、あるいはローマ帝国に対する謀反の企てに対しては容赦なく裁判を行いますが、ユダヤ人同士の宗教的な事柄についてはユダヤ人の中でというのが、ローマ帝国のスタンスです。しかし、ユダヤ人の最高法院は、処刑する権限を持っていません。ですから、最高法院が前の晩のままの判決をピラトのもとに持って行き、「この人は神を冒涜したから死に値する。だから処刑してくれ」と訴えても、ピラトはそれを関知せず、受け付けないのです。宗教的なものはピラトの法廷にそぐわないとして、門前払いされる可能性が多分にありました。 ピラトが最高法院のこの訴えをどこまで真剣に受け止めたのかについては、はっきりしませんが、実際に連れて来られた主イエスを見て、ピラトはさほどの恐れも脅威も感じなかったらしいことは2節の言葉から分かります。2節に「ピラトがイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』と答えられた」とあります。目の前に連れて来られた主イエスにピラトは目を注ぎます。人々はいろいろと罪状を述べ立てますが、ピラトにはどうも合点がいきません。縄を打たれた貧相な若者が、本当にローマ帝国への反逆、転覆を企てている人のようには思えないのです。ピラトも飾り物のような無能な総督ではありません。ピラトはピラトなりに、エルサレム各地に協力者を持ち、ピラトなりの情報網を張り巡らしています。そういうピラトの情報源によれば、この日の時点で、暴動が起こりそうな深刻な兆しはどこにもありませんでした。深刻な兆しがないからこそ、ピラトは今、エルサレムにいるとも言えます。私たちは、裁判がエルサレムで行われていますからピラトはエルサレムにいると思っていますが、ピラトが普段暮らしていたのは海沿いの港町カイサリアの駐屯地です。過越祭のようにユダヤ人たちが集まってくる時期になると、そこで不測の事態が起こらないように、兵隊を連れてエルサレムまで出張してきている、それがこの時のピラトです。ここでピラトのもとに連れて行ったというのは、ピラトの宿泊先ですが、そんなことができるのは、不穏な動きの情報がないと判断しているからです。ユダヤ人が何万と集まっている中に、武装しているとしてもピラトが連れて行けるのはたかだか数千の兵です。数千の兵で神殿の警備をしていたとしても、もしそこで暴動でも起ころうものなら、その兵力では太刀打ちできるはずがありません。ですから、ピラトはせいぜい警備のようなつもりで来ており、暴動が起こるとは考えていないのでエルサレムにいるのです。この時点でピラトは、不穏な気配を感じていません。もし、祭司長たちが主張するような謀反の企てがあったとすれば、ピラトはこのように易々と無防備にユダヤ人たちの前に現れたりはしないのです。 それで、ピラトは主イエスが謀反の首謀者だと言って連れて来られても、簡単には同意しませんでした。取り敢えず、自分で尋問します。そして、この尋問によってピラトは、いよいよ謎を深めることになってしまいます。 ピラトにはそういうことが分かっていますから、現在の立場がイエスという男にとって大変不利であることを分からせようとして、更に尋問します。3節から6節に「そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。『何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。』しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った」とあります。ピラトは、この時のイエスの有り様を本当に不思議に思いました。しかし恐らく、不思議に思うのはピラトだけではないだろうと思います。私たちも不思議に思うのではないでしょうか。一体どうして、この重大な局面で、主イエスはご自分の立場を主張なさらないのでしょうか。 主イエスがそのように「神の御心に従おう」という思いを持つことができた理由、それは「主イエスが神の独り子であって、主イエスの中に神の霊が宿って、神の御心を正しく弁えている」ということがあったからです。「主イエスの中に神の霊が宿っている」ということは、かつて、ヨルダン川で主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたその時に、証しされていたことでした。マルコによる福音書1 章9節から11節に「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とあります。主イエスがヨハネから洗礼をお受けになって、そこから主イエスの公生涯が始まります。公生涯の最初のところで、主イエスはご自分の上に「聖霊が働いている」ことを自覚しておられたと語られています。「自分は聖霊の働きによって動かされている。自分は神の霊に従って生きていく」と自覚しておられ、この時以来、主イエスは、ご自身の思いに従って生きるのではなく、聖霊の示しに従って神の御心に適うことを行おうとして歩んで来られたのです。考えてみますと、主イエスのゲツセマネの祈りは、「公生涯の始まりに示された歩みを最後まで貫けますように」という祈りを与えられた出来事だったと言ってよいと思います。 しかし、こういう主イエスの救いが本当のこととして実現していくためには、どうしても避けて通れないものがあるのです。それは何か。たとえ主イエスが人間の身代わりに罪を引き受けて十字架に架かられたとしても、もし私たちが「自分には関係ない」と思っていたとすれば、私たちは結局、主イエスの十字架と何の関わりもないまま生きてしまうことになります。「あの十字架に架かった主イエスこそ救い主であって、このわたしの罪を十字架の上で背負ってくださったのだ。わたしの代わりに十字架に架かって死んでくださった。だから、わたしは今ここで、主イエスによって赦しを与えられて生きている」、このことをもし信じないならば、救い主としての主イエスの御業はただの犬死になってしまいます。「主イエスこそが自分の救い主であると信じる」ことが、主イエスの御業には必要なことなのです。 さて、ピラトに対して主イエスがこのようにお答えになったのだと聖書から聞かされるのであれば、私たち自身はどうなのでしょうか。私たち自身も主イエスに向かって「あなたはどなたなのですか」と尋ねる時があるかもしれません。 主イエスは私たちのために、洗礼者ヨハネから洗礼を受け、私たち人間の只中に立ってくださいました。疑いを持ったり、苦しんだり悩んだりする、そういう人間の列の中に、主イエスも共にいてくださり、そして「共にある方」として私たちを導こうとしてくださるのです。私たちが鮮やかに「十字架の主イエスこそ、私たちの主です」と言える時だけの「主」なのではありません。私たちが悩んだり、傷ついたり迷ったり苦しんだりする時に、「主イエスよ、あなたがわたしの主なのですか」と尋ねる中に、主イエスは「わたしは、あなたがそう言っているのを聞いているよ」と言ってくださるのです。 主イエスは、ピラトが再び尋ねた時には、「もはや何もお答えにならなかった」と聖書は語っています。ピラトは、主イエスに本当に救い主を見出そうとしていなかったために、この主の沈黙の意味が分からず、不思議に思うだけで終わってしまいました。しかしこの沈黙は、私たちが主イエスに対して信仰を言い表すために、主イエスが黙っておられる、そういう沈黙なのです。主イエスが黙られる時に、私たちは、自分自身が様々に悩んだり疑ったりしながらも、しかし「主よ、わたしはあなたに呼びかけます」と言い、そして「あなたこそが、わたしの主です」と言い表すことができます。主イエスは、私たちのこのような信仰の言葉を、ご自身の言葉で埋めたりなさらないのです。私たちがそれぞれに、疑いを抱えながらも、迷いを抱えながらも、「今ある姿で主イエスに信頼を寄せていく」、そのようなあり方を喜んでくださいます。私たちが負っている罪を主イエスが背負ってくださって、十字架で清算してくださるのです。 |
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