ただ今、マタイによる福音書15章1節から20節までをご一緒にお聞きしました。1節と2節に「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません』」とあります。ファリサイ派の人たちが主イエスの弟子の行いを見て、先生である主イエスを咎めています。「食事の前に手を洗っていないではないか」と言って、主イエスを攻め立てます。まるで幼稚園児か小学校低学年の子供たちに言うような話が語られているようにも聞こえますが、これは単純に衛生面の事柄が問題になっているのではありません。
今日私たちが聞いている出来事と同じ出来事を伝えている箇所が、マルコによる福音書に出て来ます。マルコによる福音書7章を見ますと、これは衛生上の問題として語られているのではなく、宗教上の儀式としての「手を洗う」ということを弟子たちが重んじていないことが問題になっていることが分かります。2節から4節に「そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」。ここからは説明ですが「-ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある-」とあります。これが主イエスの時代のユダヤ教のしきたりでした。衛生上ではなく、宗教上のしきたりなのです。こういうしきたりを守るか守らないかで、その人が清いとか汚れているとかと判断されました。
今日の私たちからすると、こういうしきたりは理解しにくいのですが、しかし、主イエスの時代には、人の目に見える一定の行いに従うか従わないかで、その人が清いか清くないかが決まっていく、そしてそれに伴って、その人が神との交わりに入れてもらえるかどうかも決まると考えられていたのでした。「清い」とか「汚れている」ということが、私たちが神との交わりに入れてもらえるかどうかに繋がっているのです。もし本当にその通りだとすれば、ここに問題となっている「手洗いの儀式」、洗い清めのための手洗いということは、確かにとても大事なことになるでしょう。けれども問題なのは、ファリサイ派の人たちが大切に考えている洗い清めの儀式が、本当にそれほど大事なのかということが重要だと思います。
もしかするとこれは、ファリサイ派の人たちの思い違いだということはないでしょうか。仮に思い違いだとすると、本当の意味で、「神と私たち人間の間柄を成り立たせるもの」とは何なのか。洗い清めの儀式に取って代わるもの、それは一体何なのでしょうか。神と私たちの間を成り立たせていくもの、逆に言うならば、もしそれが失われてしまったら、神と私たちとの交わりが失われてしまうようなものとは何か。私たちが神から離れて行ってしまう、そういうことが実際に起こる場合、そこでは一体何が見失われているのでしょうか。こういうことこそ、今日の記事から考えさせられることではないかと思います。
そこでまず、ファリサイ派の人たちがしきりに気にしていた、「手を洗う」ということ、つまり、「手を洗う」という儀式について、主イエスはどうおっしゃっていたでしょうか。ファリサイ派の人たちは、弟子たちが昔の人の言い伝えを破って、「手を洗わない」と、主イエスに喰ってかかっていました。これは、主イエスの弟子たちが、清めのしきたりを重んじていないということを語っています。「手を洗わない」だけではなく、「器を洗話ない」とか「市場から帰っても、体を洗わないで食事をする」ということも含めて、「あなたの弟子たちは、『手を洗おうとしない』ではないか」という一言で言い表しています。
この批判に対しての主イエスの答えは、3節から9節です。「そこで、イエスはお答えになった。『なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、「父と母を敬え」と言い、「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。「父または母に向かって、『あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする』と言う者は、父を敬わなくてもよい」と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている」』」とあります。
ファリサイ派の人たちが問題にしていたのは、弟子たちが清めのしきたりを重んじていないということでしたが、それに対して主イエスは「あなたがたファリサイ派のあり方が、根本的に、神と人間との交わりを捻じ曲げ、成り立たないものにしてしまっている」と、逆に批判なさっています。「あなたがたには、『父と母を敬え』という十戒があるはずだ。口で父母を罵る者は処刑されるべきだとさえ教える。口先ではそうだけれど、実際にはどうか」と言われます。「あなたたちは、父母を養うために予定されていたものを自分の懐に入れているではないか。しかもその際に、本当は神殿に献金するわけでもないのに、『これは神殿への献金だ』と一言言えば、そういう逃げ道も認められると、あなたがたはそう教えているではないか」と言って、ファリサイ派の人たちの律法の守り方を非難なさるのです。「そういうやり方であれば、洗い清めの儀式であっても何も頼りにならないではないか。食前によく手を洗い、全身を清め、食器にまで気を遣い、神の前で汚れのない食事を摂っているのだと主張しても、実際にその食事を摂っているあなたがた自身が神を軽んじて、両親を養うためにあるお金を懐に入れ、自分の気ままに使っている。しかも、言い訳のために神の名を出している。そういうあり方をしていていながら、食前に手を洗うというだけで、神との清い交わりが成り立っていると言えるのか。それは違うだろう」と、主イエスは言われるのです。
そして、追い討ちをかけるように、預言者イザヤがかつてイスラエルの民に言った言葉を引用されました。「イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている』」。主イエスは、イザヤの言葉を用い、イザヤの言ったことがまさしく本当であると言って、ファリサイ派の人たちをはっきりと非難しておられるのです。「この民は口先ではわたしを敬うが」、これはイザヤ書29章に出てくる言葉ですが、ファリサイ派の人たちが洗い清めの儀式を重んじなさいと口で教えていることを指しています。「手や全身だけでなく、食器にまで気を遣うようにと細かく教えているが、しかし、そう教えているあなたがたのあり方は無頓着ではないか、『その心はわたしから遠く離れている』ではないか」と、言っておられるのです。
手を洗うとか、器を清めるとか、そういう一つ一つの仕草が人間を清らかにするのではありません。そうではなく、その人が本当に神の御言葉に聞き、真剣に神の御言葉の前に生きようとしているかどうか、そのことこそが、その人の清さを決めるのだと言われているのです。
ですから、こう考えることができるかもしれません。私たちは、礼拝に行くことが大事だと思っています。その通りです。けれども、ただ単に礼拝に来る、この身を持って来ている、そのことが大事だというよりも、私たちがここで聞かされている御言葉に応答して生きるかどうか、そのことが大切なのだと言われているのかもしれません。
これは、私たちからしますと大変耳の痛い言葉だと言わざるを得ないかもしれません。私たちは聖書の言葉を聞いた時、いつでもすぐに、「それは完全にできている」と思えるでしょうか。思えないと思います。そして「それはできないことだよ」と言って欲しいと思う面が私たちにはあります。耳の痛いことですが、しかし主イエスはここで、はっきりと「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と言われました。ファリサイ派の人たちが、自分たちは神の前に清いあり方ができていると主張している点を厳しく突いて、痛烈に批判しておられるのです。
さて、このようにファリサイ派の人たちを批判された後で、主イエスは向きを変えて、その場にいた群衆に話しかけられます。それは一つの謎かけのような言葉でした。10節11節に「それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。『聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである』」とあります。「聞いて悟りなさい」というのは、いかにも謎かけのような言葉です。「『口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである』という言葉の意味を悟りなさい」と言われたのですが、こんなことを急に聞かされた群衆たちは、恐らく何を言っているのか分からなかっただろうと思います。「群衆を呼び寄せて」とありますから、この時に呼ばれた人たちは、その直前の手を洗うか洗わないかの話も聞いていない人たちです。なぜこのようなことを主イエスがおっしゃったのか、群衆たちにはちんぷんかんぷんだったのではないかと思います。
その上、主イエスはその場ですぐ、その話の説明をしてはくださいませんでした。主イエスがこの言葉の意味を説き明かしてくださったのは、15節、ペトロが譬えの意味を説明して欲しいと願ったからでした。16節から20節に「イエスは言われた。『あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない』」とあります。「あなたがたも、まだ悟らないのか」というのは、主イエスご自身が「群衆には譬えの意味が分からないだろう」と思っていらっしゃるということです。そして「群衆が分からないだけではなく、弟子たちであるあなたたちも分からないのか」と言われ、そして説き明かしをなさいました。説き明かしは二段階でなされます。
まずは、「すべて口に入るもの」、それは、「腹を通って外に出される」ということです。つまり、飲んだり食べたりするものは、心の中に入るのではない。それはお腹に一旦収まって、また出て行く、排泄されるのだと言われました。それは全くその通りです。私たちが摂る食事は、必ず糞尿になって排泄されます。それは当然のこととして分かっていますが、あまりにも卑近すぎて、改まって口に出そうとは思わない言葉です。
続く二つ目は、「しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す」ということです。ここに並べられていることは、好ましいことではありません。「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口」、これらは神の前に決して通用しないだろうと、私たちは思います。それぞれに咎められ、裁かれ、滅んでいってしまうことになるだろうと察しがつきます。
けれども、この言葉が本当に主イエスの譬えの種明かしなのだろうかと思います。主イエスともあろう方が、こんな誰にでも分かりそうな当たり前のことを真顔でおっしゃって、それで終わりなのでしょうか。そうではありません。11節の言葉をよくよく聞いてみたいと思います。
「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである」。これはもともと、どういう脈絡の中で語られていたでしょうか。ファリサイ派の人たちが弟子たちを批判して、手を洗わずに食事をすることは神を汚すことだと言っていたことが背景にあります。「神と私たちの間柄を成り立たせるもの」、逆に言えば、「それが無ければ神と私たちの交わりが失われてしまうもの」、それが何なのかということが問題になっていた中で語られている言葉なのです。ファリサイ派の人たちの論と主イエスのこの言葉とを絡め合わせて聞くことはできないでしょうか。
背景として問題になっていたことは、「何が神から私たちを引き離すのか」ということです。「神との交わりを何が損なうのか」、このことと重ね合わせてこの言葉を聞くならば、「外からあなたの中に入ってくるもの、それは何一つとして神さまとの交わりから、あなたを締め出すことにはならない。けれども、人の中から出てくるもの、あなたの中から出てくるものが神さまとの交わりを損なって、神さまとの交わりから自分自身を締め出すことになるのだ」、恐らくそれが、主イエスがここで謎かけをなさっておられる本当の意味だろうと思います。
私たちは、自分自身が神から離れてしまうような場合に、実にしばしばそれを、何か他のもののせいにしてしまうようなところがあるのではないでしょうか。「人につまずかされた」とか、「気にくわない出来事があったからつまずいたのだ」と言って、自分自身以外のせいにしてしまうのです。けれども、そのような外からやってくることによっては、神と私たちの交わりは決定的に損なわれることはありません。神と私たちの間の交わりを損なうものというのは、ひとえに、私たちの内側から出てくる何か、なのです。まさに、私たちの自分自身が神との交わりを損なう、私たちが汚れた者で神との交わりに生きられなくなるのです。何かが起こったとか、誰かがそう言ったとか、場合によっては、神がわたしにそれを強いたなどと神の名を引き合いに出したりもしますが、それは全て口実なのだと主イエスは言っておられます。本当のところは、私たちが自分自身に問題を抱えているのだということを知らなくてはならないと、主イエスは言われるのです。
そう言われますと、私たちは本当に納得すると同時に、自分自身が覚束ない者に過ぎないということを思わされるのではないでしょうか。「神との交わりを損なうのは、あなたの中から出てくるものなのだ。人の中から出てくるもの、口から出てくるものは人を汚し、神との交わりに生きられなくするのである」と主イエスからはっきり言われて、一体誰が「イエスさま、そんなことはありません。わたしの中からは、そんなものは一切出てきません」と言えるでしょうか。私たちは誰一人の例外もなくそんなことは言えない、自分自身の中に覚束なさや、神に背いてしまうような何かを隠し持って生きているようなところがあるのです。
そして、だからこそ、主イエスが私たちのもとに来てくださったのだと聖書は告げています。
私たちは、自分から神との間柄を清く保つことなどできません。たとえ、何十年間も一度も休まず教会に通っていたとしても、毎日毎日聖書を開いて、一生のうちに何百回も聖書を通読しようとも、そういうことによって、このわたしが神から決して離れなくなる、自分の中から悪いものは何も出て来ないで清らかなまま生きていけるかというと、そうできない覚束なさがあるのです。「だからこそ、主イエスがこの世においでになって、十字架にかかるために歩んでくださったのだ」と、聖書が告げていることを覚える者とされたいのです。
キリスト者になるということは、聖書を読んで理解した人が、ある水準に達したから洗礼を受けるということではないのだろうと思います。私たちはどれだけ聖書を読んでも、どれだけ礼拝を重ねても、自分自身だけを見るならば、洗礼を受ける前と後であまり変わらないでしょう。
ただ、洗礼を受ける人の違っているところは、「決定的なことは、自分の中からは出て来ないということを知っている」ということです。「自分の中からは、得体の知れない、神との交わりを壊してしまうような物騒なものがいつ出てくるとも分からない、そういう弱さをわたしは抱えている」、それを認めた上で、「それでも神は、このわたしを見捨てず、捨て去らないために、独り子を世に送ってくださって、十字架にかけてくださった。主イエスがわたしの救い主として、今甦って『あなたと一緒に生きるよ』と言ってくださっている。わたしはそういう主イエスの言葉を聞き続けて歩みたい。主イエスがわたしに語りかけてくださることを信じます」と言って、私たちは洗礼を受け、キリスト者とされていくのです。
主イエスが今日語っておられること、それは、「私たち人間は、神との交わりにおいては無力である」ということです。けれども、神がそういう私たちをご存知で、「私たちのために独り子を十字架にかけてくださった」、このことを覚え、私たちは十字架を見上げるものでありたいと願います。
どんな時にも十字架の上を見上げて、「主イエスがこのわたしのために十字架に架かってくださったのだから、わたしは神のものとされている。どれほど弱り、もはや自分の足で教会に来れなくなる時が来るとしても、自分の床から起き上がることができず日曜日の礼拝に行きたいと願いながらもできないという時にも、決定的なことは、自分の足で身を持ち運べるとか、自分の身からは清らかなものだけが出て来るとか、そういうところにあるのではないのだ」ということを覚えたいと思います。
そうではなく、「本当に貧しく惨めで覚束ない者のために、『主イエス・キリストが十字架に架かってくださった』ということが、本当にこのわたしの最後の拠り所であり、また決して取り去られることのない神との交わりを証しするところなのだ」と言い表す者とされたいのです。主の十字架を見上げながら、私たちは、与えられた命の一番終わりの時まで、「この方こそわたしの主である。わたしはこの方のもとで命を与えられ、今生きている」と言い表しながら歩む者とされたいと願うのです。 |