ただ今、マタイによる福音書第6章16節から18節までをご一緒にお聞きしました。16節で主イエスは、「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」と言っておられます。
先に主イエスは、「周りの人たちからよく思われたいがための善行をしないように」と、弟子たちを戒めておられました。6章1節「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と言っておられます。この言葉は「善い行いをしない方がよい」ということではありません。「善行」はするべきですが、しかし、せっかく善い行いをしても、それが人間の虚栄心から出たものであれば見掛け倒しのものになってしまいますから、「せっかくの善行が虚しくなってしまわないように注意しなさい」と教えてくださいました。そして、実際に善行が虚しいものになってしまう3つの場合を挙げて戒められました。
最初は「施し」をする場合(6章2〜4節)、2番には「お祈り」の場合(6章5〜15節)、そして今日の箇所が「断食」の場合です。主イエスは弟子たちに「施し」「祈り」「断食」という3つの場合を挙げて教えられましたが、考えてみますと、この3つはそれぞれ少しずつ、行いの向き・あり方が違っているように思います。
「施し」は、隣にいる貧しい人を支えることですから、つまり隣人に対して親切にするということです。言うなれば、地上に生きている人間同士、水平の間柄において行われる正しいあり方です。「祈り」は、人に対してではなく神に対して捧げるのですから、まっすぐ上に向かっていくようなところがあります。ですから、「施し」が人間同士の水平の間柄のことだとすると、「祈り」は神と人との垂直の間柄において人が正しくあるあり方です。その「施し」も「祈り」も、それが「人に見てもらうため」であるならば、形だけの虚しいものになってしまうという戒めなのです。
そして続けて、今日の箇所では「断食」ということが言われます。「断食」とはどういう行いなのでしょうか。どのように断食することが正しいあり方なのでしょうか。「断食」は自分がすることですから、隣人に何かをしてあげることではありません。そういう意味では、水平の関係での正しいあり方ということではありません。では、垂直の神との関係ではどうかと考えますと、「断食」は「祈り」と大変深い関わりがありますが、しかし、神に向かって断食するのかと言えば、そうではありません。私たちは神に向かってお祈りを捧げますが、神に向かって断食するということはないのです。
では「断食」とは、どういうあり方なのでしょうか。それは、神からの御言葉を聞き取ろうとする人が、御言葉を聞くための自分の備えとして行う業です。旧約聖書の中には、イスラエルの民が所々で断食していた様子が記されています。
例えば、エズラ記8章では、バビロン捕囚から解放されて今まさにエルサレム帰還への旅を始めるイスラエルの民が、御言葉に導かれての旅を願って断食しています。21〜23節に「わたしはアハワ川のほとりで断食を呼びかけ、神の前に身をかがめ、わたしたちのため、幼い子らのため、また持ち物のために旅の無事を祈ることにした。わたしは旅の間敵から守ってもらうために、歩兵や騎兵を王に求めることを恥とした。『わたしたちの神を尋ね求める者には、恵み溢れるその御手が差し伸べられ、神を見捨てる者には必ず激しい怒りが下ります』と王に言っていたからである。そのためにわたしたちは断食してわたしたちの神に祈り、祈りは聞き入れられた」とあります。これは、イスラエルの民がエルサレムに向かう長い旅路の出発の場面ですが、エズラはバビロン郊外に流れるアハワ川のほとりに立って、「この旅路を守ってくれるのはペルシャ王がつけてくれる歩兵や騎兵ではない。神の御言葉が歩むべき道を指し示し、また旅の途中で困難にあった場合にどう対処すべきかを示してくださる」と語っています。そして、「神の御言葉を一言も聞き漏らさないで、御言葉に導かれて旅を続けられますように」と断食して祈るのです。神に御言葉を求める、その際に、神の御言葉への感性を鋭敏にしようとする、それが断食を伴う祈りです。
また、同じ時代ですが、不思議な仕方でペルシャ王クセルクセスの王妃になったエステルという女性がいました。エステルはイスラエル民族を根絶やしにしようとした大臣ハマンの陰謀を知り、クセルクセス王にイスラエル人が今どんなに危険な状況にあるかを知ってもらって王の特別な計らいによって助けてもらわなければならないという場面で、自分はどういう行動をすべきか、何が正しいあり方かを神から聞き分けたいと願って断食しています。エステル記4章15〜16節「エステルはモルデカイに返事を送った。『早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります』」とあります。この時代のペルシャの王妃は、王からの召しがないのに自分から勝手に王に会いに行くことは基本的に禁止されていました。ですから、勝手に会いに行って、もし王の機嫌を損ねれば、その場で命を落とす危険があったのです。イスラエルの存亡がかかっていますから、エステルは、何としてもクセルクセス王に会わなければならないのですが、何時どのように、そして王に対して何をすべきか、神から教えていただくために断食しています。
このように、旧約聖書を読んでいますと、断食というのは「神の御心をはっきり知ろうとする時」に行われるのです。神の御心を聞き分け、神が何を自分に望んでおられるのか、どう行動すべきかを尋ね求める時に行われるのです。断食することで、神の事柄への感覚が研ぎ澄まされていくのです。
先ほど、主イエスが戒められた3つの善行は少しずつ方向性が違うと言いましたが、そうしますと「断食」は、どういう意味で正しいあり方かと考えますと、神の前に立った信仰者自身が自分の内側を清めて神の事柄への感覚を鋭くするために行うのですから、「自分自身についての正しいあり方」だと言えるでしょう。他者に対してでも神に対してでもなく、自分自身が神の前に正しく清らかであるためになすこと、それが聖書の時代における断食です。
さて、私たちの信仰生活の中で、例えば「施し」や「祈り」はすることがあるかもしれませんが、「断食」はあまりしないのではないでしょうか。大方の方はそうだろうと思います。私自身は、聖書に言われているような意味で断食したという記憶はありません。ただ若い頃に、お給料日前でお金が無くなり、アパートに食べ物も無くなり、仕方なく2日間ほど水だけ飲んで過ごしたということはあります。仕方なくですから、聖書の言っているような自発的なものとは違います。しかし、そういう生活を経験した後で教会に行った時に、ある朝、私はとても慰められました。ルカによる福音書に、弟子たちが食べるものが無く空腹だった時に、主イエスと麦畑を通り、麦の穂を勝手に取って食べ始めたのを見たファリサイ派の人たちに、「あなたの弟子たちは断食もしないのか」と問われた主イエスが「そういうことではない」と弟子たちをかばってくださったという箇所があります。そこを読んだ時に、「主イエスの弟子たちも食べ物が無くてひもじかったのだな」と知りました。そう知りますと、お金も食べ物も無く空腹でも、主イエスの弟子たち同じだと思い嬉しくなったという思い出があります。
これは聖書に言われている断食とは違いますが、しかし、形として食べ物を摂取しなかったという経験のある方は、いらっしゃるのではないでしょうか。私のような場合もあるでしょうし、あるいは、健康上の理由で消化器を休ませるために絶食したという場合もあるかもしれません。またあるいは、人生において深刻な問題に直面した場合に、食べ物も飲み物も喉を通らなくなってしまったという経験をされた方もいることと思います。聖書の中にも、いわゆる断食とは違うけれども、今挙げた事柄と近い理由で食べ物を摂らなかったという場合が出てきます。
例えば、サムエル記上1章では、ハンナという女性がもう一人の妻のペニナから虐められて、食事が喉を通らなかったと語られています。7節に「毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ。今度もハンナは泣いて、何も食べようとしなかった」とあります。ペニナには子どもがあり、ハンナには子どもがなく、そのためにいつもペニナから虐められていたので、ハンナは泣いて、食べ物が喉を通りませんでした。
またあるいは、列王記上21章には、サマリアの王アハブが腹を立て、怒りのあまり食事を摂れなくなっています。4節に「アハブは、イズレエルの人ナボトが、『先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることはできない』と言ったその言葉に機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った。寝台に横たわった彼は顔を背け、食事も取らなかった」とあります。
また、新約聖書では、使徒言行録9章に、サウロが甦りの主イエス・キリストに出会った時に、ショックのあまり食べ物を摂れなかったとあります。9節「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」。使徒言行録27章には、嵐に翻弄される船の乗組員たちが、不安のあまり何も食べられなかったことが記されています。33節「夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。『今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました』」。
このように、いわゆる断食をするつもりではないけれど食事を摂ることができなかったという人の姿も、聖書の中には出てくるのです。ここに出てくる人たちの経験というのは、すぐに救いの手が伸ばされ助け出されるということのない厳しい状況に置かれる経験だと言ってよいと思います。人間は、本当に窮地に追い込まれてしまうと、もはや食事が摂れなくなってしまう、そういうことがあるようです。
「断食」とは恐らく、簡単に今すぐ救いや助けを期待できないという状況を、言わば意図的に作り出して、そしてそこから真実に心からの救いを求める、そういう状況の中に自分自身を置くことだと思います。これまでの経験や能力で世の中を渡っていくということではなく、自分には限界があることを思い知らされ、そこから「どうか、神よ、助けてください。この状況から救い出してください」と願い求め、そして神の御心に沿うべく、ひたすらに神の御言葉に集中すること、それが断食の際に起こることです。
実際に私も経験しましたが、食事を摂らないでいると、体調が悪くなります。頭痛がしたり、目が回ったり霞んだりします。そうしますと、日頃は考えないことですが、自分の肉体とは如何に弱く脆いものであるかを身に沁みて分かるようになります。弱い自分でしかないことを知るのです。そして面白いことに、自分自身が弱ると、弱った分だけ、周囲に起こる出来事に影響されやすくなります。ですから、普段は気づかないような出来事に敏感に反応するようになります。例えば、屋根に飛んできた鳥がカラスか雀かなどということは、普段は気になりませんが、空腹で寝ていたりしますと、カラスの鳴き声や足音がうるさくて仕方かったりするのです。そしてそういう状況では、救いを求めることが切実になりますから、「神の御心は、ここでどう現れてくるのか」と考えるようになります。自分の眼前に起こっていることの背後で「神が御業をなさっておられるのではないか」と感じる感性が研ぎ澄まされるということが、確かにあるのです。そして、また再び元の状況に戻ることができたならば、「今度こそは、神の御心に従う生活をこそしてみたい」という憧れも高まってきます。
私たちは、順風満帆で何でもできることをやっているという時よりも、自分の思うようにならない苦しみや辛さを経験する時の方が、「神に従おう」という思いが育っていくと思います。どうしてでしょうか。自分が何でもできると思っているうちは、神の御心など思わずに「あれもこれもやりたい」と自己実現へと心が向いてしまいます。けれども、空腹であったり様々な不自由に見舞われる時には、自分の弱さをつくづくと思い知らされますし、「神はわたしをどのように救ってくださるのだろうか」ということに心が向きます。そして、真実に「神に従おう」という思いが強められるのです。
ですから、断食をする場合には、「神との距離が近づく、神に向かう感性が磨かれる」という心が生まれてくるのだろうと思います。そういう訳ですから、断食は、主イエスの時代には、ごく普通の信仰者の鍛錬として行われていたということです。断食すること自体が直ちに神の御業を行っているということではありませんが、しかし、断食の中には、御言葉への憧れとか神の出来事への感性を養うことで、更に「神の御心に仕える者になりたい」という思いが込められていました。
そういう「断食」ですが、今日ではあまり流行りません。それは社会の風潮として、現代は大変世俗化しており、人間中心の生活が当たり前になっていますから、断食のように禁欲的で苦行を伴うように見える行いというのは敬遠されるのです。今の時代の空気は、断食のような苦しそうな、また健康すら損ないかねないような鍛錬より、もう少し大らかで取っ付きやすそうな訓練を好むのです。
ですから、今日のところで主イエスは「断食」と言っておられますが、これを単純に「飲食を断つ」ということだけだと受け止めますと、私たちにとっては殆ど関わりのないことだと聞き流してしまうでしょう。ですから、もう少し広い意味でこの言葉を受け取る必要があると思います。それは、「信仰者が神の前に生きる者として自分をどのように訓練していくのか」、そういうことではないでしょうか。神の前に清く正しくあるための鍛錬において、「あなたがたはそれを虚しくしてはいけないのだよ」と、主イエスが教えておられると受け止めたいのです。
私たちが毎日の生活の中で神の救いを求め、神の事柄に対して感覚が鋭敏になるということは、確かにあると思います。意外だと思われるかもしれませんが、例えば、一人暮らしの人が夏風邪など引いた場合には、自己鍛錬の絶好の機会ではないかと考えます。暑さの中で寝込んで身動きできない時には、自分はつくづく弱い者だと思い知らされます。医者にかかったりしたとしても、結局は数日間寝込むより仕方ありません。そういう時には、「神よ、なんとかこの状況から救い出してください」と願い、また、「神はどのようにしてわたしを癒してくださるのだろう」などと思いながら寝ている、それは一つの自己鍛錬になると思います。
また、日常生活の中で、毎朝早起きをして、神に祈りを捧げることを日課としておられる方がいるかもしれません。あるいは、夜の時間、書斎にこもってじっくりと御言葉に聞くことを日課にしているという方もいるでしょう。この場合には、祈るとか御言葉を聞くという神との垂直の関係がありますが、しかし、毎日それを自発的に続けるべく努力して行うというところには、自分を鍛えていく要素というものがあるだろうと思います。ですから、主イエスがここで「断食するときには」と言っておられることは、食を断つという事柄だけだと考えますと自分と何の関係もないように思いますが、様々な場面で「わたしは神の前に忠実に生きるのだ」と思って行なっていること全般に対して語っておられると受け取るべきだと思います。
そこで主イエスが教えておられることは、「鍛錬する場合には、あなたは自分が鍛錬していることを他の兄弟姉妹方に気づかれないようにしなさい」ということです。
もう一度16節から読みますと「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」とあります。偽善者たちは、断食するときにはそれを皆に見てもらいたいために、「わざと顔を曇らせて見苦しくする」と、主イエスはおっしゃっています。「偽善者」は「俳優」であると先々週から申し上げているのですが、今日はこの「偽善者」ということについて、もう一歩踏み込んでお話ししたいと思います。
主イエスは「偽善者=俳優」という言葉を使いながら、実際には、「律法学者やファリサイ派の人々」が、まさにそういう上辺だけのあり方をしていると考えておられました。律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちこそが神の御言葉に従っている者であると見せびらかしていたのですが、それは見せかけのことだと主イエスはおっしゃっているのです。マタイによる福音書のこの先を読みますと、主イエスがやがてエルサレムにお入りになって十字架に磔になる前の一週間、受難週と呼ばれる時をお過ごしになることが記されています。その間に、主イエスは律法学者やファリサイ派の人々と直接対決なさるのですが、その際、主イエスは彼らを名指しして「偽善者」とはっきり言われました。何箇所も出てきますが、例えば、23章23節には「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ」とあります。主イエスは「偽善者」という言葉を使って、実際には律法学者やファリサイ派の人々の振る舞いを考えておられるのです。
今日の箇所でも「断食」ということについて、「あなたがたは律法学者やファリサイ派の人々のようなやり方をしてはいけない」と言っておられます。偽善者は断食する際に、「顔を見苦しくする」とありますが、当時、律法学者やファリサイ派の人々は断食を始めると、顔や体を洗わずにげっそりした様子で人々の前に現れたそうです。主イエスは「そういうことをするのはいけない」と言われました。むしろ、主イエスの弟子であるならば、17節「あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」とおっしゃいました。言葉の並び順から言いますと逆かと思いますが、頭に油をつける場合には、当然、頭や顔を洗うでしょう。主イエスは、「断食するのであれば、顔を洗ってさっぱりして、頭に油をつけて、良い日を過ごしているような姿になりなさい」とおっしゃったのです。それはどうしてかと言いますと、18節「それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである」とおっしゃるのです。
主イエスの断食と律法学者やファリサイ派の人々の断食には、明らかに際立った違いがあります。律法学者やファリサイ派の人々は、断食している時には顔を洗いません。わざとげっそりした風態になって、「自分は苦行を行っている。それは、それほどまでに神の言葉を求めているのだ」と周りの人たちに知ってもらいたいと思っているのです。それは、どれだけ自分が神の前に誠実であり真剣であるかということを見せびらかしたいという態度です。けれども、そのような「人に見てもらいたい」という態度は、神に対して真っ直ぐなのではなく、神の方を向いているようなふりをしながら、本心は周りの人たちに自分を良く見せたいという行いであり、それは不純な気持ちなのだと、主イエスはおっしゃっています。周りの人に認めてもらいたいための断食なのだから、それは無意味で退けられてしまうと言われるのです。
主イエスは弟子たちに、律法学者やファリサイ派の人々のようにではなく、「顔を洗い、頭に油をつけて、断食の時には、むしろ晴れやかな顔でいるように」と教えられましたが、顔を洗わずげっそりしていることと顔を洗って頭に油をつけて晴れやかでいることは正反対なことであることは分かります。けれども、少し気になることがあります。主イエスの言われていることは、もしかすると、やり過ぎではないでしょうか。確かに「顔を洗いなさい」ということまでは分かりますが、その上に「頭に油をつけろ」とまでおっしゃっています。一体どうしてでしょうか。
実は、主イエスの時代、断食のように自分を鍛錬する行いをする時に、律法学者やファリサイ派の人々が陥っていた過ちが二つありました。一つは、今話しましたように、神に向かってではなく、周りの人たちに見せびらかすためにする、つまり「自分を誇りたい」という過ちです。そしてそれだけではなく、もう一つ過ちがありました。それは、極度に自分を痛めつけること、自分を苦しめたり痛めたりすればするほど、それが「神への敬虔さを表す」と思っていた過ちです。手立てを尽くして自分を虐待し苦しめる、それこそが自分の禁欲であり節制なのだと勘違いしていました。しかし、実はそれは「自虐的な自己満足」、別の言葉で言えば「英雄主義」です。「自分は神の前でこれだけ自分を苦しめることができています」と、結局は自分を誇ろうとする態度なのです。
例えば、ダンスのステップを踏む時、「この人は難しいステップを良く踏むなあ」と周りに気付かせる人は、本当の達人ではないと言われます。本当のダンスの達人は、踊る上での努力や苦労を気づかせないように、スムーズにステップを踏みながら軽やかに踊るのです。
断食や禁欲や節制という自己鍛錬のための行いは、実は、自分を苦しめることが目的なのではありません。そうではなく、本当に苦しい思いをしながらも、「苦しみを通して自分には限界があることを知り、神に自分自身をお委ねする」、それこそが目的なのです。そして更に、「神のものとして自分を用いていただくようになる」ということが本当の目的です。その目的のための鍛錬であれば、「今、わたしがこの行いをすることは、わたしは弱い者だけれど、神に用いていただけるためなのだ」という、神への感謝が湧き上がってくるのです。そして、そうであれば、とても晴れやかな思いになるのです。
主イエスが弟子たちに、ただ「顔を洗いなさい」と言われただけでなく、「頭に油をつけなさい」と言われたのは、「あなたたちは今、確かに、貧しい者ではあるけれども、神に用いていただける光栄なあり方の中に置かれているのだから、その喜びを表して生きていきなさい」と教えておられるということです。
律法学者やファリサイ派の人々は、断食を自分自身の謙遜や敬虔を表す業だと思って、それを見せびらかそうとしました。けれども、顔を見苦しくするということは、「わたしは今、苦しい思いをしています」と言っていることです。「わたしの今のあり方には、喜びがありません」ということを周りの人に見せているのです。「苦しいけれども、わたしは、こんなにも誠実に神に向かっているのです」と見せびらかしているのです。
しかし、キリスト者は違います。鍛錬は確かに楽なことではありませんが、しかしその中で、「真の救い主が、わたしのためにおられる」ということに出会わされ、そのお方に助けられて、「弱いわたしだけれども、神に覚えられて、御業の一助を担うために今ここに生かされている。わたしのこの命、この人生は、神が用いてくださるものにされているのだ」ということを知らされて、喜んで生きるようになるのです。
「信仰を鍛えようとする時には、顔を洗ってさっぱりして、さらに頭に油をつけて、喜びを表しなさい」、主イエスはそう教えてくださっています。私たちは、今日それぞれに与えられた信仰生活を歩む中で、本当に大きな喜びと平安に与っているのだということを知る者とされたいのです。そして、今それぞれに与えられている生活を、感謝と賛美の声を響かせながら、皆で共に歩んでいくものとされたいと願うのです。 |