聖書のみことば
2017年11月
  11月5日 11月12日 11月19日 11月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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11月12日主日礼拝音声

 大いなる信頼
2017年11月第2主日礼拝 2017年11月12日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/マタイによる福音書 第15章21節〜28節

15章<21節>イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。<22節>すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。<23節>しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」<24節>イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。<25節>しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。<26節>イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、<27節>女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」<28節>そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 ただ今、マタイによる福音書15章21節から28節までをご一緒にお聞きしました。22節と23節前半に「すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった」とあります。女の人が主イエスに「助けてください」とお願いした時に、主イエスは一言も返事をなさらなかったと言われています。
 このことは、主イエスという方が、たとえどんなことであれ、私たち人間の求めに応えてくださる方だと考えている人にとっては大変ショックなことに思えるかもしれません。深く苦しみ、嘆き、悩んでいる母親の切なる願いに対して主イエスが何もお答えにならなかった、こういう主イエスの姿が聖書に語られていることに驚き、これは何かの間違いではないかと思う方がいるかもしれません。
 けれども、そもそも主イエスは、何もお答えにならなくても良いのかもしれません。主イエスがご自身の務めを果たす上で、どうしても耳を澄ませて聞き取らなければならないことは、私たち人間の言葉ではなく、ただ父なる神の御言葉です。主イエスは、人間の訴えや意見に動かされるのではなく、父なる神の御声を聞き分け従ってこそ、本当に神に従順な独り子としての務めをなすことがおできになります。
 もちろん、何かの拍子に主イエスと出会い、主イエスに求めたり訴えた場合に、主イエスが耳を貸す、あるいは何かをしてくださったならば、訴えた人たちは大変喜んで、主イエスに親しみを覚えるかもしれません。しかし、そういうことが起こるのは、あくまでも、そうしてもらった人に限ります。この世の中には大勢の人がいて、どんな事柄であれ様々な意見があるのは普通のことです。もし、そういう意見の一つ一つに耳を傾け聞き入れるならば、当然のことですが、矛盾している願いというものも出てくるに違いありません。それらをいちいち聞き入れていたら、結局は身動きが取れなくなって、収拾がつかなくなるに違いありません。
 矛盾し対立し合うこの世の意見や言葉の中にあって、そういうものには耳を貸さず、ただひたすらに神の御言葉に聞き続け、神の御心から離れないように心がける、そこにこそ、主イエスの真の強さがあります。常に神の言葉を聞き取っている、その強さゆえに、主イエスはファリサイ派の人たちや律法学者と論争なさる時にも、彼らが持ち出すこの世の言い伝えを神の言葉によって退けることがおできになったのです。主イエスは、当時の宗教的な指導者が語る言葉にすら「ノー」とおっしゃったのですから、なおさらのこと、ここで女性の訴えに耳を貸さないことを不思議がる必要はないでしょう。

 この女性は、カナン人だったと言われています。ですから、彼女は生まれも育ちも全くの外国人なのです。聖書の神については何も知らず、神抜きで歩んできた人ですから、何か困難に出会えばその中に埋もれて悲痛な嘆きを漏らすしかない、そういう人です。そうであれば、主イエスは一体何を語ってあげることができるでしょうか。何もお答えにならなかったとしても無理もないと言えるでしょう。しかし、たとえそうだとしても、この時、主イエスがせめて一言だけでもこの女性に思いやりのある労りの言葉をかけてあげてくれればという思いもあります。この人は、一人の母親として辛い嘆きの中に置かれており、「娘が悪霊にひどく苦しめられています」と訴えています。訴えの通りであれば、恐らく、この娘は同年代の子どもたちのような明るい笑顔で過ごすことはなかったでしょう。どこかで袋小路に迷い込み自分の殻に閉じこもり、この地上の命を喜ぶことができない、さながら牢屋の中で過ごすような辛い気持ちで歩んでいる、このことは、母親にとって深い嘆きであり苦しみであったに違いありません。実際に、この人は「わたしを憐れんでください」とも願っています。娘のことで深く思い悩み、「ここから助け出して欲しい」と願っています。

 このような場合、いつでも主イエスが優しい憐れみの言葉をかけてくださると考えるのは、私たち人間のセンチメンタルな憧れに過ぎないのかもしれません。福音書に出てくる主イエスは、いつでもどこでも優しい言葉をかけるだけの方ではありません。またこの世の様々な問題について批判ばかりする方でもありません。主イエスは、この世の難しさ、辛さや嘆きに出会う時に、それを自ら受け止められます。ご自身が語るべき時が来るまで沈黙を守り、受け止められます。そうであるからこそ、語られる時には、その言葉に重みがあるのです。
 主イエスが黙しておられる、その姿を聖書から聴きながら、私たちも主イエスに従う者として、語るべきでない時には黙する、そういう者でありたいと願います。私たちは何と口の軽い者かと思います。悩んでいる人、苦しんでいる人を見ると、何もできないのについ何かを言いたくなってしまうのです。今日の箇所でも、お節介にも私たちは、「この女性に対して、どうして主イエスは何も声をかけてあげないのだろうか。せめて一言、大丈夫だよと言ってあげればいいのに」と思いがちです。けれども、ある場合には、沈黙の中にこそ、却って深い憐れみが湛えられているということが有り得るのです。言葉を発してもすぐに状況が変わらないのであれば、そこで発せられる言葉は騒音に過ぎません。それは、実際に苦しんでいる人を傷つけたり煩わせて、さらに悩みを深めてしまうことも起こります。辛い状況を一緒に受け止める、心のうちで神に祈る、その方がずっと深い憐れみを湛える場合があるのです。
 ところがここで、弟子たちは、女性から何かを頼まれたわけでもないのに、口を開きます。主イエスのように沈黙したまま、この人の嘆きや苦しみを受け止めることができません。黙っていることに耐えられないのです。23節後半に「そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので』」とあります。この言葉は、棒で犬猫を追い払うように冷淡に追い払えと言っているのではありません。弟子たちもこの人を気の毒に思っているのですが、自分たちではどうすることもできない、何もしてあげられないのだから、一言二言優しい言葉をかけてあげて宥めて、そして帰ってもらいたいと願っているのです。「この女を追い払ってください」、これは、「主イエスが一時凌ぎの慰めを与えてくれれば、この人は満足して厄介払いできるに違いない」と思っての言葉です。弟子たちは女性に、「残念だけれど、もうこれ以上は、私たちには何もできないよ。あなたの嘆きを聞き、優しい言葉をかけて、精一杯できることはしました。これ以上、何を望むのですか」と言えるようになりたいのです。
 この弟子たちの姿を見て、私たちも同じようになることがあるのではないかと思わされます。目の前にいる人が深い嘆きや困難を抱えている時に、私たちは何かしてあげたいと思います。けれど、してあげたところで簡単に解決できないことが分かると、いつまでもそれに関わりあっていると私たち自身が消耗してしまうので、優しい言葉をかけることでその場を収めて先に進みたいという気持ちになることがあるでしょう。

 主イエスは、ここでの弟子たちの言葉に同調して、一時凌ぎの言葉をかけて丁重に追い払おうとなさるのでしょうか。そうはなりません。そうはならないのですが、ここで主イエスが口を開いてこの女性に言った言葉は、黙っておられたこと以上にショッキングな言葉でした。24節に「イエスは、『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』とお答えになった」とあります。何という言葉かと思う方がおられるでしょう。「何と心の狭いことだろう。この世には苦しんでいる人が大勢いるのに、あなたの愛は、その人たちに向けられないのですか。あなたは全ての人を愛するためにこの世に来られたのではないのですか」と思わず問い詰めたくなるのではないでしょうか。この女性はカナン人ですから、「イスラエルの家」の人ではありません。つまり主イエスは、「あなたがわたしに何かを求めるのは、お門違いだ」と言っておられるのです。どうして、痛み苦しんでいる人を傷つけるようなことをおっしゃるのでしょうか。
 けれども、主イエスがここでおっしゃっていることは、確かに正しいことです。「誰も彼もひっくるめて愛する」と主イエスは言われない、それは考えてみると当然なのです。「愛」というのは、いつでも具体的なものだからです。私たちが内に抱く愛もそうでしょう。愛するという時、それは具体的なあの人、この人を愛するでしょう。本気で誰かを愛する場合には、裏返しの出来事として、愛が向かっていない人たち、愛から外れている人たちがいるものなのです。抽象的な愛、無差別に誰をも愛する愛というものが果たして本当にあるでしょうか。人類愛というような普遍的な愛を言う人もいないわけではありませんが、それは本当に愛なのかどうか、考えなくてはなりません。真実な愛は、誰かに注がれるものです。人類愛に生きる、それは「自分は良い人間だ」と言っているだけです。愛というのは、常に具体的な相手のある状況の中で、その誰かに注がれていくものなのです。
 私たち人間の愛は、いつでも自分の欲するままに自分の気に入った相手に向かう愛ですが、しかし、主イエスの愛は「父なる神が選ばれた者に対して注がれる愛」だというところに違いがあります。主イエスの愛はあくまでも、父なる神への従順から生まれてくる愛なのです。目の前にいる誰かに近しさや親しみを感じるから愛する、それは私たち人間の愛の向け方ですが、主イエスは違うのです。神が愛しておられるから愛する、そういう愛なのです。そして、神は一体誰を愛されたかというと、イスラエルの民をご自分の民としてお選びになったのです。ですから主イエスは、「わたしの愛は、神が選ばれたその人に向かって注がれる。わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と、カナンの女に告げられたのです。

 こう告げられた女性は、何を感じ取ったでしょうか。幸いなことに、この人は主イエスの言葉を聞いて、大変大事なことに気づきました。それは、自分の目の前にいる方が「本当に人を愛してくださる方」なのだと気づくのです。通り一遍の口先だけで愛するのではない。優しい言葉はかけても、その実、追い払おうとしている、その場限りのいい加減な愛ではない。目の前にいて苦しみ嘆いている人に対して「何とかしてあげたい」という願いをお持ちの方だと感じるのです。そして、そうであるがゆえに、この人はいよいよ主イエスに対して信頼の思いを深めるということが起こります。目の前にいるこの方は、決して口先だけの気休めを言う方ではないと気づくのです。
 ですからこの人は、主イエスが拒絶しているにも拘らず、主イエスに対してあらん限りの信頼を示そうとします。25節に「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った」とあります。「しかし」という言葉は、とても重要な言葉です。主イエスが「来なさい」と招かれたのではありません。「わたしの愛はあなたに向かっていない」と言われれば、諦めて立ち去るのが普通ですが、そうしなかったという意味で「しかし」と言われています。むしろ、主イエスの冷たいと思える言葉を聞いて、「この方は、愛するべき者を愛してくださるお方なのだ。そうであれば、何とかして、わたしもその中に入れられないものか」と思って、「女は来て」と、言われています。そしてイエスの前にひれ伏して「主よ、どうかお助けください」と願いました。この人の精一杯な態度、姿勢は、人の心を打つのではないでしょうか。そして、こういう場面を見ますと、つい私たちは「今度こそ、主イエスは御心を和らげてくださるのではないだろうか」と期待するのではないでしょうか。

 ここまで場面が進みますと、一体この女性には、何が今必要なのだろうかと考えさせられます。この人は、自分の娘が心を病み、深い苦しみの中にあることに思いが全て向かっていますから、「どうか娘を救ってください。わたしを助けてください」と願っていますが、しかし、この女性自身にとって本当に必要なことは何なのでしょうか。自分の願った通りに娘が癒されることでしょうか。もちろん今はそれしか考えられませんし、癒されればそれで良かったと思うだけかもしれません。
 けれども主イエスは、拒絶したのにやって来てひれ伏している女性をご覧になって、「この人には、今願っているような小さな願いが満たされるだけではなく、もっと大きな願いが満たされたなければならない」とお考えになるのです。娘が癒されることだけが最大なことだと、この人は思っているかもしれません。けれども主イエスは、この女性の身にもっと大きな幸いが臨むようにとお考えになります。
 もし主イエスがここで、求めに応じて娘の病気を癒されたら、どうなっていたかと思います。もちろん、女性は喜び、幸せな気持ちで家に帰ったでしょう。そして、「わたしの願いは全て満たされた。一体何の不足があるだろう」と思ったことでしょう。けれども、それではせっかく主イエスの前にやって来て、しかも「主である方」によって癒されているのに、この人は「自分が一体誰に出会ったのか」分からないいまま過ぎて行ってしまうことになるのです。主イエスはこの時、この人が苦しいときの神頼みをして、主イエスによって願いが聴かれたと言って喜ぶ以上のことが起こるということを、この人のために願っておられます。そして、それが「主イエスの愛」なのです。主イエスは、出会う一人一人に対して、「その人が願い満たされる以上のことが、その人に起こるように」と願っておられます。

 「主イエスとの出会い」とはどういうことなのか。仮に、主イエスとの出会いが全く無いならば、どうなるのか。主イエスに出会わなければ、私たちは、それぞれ自分の人生の中で最も良いことは、自分の願った通りに人生が運んでいくことだと考えるでしょう。一言で言えば、「自己実現」であり、自己実現こそが人生の値打ちを決める、自己実現のために生きると、主イエスと出会わない多くの方が考えているのです。そしてそれは、人間の原動力だと言われます。けれども逆に、その人を苦しめ滅ぼす素になることにもなるのです。自分が思うような人生を送れないと思って諦めてしまう時には、自分の人生には値打ちがないということになります。
 ある説教者は、今日のこの箇所を聞いて、もしこの女性が信仰を持っていなかったら、どうなったかと想像しています。その時には、この社会でよく見られるようなことが起こったかも知れない、この女性は最後には娘と無理心中していたのではないかと言っています。娘の癒しを願うけれども、どこに行っても、誰に頼んでも聞き入れてもらえないと諦めた瞬間に、娘の命も自分の命も、生きている値打ちのないものだと思ってしまう。それならばここで終わりにしようと思っても不思議ではない。決めつけることはできませんが、どうして人が人の命に手をつけるのか、それは、その命が生きるに値しないものだと、自分が決めてしまっているからです。
 生きる上で、自分の思うようにならない現実に出会う。そして、神以外の地上の何かに助けを求める。そして願うような展開になってそれが続く限りは、それで満たされると思っている人は大勢います。そして、そういう幸運のサイクルが途切れた瞬間が自分の命の終わりだと思っている人も大勢いるのです。けれども、主イエスはそういう人間のあり方を良しとはされません。困難に出会った時に、その時だけ助けを求め答えが与えられたら満足し良しとしてしまうのではなく、「自分はそれだけのものではない」と分かった時、その時に、その人は初めて自分自身を、自分が生かされている世界全体を、神から贈られた贈り物なのだと感じて、感謝して受け取ることができるようになるのです。
 そして、そういうことが分かるために、私たちはめいめいの人生の中で、それぞれ何がしかの試練を経験させられていくのです。

 今日の記事の中で、最も深刻な場面がこの先にやってきます。主イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とおっしゃり、女性の答えを聞いた後に、更に追い討ちをかけるように、26節「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになりました。「子供たち」というのは、イスラエルの民、ユダヤ人たちのことです。「小犬」とは、ユダヤ人たちが異邦人たちを蔑んで呼ぶ時に使うあだ名です。
 「神さまに関わりある子供のために用意されたパンを、犬っころにすぎない者に分け与えるのか。それは良くない」とは、主イエスは本当に辛辣だと思います。「愛の人であるように振舞っているけれど、仮面の下には、険しい了見の狭さが顔を覗かせているではないか」と、主イエスのこの言葉を聞いて非難する人もいることでしょう。教会の中でも、この箇所に耐えられない人がいます。主イエスがこんなことをおっしゃる筈がないと考える人は、「これは主イエスではない。人間の持つ了見の狭さを正当化するためのマタイの創作だ」と言うのです。ここでの厳しい主イエスの言葉に耐えかねているのです。
 けれども、主イエスのこの冷淡な言葉を、カナンの女性がどう受け止めたか、それが問題です。しかも主イエスは、この女性にわざとこの言葉をかけておられるのです。どういうつもりでおっしゃっているのでしょうか。主イエスはここでも、父なる神に忠実に行動しておられます。「神が憐れもうとする、そういう人をわたしは憐れむ。この神の自由な有りように従う」。神のなさりように対しては、主イエスご自身ですら、「どうしてそうなのですか」と問うことはできないのです。この女性に残されている道は、「ただ祈りながら手を差し出すこと。そして、神がそこに与えてくださるものを受け取ること。それしかないのだ」とおっしゃっているのです。私たち人間の側には、何の権利も資格もない。どれほど情熱を傾け、切に願うとしても、それでも私たちは、神がくださるものを変えることなどできよう筈がないのです。神がくださるものを私たちは受け取るだけです。
 けれども、そのことを知ってこそ、初めて、私たちは神の選びの中に、愛の中に受け止められていることを分かるようになるのです。自分にとって都合の良いものが与えられたから神がわたしを愛してくださっていると思うのであれば、自分にとって都合が悪く思えるもの、試練や悲しみを与えられる神は、わたしを愛していないのだと、すぐに針が逆方向に振れてしまうことになります。「自分の側には何の長所も取り柄もない、だから神がわたしを愛してくださるはずはない。主イエスが黙って横を通り過ぎられるとしても仕方ない。けれども、わたしは、神に祈って手を差し出します」、そこで与えられるものが与えられる時には、本当に大きな神の愛がここにあることを理解するようになるのです。「神がわたしを選んで、わたしのためにこの人生を備えてくださっている。様々な試練や苦しみを経験するけれど、わたしは尚ここで生きることを許されている。ここで生きて良いと言う声を聞かされ、そして今日のこの日を、この人生を与えられている」と知るようになるのです。

 このカナンの女性は、主イエスとの出会い、交わりの中で、自分に理解できたことを非常に素朴な言葉で言い表しています。27節「女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです』」。「そうです。主イエスさま、あなたのおっしゃる通りです。あなたの厳しいお言葉も、わたしは全て頂戴します。正直に言えば、あなたの言葉はわたしの理解を超えています。けれども、それでもわたしは受け入れます。そして、それでわたしは十分です」と言うのです。「あなたがどんなに、ご自身をわたしから隠そうとなさっても、それでもそういう者として、わたしはあなたを受け入れます」と言うのです。「小犬」と言われたことに、この人は「子犬ではない」と訂正しようとはしません。反論もしません。「小犬」と言われたことに対して「おっしゃる通りです」と答えました。「自分はユダヤ人たちから見て小犬にすぎないかもしれない。けれども、食卓の上に用意されている祝福のパンは、テーブルから溢れて落ちるほどに豊かなのですから、小犬はその溢れたパン屑で十分養われるのです」と、この女性は語りました。驚くような言葉です。
 聖書の中で、ユダヤ人たちは主イエスのことをどう思っているでしょうか。自分たちにパンを与えて養ってくれる方だなどとは少しも思っていません。子供である人たちが、自分たちのためにパンが備えられていることを認めようとしないのに、この女性は、「わたしは小犬に過ぎないけれども、食卓からこぼれ落ちるパン屑を頂いて、ここで生きてまいります」と答えました。
 主イエスは、この女性のこの言葉の中にこそ、ここからの将来に向かって、今置かれている闇の中から明るい光の中に繋がっていく信頼が宿っていることを聞き取ってくださるのです。この人は、自分が思うようになりたいから主イエスに頼んでいるのではない。そうではなくて、「今置かれている状況の中で、犬に過ぎず顧みてもらえない状況の中でも、わたしは神からいただくパンに養われて、ここで生きていくことができます」と言っています。そして、そこに信頼があるということを、主イエスは確かに認めてくださるのです。

 信仰というものを、私たちは時々誤解することがあるかもしれません。自分が強く念じることだと、つい思ってしまうのです。自分の思いや願い、考えを神に訴える、神を動かすほどの強い気持ちこそが信仰だと思ってしまうことがあります。自分の願いに心を向けて、そうしてもらおうとして非常に熱心に取り組むという人はいるのです。けれどもそういうあり方は、どんなに熱心に見えるとしても、結局は偶像を求める心であり、自分の願いを絶対化する、そういうあり方です。
 主イエスは最初、カナンの女性との出会いの中で、そういう気持ちがあるのではないかとお感じになりました。娘の病気を快癒させてほしい、そして自分の困難な状況を変えてほしい、そういう思いが潜んでいるのではないかと疑われたのです。この女性はカナン人で、元々神を知りませんから、神への信頼もないのですから、そうであれば、「神への信頼に生きる」ということは起こり得ない、だから「わたしは、そういう人には遣わされていないのだ」と言われました。ところが女性は、「自分がそういう者である。そう言われても仕方ない」と受け入れて、「おっしゃる通りです。ごもっともです。でも、あなたの食卓の上には豊かなパンが載っているはずです」と信じ、「主の憐れみと愛のかけらでも食べて生きていきたい。そうするのだ」と決めているのです。そして、まさにそこに、この女性の信仰があるとおっしゃるのです。
 28節に「そこで、イエスはお答えになった。『婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。』そのとき、娘の病気はいやされた」とあります。「あなたの信仰は立派だ」は、原文では「あなたの信仰は大きい」という意味です。「あなたの中には確かに信仰がある」と認めてくださるのです。「たとえ自分の思い通りにならない今日の現実があるとしても、神が全てをご存知で生活の全てを正しく良い方に導いてくださる。わたしはここで、神が与えてくださるものに養われて、ここで生きていく」、そういう信頼がこの女性の中に息づいていることをご覧になって、「あなたの信仰は大きい。あなたの願い通りに、ここからなっていくように」と言ってくださるのです。「あなたの願い通りに」というのは、ただ娘の病気が良くなるようにということではありません。「神がいつもあなたを養って、あなたを支えてくださる。そういう人生を生きなさい」とおっしゃるのです。

 思うようにならない試練があって辛さの中に押さえ込まれる、そういう気持ちを抱くことは、私たちにもあるかもしれません。けれども、そのような時、まさにその只中で、「神が全てをご存知で、全てを持ち運んでくださっている。神の憐れみに満ちた支配が、わたしの生活にも現れますように」と祈り求めて歩んで行く時に、諸々の悪霊の支配は退いていきます。たとえどんな困難な状況に置かれていても、どんなに辛さや痛みがあっても、そこでは、神との間柄が損なわれ、断ち切られ、見えなくなるということは起こらなくなります。「神の愛を待ち望み、神の愛を数えて従って生きようとする新しい生活」が、そこから始まるのです。

 今日の箇所の最初では、主イエスは切々と訴える女性の言葉に耳を貸しませんでした。それは、主イエスがただ神の御言葉に聞き従おうとしておられたからだと申しました。ここでの出来事は、そのようにして起こりました。人の声や人々の要求が大きな声で語られる、その只中で、「神はわたしに今日何をなさろうとしておられるのか。神がわたしをどう歩ませようとしておられるのか」と、神の御言葉を聞き取ることが大切なことなのです。そして、そこから始まる新しいものが生い育っていくことになります。
 神の御言葉に聞いて、神から力を頂いて生きるとき、そこでは、神なき状態と思えるようなところにも、神の力の大きな現れを経験するということが起こってくるのです。「神に従い、御言葉を聞いて行動する」、そうしてこそ、神を知らずにいた人たちの中からも、神に生かされる人間の歩みが生まれてくるのだということを覚えたいと思います。私たちの上にも、こういう神が臨んでくださいますように。そしてどうか、今日の生活の中にあって、神に覚えられ支えられ持ち運ばれている者として、ここから歩んでいくことができますようにと祈りながら、新しい一巡りの時を迎えたいと願うのです。

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