聖書のみことば
2017年3月
  3月5日 3月12日 3月19日 3月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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3月12日主日礼拝音声

 弟子の裏切り
2017年3月第2主日礼拝 2017年3月12日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第14章43節〜52節

第14章<43節>さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。<44節>イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。<45節>ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。<46節>人々は、イエスに手をかけて捕らえた。<47節>居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした。<48節>そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。<49節>わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」<50節>弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。<51節>一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、<52節>亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。

 ただ今、マルコによる福音書14章43節から52節までをご一緒にお聞きしました。主イエス・キリストが十二弟子の一人であるイスカリオテのユダに裏切られ、敵の手に落ちてしまうという、非常に深刻な出来事を伝える記事です。聖書はこの出来事をどのように伝えるのでしょうか。私たちはここから何を聞かされることになるのでしょうか。今日も最初から順々に聴きます。

 まず43節に「さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た」とあります。主イエスが話しておられるうちに、イスカリオテのユダが群衆を引き連れて登場します。一方にはまだ語っておられる主イエスがおられ、もう一方にはその主イエスを捕らえようとする群衆がユダに導かれております。この節には、当然この場にいたはずの弟子たちの姿は出てきません。直前に記されていたゲツセマネの祈りの記事からすれば、当然、弟子たちはこの場に居合わせたに違いないのですが、この43節では、その姿はまるで書き消されたように見えなくなっています。この後、弟子たちが登場するのは47節で、弟子の一人が捕り方の一人に短剣を抜いて斬りつけるという場面と、50節では弟子の全員が主イエスを見限り見捨てて逃げてしまう、そういう登場の仕方です。そして最後に、これはマルコだろうと言われていますが、一人の若者が裸で逃げて行ったと出てきます。けれども、43節から46節までの、ユダが現れ主イエスが捕らえられてしまうという最も重大な場面には、弟子たちは一切出てきません。ですから、今日の箇所は絵画に例えるならば、描かれた絵の中心はユダと主イエスと捕り方の群衆です。そしてその周囲、絵の遠景に当たる場所で弟子たちが剣を抜いたり逃げ散ったりしている、そういう語られ方です。

 マルコによる福音書が主イエスの逮捕について語っていること、それは何よりもまず、主イエスとユダと群衆の姿です。そして、その中でもひときわ大きく描かれているのは、主イエスとユダの姿です。主イエスはまだ話しておられます。ところがそこに、ユダが群衆を伴って現れ、主イエスに手をかけて捕らえます。主イエスが捕らえられてしまうと、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ散ってしまいます。もはや、主イエスの言葉に耳を傾ける人たちはいなくなります。そして、主イエスの口は封じられていきます。ですからここでは、語っていた主イエスの口を封じる者としてユダが登場していることになります。主イエスの口を封じ、力づくで黙らせてしまう、そういう側の先頭に立つユダは、「十二人の一人であるユダ」であったと書かれています。「十二人の一人」という言い方は、一体何を言っているのでしょうか。言うまでもないことですが、「十二人」は12弟子のことです。
 主イエスの弟子は12人しかいなかったわけではなく他にも大勢いましたが、その中から主イエスが特に選び出して目をかけ、どこに行くにも親しく御側に置いておられたのが12弟子でした。そのうちの一人だったユダが裏切ったのです。ですから、多くの注解書を読みますと、「十二人の一人」という言葉の注解としては、ここには非難の気持ちが込められているのだと言います。つまり、「この12人は普段から、とりわけ主イエスに目をかけられ、深く愛されていた存在だった。にも拘らず、ユダは裏切ったのだ」というニュアンスが込められていると言われます。確かに、そういう非難がましい思いも込められているかもしれません。しかし、よくよく聖書が語っていることを確かめながら考えますと、「十二人の一人」という言葉には、単なる非難よりも、もう少し深い意味があるように思います。それは、実際にこの時主イエスを裏切ったのはユダですが、しかしもしかすると、この役割を他の弟子たちが果たしたかもしれないからです。もしかしたら、ペトロやヤコブがその役割を果たしたかもしれないし、あるいは主イエスが最も愛していた弟子と言われるヨハネもまた、間違ってそうしてしまったかもしれないという、そういう意味で「十二人の一人」という言葉がわざわざここに書き込まれているのかもしれないと思うのです。

 なぜそんなことを言うのかと訝られる方もおられるかもしれません。裏切らなかった11人の弟子と裏切ったユダを一緒にしては失礼だと思われるかもしれません。けれども、こう言いますのにも理由があるのです。「十二人の一人」と言われていますが、この12人は「11人の主イエスに忠実な弟子たちと1人の裏切り者」として綺麗に分けることができるのでしょうか。聖書はどう語っているでしょうか。確かめる必要があります。聖書の様々な箇所を読んでいますと、どうやら12人が12人とも弱さを持っていて、主イエスを裏切るかもしれない、そういう心許なさを持っていたということが示されてきます。
 それがよく分かる光景があります。それは、主イエスと弟子たちがこの場所にやって来る直前で、最後の食事、過越の食事を主イエスが弟子たちと共にした、その後の場面です。食事を終えた主イエスが12弟子を前にして「あなたがたの中に、わたしを裏切ろうとしている者がいる」とはっきり言われました。ところがその時に、12の弟子たちは、イスカリオテのユダはもちろん自分の裏切りを言い当てられて動揺したに違いありませんが、しかし他の弟子たちは「何を言っているのだろうか」と不思議に思ったのではありませんでした。「もしかすると、それは自分のことを言われているのではないだろうか」と、12人が12人共、不安を感じたと書かれています。14章18節19節に「一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。』弟子たちは心を痛めて、『まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた」とあります。弟子たちが「まさかわたしのことでは」と言ったということは、「自分は主イエスを裏切らない」ということについて一抹の不安を覚えていたということです。そしてこのことは、十字架の出来事が終わった後、主イエスがお亡くなりになって甦られた後でも、同じようなことを、ペトロがユダについて語っている口ぶりからも窺い知ることができます。使徒言行録1章16節以下に「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました」とあります。主イエスがユダに裏切られて十字架にお架かりになった、その後でペトロが言っています。「あのユダはわたしたちの仲間の一人であって、同じ任務を与えられていた兄弟弟子です」。原文では、もっとはっきりした言い方になっています。「ユダは自分たちの仲間の一人だった。そして、くじ引きした結果、この役割が当たったのだ」。ペトロからしますと、「ユダは嘘つきの裏切り者であって自分たち11人とは明らかに違う異質な者だ」とは全然思っていません。むしろ、エルサレム神殿の祭司たちがその日の務めをするに際して毎日くじ引きで役割を割り当てられていたように、「たまたまイスカリオテのユダが、くじ引きでその役割に当たったので裏切ったのだ」と言わんばかりの口ぶりなのです。
 ですから、もしイスカリオテのユダが裏切らなかったらどうなっていたか、恐らく、その裏切りはユダ以外の弟子がしたのではないかと、ペトロは思っているのです。「十二人の一人であるユダ」という言葉には、そういう含みがあります。イスカリオテのユダだけが弟子の中の出来損ないのような言い方をすることは、聖書が語っていることからすると当たりません。言うならばユダは、弟子たち全員の中にある「他人を裏切ってしまうかもしれない性質」を、この時、身を以て現しただけなのです。ユダでなければ、ペトロか、あるいはヨハネ、ヤコブ、その他の弟子だったかもしれません。弟子の全員が「主イエスを裏切る」という弱さを抱えていたのです。

 そうであるとすると、事は12弟子だけの話では済まなくなります。およそ主イエスに関わりを持って、主に従っていこうとする者は皆、主イエスを裏切るという危険性を自分自身の中に孕んでいるということになるのではないでしょうか。私たちは、聖書の中で主イエスへの裏切りの出来事を聞きますから、自分からは遠く隔たった2000年前のあの日あの場にいた人たちの中で起こったことだと思っています。そしてそれは、2000年後の私たちには関係のないことだと感じています。けれども聖書が「実際に裏切ったのはユダだけれども、裏切りの可能性は他の弟子にもあったのだ」と言っているとすれば、2000年の隔たりがあるから私たちは安全だということにはならないでしょう。私たちは今、たまたま、主イエスの周りにいる弟子たちの中にいないだけであって、もしその場に居合わせたならば、私たちも主イエスを裏切ってしまう、あるいは、「主イエスとは関わりがない」と言って逃げ散ってしまう、そういう一人になってしまうかもしれません。どんなに熱心な、どんなに敬虔な人であっても、実際に目の前に剣が突き出されたり、迫害や困難が自分の身に及んでくると思う時には、もしかすると、主イエスを裏切り、主イエスを見限って逃げ散ってしまうかもしれない、そういう弱さを例外なく抱えているのです。
 「自分は決してユダのようにはならない」と思う方がいらしたならば、本当にそうであればよいと思います。ここにいる人の中で「自分はユダのようになりたい」と思う人は誰もいないでしょう。「ユダのようにではなく、この地上の生活を最後まで主イエスと親しく歩みたい。主イエスに支えられて、この生涯を歩み通して、地上の生活を終える時には、『善かつ忠実な僕よ、よくやった』と主イエスから労いの言葉をいただきたい」と思っている方が多いことでしょう。
 けれども、そういう気持ちというのは、もしかすると、イスカリオテのユダも持っていたのかもしれません。そして、ユダも気づかないうちに、悪魔にそそのかされて主イエスを裏切ってしまったのかもしれません。私たちが皆裏切るかもしれないという危険性を持っているのだとすれば、今日の箇所を聞きながら、いたずらにユダに対して憤ったり、自分とは異質な人間だと思って責める前に、まずここで、ユダがどのようにして裏切りに陥っているかということを聴くことが大切だと思います。

 ユダが犯してしまった裏切りとは、実際のところ、どういう裏切りだったのでしょうか。ユダはどんな振る舞いをしているのでしょうか。ユダがどのようにして主イエスを裏切ったのか。44節45節に「イエスを裏切ろうとしていたユダは、『わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け』と、前もって合図を決めていた。ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、『先生』と言って接吻した」とあります。「接吻」つまり「キス」によって、ユダは主イエスを裏切りました。
 「接吻」をもって挨拶するという習慣は、日本ではありませんが、欧米ではあるようです。主イエスと弟子たちが暮らしていた2000年前のユダヤでも、弟子が先生に敬意を表す手段として、日常的になされていたようです。そうだとすると、実はユダは、裏切りのまさにその瞬間に「主イエスに対する尊敬の思いと親しい交わりがそこにある」ということを態度で示していたということになるのです。ユダは、自分で裏切っていながら、しかし、主イエスとの親しい間柄、関わりを失いたくなかったのです。意外に思われるかもしれません。しかし、事実はそうなのです。
 主イエスを捕らえる時、捕らえるべき目標の人物があの人だと指し示すのは、
その方法として「接吻」しかなかった、ということがあるはずがありません。物陰から「あれが主イエスだ、捕らえよ」と合図をしても良かったはずです。ところがユダは、そういう方法を取りませんでした。ここには、本当に悲惨なユダの姿があります。ユダは、たとえ主イエスが捕らえられるとしても、最後の最後まで普通の弟子と先生という間柄のままでいたかったのです。そして捕り方が来て主イエスを捕らえる出来事を、いわばハプニングのように装いたかったのです。「わたしは先生の元に普通に戻って来ました。そして先生と親しく交わりを持とうとしました。ところが気づかないうちに尾行されていたようです。大勢の捕り方がわたしの後からやって来て、わたしが先生に挨拶した途端に、先生は捕らえられてしまいました」、これがユダの描いている絵です。ユダの思いからすれば、主イエスに心からの信頼と敬意を寄せるごく普通の弟子のままでいたかったのです。そういう思いはありながらも、しかし、その思いとは裏腹に、現実にユダがやっていることは何か。これは明らかに申し開きのできないほどに主イエスを裏切っているのです。
 「ユダは主イエスを裏切った」と一般的に言われます。けれども同時に、ユダは「自分自身の思い、自分自身の願いも裏切っている」ということになるのです。惨めで哀れなのは、自分がそういう有様であることに気づけないということです。そして、そういうことは、私たちが自分自身を振り返ってみますと、私たち自身にもあるのではないかと思います。
 そもそも「裏切り」というのは、成功しても失敗しても、それまでに築き上げて来たお互いの信頼関係が全て崩壊してしまうような行いです。裏切りは、裏切られる側にとっては、「人間とは本当に恐ろしい者だ。悲しくて哀れな者だ」ということを痛切に感じざるを得ない、そういう出来事です。しかし、往往にして裏切る側は、そのことに気づかないものです。思い至らない。だからこそ、実に大胆に裏切るということが出来るのです。この時のユダがそうでした。実際には、自分が主イエスを裏切って、捕り方を誘導して、その先に十字架の死という重大な結果を導いておきながら、しかし、ユダ自身は、主イエスとの「弟子と先生」という関係を続けられると思い込んでいるのです。

 しかし聖書は、「それはユダだけのことではなかった」ということを伝えています。他の弟子たちも同じだったと書いてあります。他の弟子たちについてはどう書いてあるでしょうか。主イエスが捕らえられてしまうと、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように一目散に逃げ散ったと書いてあります。主イエスが本当に助けを必要としている最も心細い時に、自分たちは自己保身だけを考えてその場から逃げ去る、やはり裏切っているのです。ところがやはり、自分が裏切っているということに気が付けません。ただ夢中に生きてしまう。夢中に逃げてしまうのです。結局、本当に心細い思いの中で敵の手に落ちた主イエスのもとに、この時、踏みとどまった弟子はいませんでした。ここに書かれているのは、2人の例外的な姿です。一人はパニックを起こして捕り方の一人に斬りかかり、その片耳を切り落としました。また別の弟子はどうしたら良いか分からずに、亜麻布を纏って付いて行ったものの、捕らえられそうになると裸になって逃げました。それは決して、主イエスの元に踏みとどまっている姿ではありません。どうしたら良いのか分からなくなって、オロオロして、行動を起こしてみたものの、結果的には何の役にも立たないことをしただけだったのです。

 ところで主イエスは、弟子たちのそういう弱さをご存知です。そして49節で「これは聖書の言葉が実現するためである」と言われました。49節に「わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」とあります。「聖書の言葉が実現する」とは、一体どういうことでしょうか。主イエスは一体この時に、聖書のどこの箇所を頭に思い浮かべながらおっしゃったのでしょうか。
 実は、主イエスは僅か数時間前に、この時のことを予告しておられました。14章27節に「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたは皆わたしにつまずく。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と書いてあるからだ」とあります。49節で「聖書の言葉が実現するためである」と言われている「聖書の言葉」は、この27節で主イエスが弟子たちにおっしゃっていた言葉です。これはもともと旧約聖書のゼカリヤ書13章7節の言葉ですが、そこには、神に立てられた羊飼いが同僚の剣によって倒され、羊の群れが散らされるという預言が語られています。
 主イエスは弟子たちと過越の食事をなさっている時、今からご自身が裏切られることを弟子たちに教えられました。弟子たちはそれを聞いた時に、一様に、「そんなことが起こるはずはないし、起こしてはならない。たとえご一緒に死ななくてはならなくても、決して裏切ったりはしません。従います」と力を込めて言いました。弟子たちの思いとは、本当に、間違いなく、その時には「主イエスに従っていく。裏切るはずはない」というものでした。ところが主イエスは、そういう弟子たちに向かって、「羊飼いが同僚の剣で倒されると、羊の群れは逃げ散るのだ」と教えられました。そして、私たちが今聞いた箇所は、まさにその出来事が起こったという場面です。
 主イエスは弟子たちのことを「あなたがたは羊の群れである」と言われます。羊は、羊飼いが導いてくれなければ、自分から羊飼いを探し求めて付いていくことは大変難しい動物だと言われています。群れから迷い出てしまいそうになると、羊飼いの方で羊の一匹一匹に声をかける、あるいは羊飼いと共にいる犬が吠えて誘導する、そうやって羊は一つの群れになって羊飼いの元に留まっていることができます。
 主イエスは、今まさにこれから十字架に架かり、甦って、そして群れの羊を全て導くために命を捨てなくてはならない。そのためにひと時、弟子たちと別れなければならないのです。ところが弟子たちの方は、自分たちが羊であることを知りません。羊であるという自覚がないのです。まるで自分たちは忠実な番犬だと言わんばかりに思っています。「たとえご一緒に死ななくてはならなくても、必ず付いていきます。あなたを見失うはずがありません。この鼻があなたを覚えています」と弟子たちは言います。けれども実際には、この弟子たちは羊です。番犬のようには付いて行くことができません。
 どうして羊なのか。どうして主イエスに付いて行くことができないのか。それは、はっきりと言えば、一人一人の中に、平気で裏切りを犯してしまうような侭ならないところがあって、自分で自分が何をしたいのか、したい通りに生きていけないからです。

 「羊の群れが、羊飼いが打たれたことによって散らされてしまった。弟子たちが逃げ散った」その時に、消えたものがあります。それは、それまで主イエスの周りで歩んできた弟子たちの交わりです。私たちは、教会の始まりに、ガリラヤ湖で主イエスに呼びかけられて従っていった、とても牧歌的な集団があるとどこかで思っています。けれども、そのように弟子たちの方から付いて行った弟子の集団というのは、主イエスがゲツセマネで捕らえられたこの晩に消え去ったのです。そして、羊の群れは散らされてしまいました。弟子たちは、自分から主イエスに従って行くことはできなかったのです。ユダが接吻をもって「わたしと主イエスとの間には、先生と弟子としての交わりがあります」と主張していた行いが偽りであったように、他の弟子たちの「たとえご一緒に死ななくてはならなくても、必ず付いて行きます」と言ったその言葉も、結果的には嘘になってしまいました。

 主イエスの逮捕の晩の出来事というのは、主イエスの周りに人間の側からの支えや保護が結局何も与えられなかったのだという出来事です。主イエスは、助けてくれる者が誰もいない、そういう状況のまま、裏切られて、敵の手に落ちます。敵は凱歌をあげます。いっとき、暴力が勝利を治めたかに見えた瞬間です。
 ところが、そういう中にあって主イエスは、怯みません。「これは聖書の言葉が実現するためである」と言われました。この晩、人間の目には、地上で力のある者が結局は何でもできるのだと見えたかもしれません。この世の権力者たちが捕り方を送って、「救い主であっても抑え込むことができる。命を取るとこだってできる」と見えたかもしれません。しかし、たとえ人間の目にどう映ろうとも、「本当に強いのは神のなさりようであり、神の御言葉こそが実現するのだ」と、主イエスはおっしゃるのです。49節で主イエスがおっしゃっていること、それは、「このように惨めに捕らえられてしまったのは、神から与えられた運命だ」と言って嘆いている言葉ではありません。そうではなく、むしろ「御言葉こそが最後の勝利者となる」ことを、敵の手に落ち縄をうたれた状態で主イエスが宣言しておられる言葉なのです。

 そして実は、主イエスは、この神の御言葉を28節で既に言っておられました。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』」、ここまではゼカリヤ書の言葉です。ところが、その後、主イエスはこの聖書の言葉と並び立つかのようにご自身の言葉を語られました。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。主イエスがこうおっしゃるのはなぜかと言いますと、主イエスの言葉は神の言葉だからです。「聖書にこう書いてある」とあれば、「ああ、それは神の言葉だ」と分かったでしょう。ところが、主イエスご自身が神の独り子ですから、主イエスご自身の言葉は、神の言葉なのです。「聖書の中に全てが書いてあるのではない。羊は散らされるけれども、しかし、わたしは復活する。そしてガリラヤに行って、あなたがたを待っている」と、主イエスはおっしゃるのです。
 28節で主イエスが言われた言葉は、ここだけを読んでいますと付け足しのように聞こえます。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」という言葉はとても大事な言葉で、主イエスが復活なさった時に、女性の弟子たちに天使たちが告げた言葉と全く同じ言葉です。16章7節に「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」とあります。「ガリラヤへ行く」と、この時主イエスがおっしゃった言葉は、主イエスが復活なさった時に、とても大事な言葉として弟子たちに語りかけられるのです。どうしてかと言いますと、ガリラヤは、弟子たちがかつて主イエスから招かれて弟子とされ、親しく御言葉をかけていただきながら訓練されて育ってきた土地だからです。主イエスはそこに、もう一度弟子たちをお招きになって、今度は、復活して永遠の命に生きておられるお方として、弟子たち共に生きる交わりを始められるのです。
 地上の生活を共にした弟子の集団は、主イエスの逮捕の晩に消えました。しかし主イエスは、その弟子たちを一人一人、もう一度呼び集められて、もう一度ガリラヤから、「永遠の命に生きている主イエスと共に生きる歩みが始まるのだ」と教えておられるのです。

 しかし、そういう主イエスにも、真に深刻な不安があります。それは、弟子たちが「羊」であるということに由来します。たった三日のことですが、主イエスが十字架に架けられ殺されてしまう、それから甦りまで、三日の時間があるのです。「果たしてその三日の間に、この羊たちは本当に無事でいることができるだろうか。もしかすると、羊であるが故に、様々なものに拐かされて、戻って来られないくらい遠くにまで連れて行かれてしまうのではないだろうか」、主イエスは真に深刻に、このことを悩まれました。弟子たちの弱さ、羊の鈍さというものを、弟子たち自身よりも深く考えて、恐れ、悲しみ、心配なさったのです。それで、主イエスは何をなさったのかと言いますと、ゲツセマネの園で祈られたという時があったのです。
 主イエスは、弟子たちの姿を見ると本当に不安で仕方ない。「本当にこの人たちはガリラヤに戻って来ることができるのだろうか。十字架の死ですっかり絶望して、それぞれ元の暮らしに戻って行ってしまうかもしれない」と心配なさったのです。そして、どうしたら良いだろうかと神に祈られ、弟子の一人一人を神に委ねられました。「神さま、あなたが確かにこの一人一人を捕えてくださいます。どうか、わたしの思いではなく、あなたの御心が行われますように」と委ねてくださっているのです。主イエスは「最後には、神の御言葉が勝利を治めるのだ」と弟子たちに教えておられます。

 私たちは、自分自身のことを思わずにはいられません。私たちにはユダのように、あるいはペトロや他の弟子たちのように、自分から主イエスに従って行くという真実さでは虚ろなところがあります。御言葉を聞いて喜んでいる時、その時だけは「わたしは主イエスに従っていく」と思うのです。けれども、本当に容易く主イエスを忘れ、神抜きで自分の思いで生きてしまう、それが私たちの地上の生活の現実の姿だろうと思います。片時も、主イエスの弟子として相応しい生活に留まっていられなくて、始終、あるべき姿から滑り落ちてしまうような弱さを、私たちは持っています。
 しかし、そういう私たち一人一人を覚えて、主イエスが執り成しの激しい祈りを祈ってくださり、また「御言葉こそが最後に実現することなのだ」とおっしゃってくださっていることに心を留めたいと思います。
 私たちは、自分で自分の願っていないようなことをしてしまって、自分の思いも隣人も裏切ってしまうような侭ならなさを抱えています。しかし、それにも拘らず、主イエスがそういう私たちを執り成して、神の前で覚えていてくださっていることを知る者とされたいのです。そして、「御言葉どおり、この身になりますように」と祈りながら、与えられている一日一日の生活を、精一杯に歩む者とされたいと願います。

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