ただ今、マタイによる福音書第6章5節から15節までをご一緒にお聞きしました。5節6節に「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」とあります。主イエスが、「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない」と言っておられます。
こういう言葉を、主イエスから聞かされてしまいますと、私たちはふと不安になります。弟子たちが神に捧げる祈りが「偽善的になる」とは、一体どういうことを言っているのでしょうか。私たちが神に捧げる祈りも、もしかすると偽善者のような祈りになっていることがあるということでしょうか。主イエスがここで言っておられる「偽善者」という言葉は、「俳優」という言葉であることを先週の礼拝でお話ししました。現代の芝居や舞台では俳優は素顔で役を演じることが多いのですが、主イエスの時代には、俳優がお面をかぶって役を演じる仮面劇が多かったようです。主イエスがここで心配しておられることは、仮面をかぶった役者が人々に見てもらうための役回りをこなすかのように、自分の信仰を見せびらかすことが主になってしまうことです。そうなると、神に向かって祈るときに純粋さが失われてしまう、そのことを案じておられるのです。
しかし果たして、そのような祈りというものがあるのでしょうか。ここで主イエスは、仮面をかぶって祈る人たちが「会堂や大通りの角に立って祈りたがる」とおっしゃっています。「会堂で祈る」ということは、当たり前といえば当たり前です。では、「大通りの角で祈る」とは、どういうことでしょうか。主イエスの時代には、朝、昼、晩と、祈りを捧げる「時」が決まっていたようです。ですから、たまたま外を歩いている時に祈りの時間が来てしまうと、往来で立ったまま祈るということがありました。ところが、その際に、わざわざ人目につくように、道の途中ではなく角まで行って祈る、それがここで言われていることです。
そのようにわざとらしく祈ろうとする人がどれほどいたのか、そんな人がいたのだろうかと思いますが、しかし、ここで主イエスが言わんとすることは分かるように思います。主イエスは、言わんとすることを際立たせるために、時々誇張した言い方をなさる場合があったようです。先週聞きました「施し」のところでも、「人目につくように、自分の前でラッパを吹き鳴らして、施しをする人がいる」と言われましたが、そんなことをする人がいたかどうか、実際にはあまりいなかったのではないかと言われているのですが、主イエスはそのように仰々しくやって見せる人が大勢いたのだということを言おうとしておられるのではありません。そうではなくて、そういう場合を想像してみた時に分かる「心の内」のことを言っておられるのです。つまり、道を歩いている時に祈りの時間になったら、その時は少しでも人目につくところで祈ろうとする、「もしかしたら、そういう思いがあなたの中にもあるかもしれないよ」と言っておられるのです。主イエスは、祈りというものは他の人に見せたり聞かせたりするものではなく、ただ真っ直ぐに神に向かって祈るべきものなのだということを教えておられるのです。
仮面を脱ぎ、真っ直ぐに神に向かって祈るべきことを教えるために、主イエスは大変印象的なことをおっしゃいました。6節に「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」と言われております。当時のパレスチナの住居については、発掘遺跡によってかなり分かっているようです。それによりますと、玄関には扉があり、そこから中に入りますと、部屋が垂れ幕のようなもので仕切られていました。日本家屋のようにどの部屋も扉で仕切られていたわけではありませんから、ここで主イエスが「奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」と言っておられる場所は、どの家にも一箇所だけあった扉の付いた部屋だと考えられます。それは居間とか寝室ではなく、食料の貯蔵部屋でした。他の部屋は出入り自由ですが、食料の貯蔵部屋だけは、開け放しておくと、野良犬や獣が入り込んで食い荒らされることがあったようで、それを防ぐために扉が付いていました。主イエスは、そういう場所で祈るようにと言われました。
そこは奥まった部屋ですから、外からは見えません。しかもそこは食料貯蔵部屋ですから、中に入ると食べ物の匂いがしたことでしょう。貧しい家庭ですと、空の瓶や壺が転がっていて、寂しい気分になったかもしれません。収穫の直後であればある程度豊かに蓄えられているでしょうが、しかし、毎日食べれば蓄えは減っていきます。そうすると、次の収穫の直前には、ハラハラしながら棚の上を眺めるということがあったかもしれません。主イエスは、そういう場所で「祈りなさい」と言われたのですが、それはどうしてなのかを考えなければなりません。それは、私たちが、「自分は神に支えられなければならない貧しい者なのだ」ということを覚えるためだろうと思います。これは次週聞く断食にも通じることかもしれませんが、私たちは、貧しさや乏しさをしみじみと感じる逆境の中でこそ、神に対する感覚が鋭くなり、神の救いを求めるようになるというところがあるのではないでしょうか。何でも潤沢に与えられていて、困ったことや苦しいことが何もない、そういう生活を過ごしている時には、私たちはあまり神のことを考えなくなります。神に頼ろうとしなくなるのです。ですから主イエスは、弟子たちに「お金持ちが救いに入るよりは、らくだが針の穴を通る方がやさしい」と言っておられます。私たちの神に対しての感覚が鋭くなるのは、自分が本当に貧しい者なのだということをつくづくと思い知る中からだろうと思います。そして主イエスは、そういう場所として、食糧貯蔵庫を示されました。食料が次第に減っていく場所に立って、そこから神の御名を呼んで祈って良いのだと教えておられるのです。
さて、主イエスは、弟子たちが祈る際に心すべき事柄として、まず「偽善者のようであってはならない」と言われましたが、またもう一つのことを教えておられます。それは「くどくどと祈るな」ということです。7節8節に「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とあります。
「異邦人」とは、ユダヤ人ではなく、異教の神々を信じている人たちのことです。主イエスもユダヤ人ですが、異邦人とユダヤ人の違いを考えますと、ただ信じている神が違うというだけではありません。神に対する信じ方、神に対する態度も違っています。ユダヤ人は、神は自分たちの創造主であり、ただお一人の方だと信じていますから、聖書の信仰に立つならば、神の前に隠し事などできるはずはないと考えます。すべてのものは神に創られているのですから、神はすべてをご存じであると考えるのです。
ところが異邦人は、そうではありません。異邦人の暮らす世界は、聖書のような一神教を信じているのではなく、ローマ神話やギリシャ神話のような多くの神々がいる世界です。そこでは、すべてを見通せるような神はいません。他の神を従えているような力ある神、例えばゼウスという神の名を挙げることはできます。けれども、ゼウスにしても、聖書の神のような全知全能ということではありません。ギリシャ神話を読みますと分かりますが、他の神々に欺かれたり、怒ってやり返したりします。あるいはゼウスが地上に降ってきて、しばしば人間に対して悪を行う、しかもそれを力づくで行い正当化したりしています。そういう神話を聞かされている異邦人たちは、神々に対してどう接するかと言えば、下手に出て神を上にして持ち上げたりはします。敬意を払ったしはします。けれどもそれは、あくまでも形だけのものです。ただお一人の神に信頼をもって従うということはできません。そしてそうであるがゆえに、祈りも、どうしても仰々しくなってしまいがちなのです。
私たちキリスト者が神に祈る時には、まっすぐにシンプルに呼びかけています。おそらく多くの方が「天の父なる神さま」「愛する天のお父さま」「在天の父なる御神さま」と言って、もうそこにすぐ神がおられると思いながら祈ります。ところが、神はただ一人だと思っていない人たちは、このようにストレートに神に呼びかけることができません。神がたくさんいますから、まずどの神に呼びかけたらよいか分かりませんし、神がどこにいるかも分からないのです。ですから、呼びかけようとすると仰々しくなり、祈れなくなるのです。
日本では八百万の神ですが、キリスト者以外で祈っているという人は、そんなに多くはいないと思います。祈っている人は誰に向かって祈っているかと考えますと、おそらくは亡くなった自分のお父さんとか、お母さんとか、先祖まではイメージが湧いて呼びかけることができますが、例えば、「○○大明神に向かって祈る」というようなことはないだろうと思います。そういう意味で、キリスト者はまっすぐに神に祈ることができますが、そうでなければ祈るということ自体が大変難しいと思います。
例えば、祈れる人であったとしても、祈っている相手が、今の自分やこの世界のことを全部分かっているとは思いませんから、仏壇の前で手を合わせて祈っている人は「あなたはすべてご存知です」とは言わず、「あなたはご存知ないでしょうけれども、わたしはこんなに大変なのです」と自分の状況を細々と聞かせる、あるいは社会情勢を教えてあげるような祈りになってしまうのです。そのようにして仏壇の前に何時間も座っていたという人はいることと思います。けれども、そのような祈りは、キリスト者やあるいはユダヤ人の祈りとも違います。創造主である唯一の神に祈っているということと、それ以外のものに祈ったり祈らなかったりするあり方とは、全く違っているのです。異邦人の祈りとは、結局、神に祈っているつもりでいて、実は、友達に愚痴をこぼしているのと変わらないのだろうと思います。
しかし、キリスト者の祈りは、創造主なる神に祈るのですから、神は、私たちが祈り求める前から私たちの必要が何であるかをご存知なのです。私たちのすべてを知ってくださっている神なのです。8節に「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」とあります。本当にそうです。私たちが祈っている神は、私たちのすべてを知っておられ、私たちがたとえ口に出して祈らなくても、私たちの必要が何であるかをご存知です。
しかし、もし神が全知全能であって、私たちの必要をご存じであるならば、私たちが祈る必要などないのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。祈りなど無駄なことだという考えもあるかもしれません。理屈の上ではそうでしょう。確かに、神は私たちが祈ったから、そこで初めて色々とお知りになるということではありません。そうではなく、最初から全てを知っておられます。しかし、だからと言って、私たちの祈りが必要ないということでもないのです。なぜ、祈りは必要なのでしょうか。それは、神という方が「真実に私たちの創造主であり、父なる方である」からです。神の側からご覧になれば、私たちは「神の子らの一人ひとり」だからです。
人間社会でもそうですが、父母というものは、自分の子供が何を必要としているかについては、言われなくてもわかっているようなところがあります。赤ん坊を育てたことのある方は、その時のことを思い出してみてください。生まれたての赤ん坊は、もちろん言葉を話すことはできませんが、不思議なことに親たちは、その子が何を必要としているのかということを泣き声で判断できるのではないでしょうか。あるいは、子供が成長するために必要なものを与えるための工夫を自然としたりします。親というものは、子供が成長して大人になっていくまで、子供のことをよく分かっているということがあると思います。けれどもそれは、親の側の話です。親の側は子供のことを分かっていますが、子供の方は、自分が親からそのように知られているとは知りません。ですから、子供が親の元で育っていくためには会話が必要になるのです。親と全く語らないで、自分で全部できると思い込んでいる子供というのは、肉体が大きくなっても、本当には成長できていかないと思います。もちろん、世の中には、肉親と早い時期に別れなければならないという事情を持つ子供たちも大勢います。しかし、そういう場合であっても、その子は親無く自分一人で育っていけるかというと、そうはならないと思います。必ず親代わりの人がいてくれて、肉親ではないとしても、子供の話を聞き助言してくれる相手がいて、その中で育っていくのだろうと思います。
そして実は、祈りとは、それと似たところがあるだろうと思うのです。神の側では、その人に祈ってもらわなければ、その人の気持ちや有り様が分からないということではありません。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と主イエスが言っておられるように、神は私たちの心の内も必要もご存知です。しかしそれでもなお、祈りは神に捧げられるべきものです。それは、祈ることによって、私たち自身が愚かさや幼さから救い出されていくからです。
祈りの生活をある程度続けておられる方は、大きな変化ではなくても、自分の祈りが変えられてきたと振り返ることができると思います。私たちは生まれてきた時には、神のことを知りません。成長の過程で、ある時に、神がおられることを知らされて、その神に祈るようになります。その一番最初の祈りは、恐らくどなたであっても、自分の願い事で会ったり何かを与えてくださいという祈りが主だったのだろうと思います。生まれたての赤ん坊が自分の求めを泣き声で訴えるように、私たちの最初の祈りも、自分の必要を求めるものであったでしょう。祈ることを知らなかった人が最初に祈る祈りとは、そういうものでしょう。
ところが、祈りの生活を続けていくと、自分の求めばかりを願う祈りから、少しずつ変化が生じてくると思います。例えば、自分の願い求めたことが神への祈りによって適えられたということが起こる時に、「神よ、本当にありがとうございました」と感謝する、感謝の祈りが生まれてくるでしょう。そしてこのような感謝を何度も繰り返すうちに、自分の願いを口に出しただけで、「神はきっと、この願いについては最も良い仕方で、最も良い機会に適えてくださるに違いない」という信仰の言葉も、祈りの中に加えられてくるのです。「いつ実現するかは分かりませんが、神よ、あなたは必ずこの願いを適えてくださいます」という祈りが生まれてくるだろうと思うのです。また更には、神への信頼によって神が御業をなしてくださることを待ち望むようになり、そうなりますと、御業の実現を待望して生きる自分自身の在り方が強められますようにという祈りも生まれてくると思うのです。
最初の祈りは、求めるものを願うだけ、その時だけの長続きしない祈りが中心ですが、次第に、神が必ず為してくださると信じるがゆえに、「どうか、このことを願い続け、祈り続けることができるように、神よ、わたしを導いてください」という祈りも生まれてくると思います。そして、「神はわたしをこのように変えてくださり、導いてくださるのだ」と信じるようになれば、今度はその神に対して畏れを抱き、「神よ、心からあなたを賛美いたします」という賛美の祈りも生まれてきます。
ですから、私たちが祈るということは、初めての時からずっと同じことを同じように祈るということではないのだと思います。私たちが祈りを捧げることを通して、神に対する信頼や信仰が私たちの中に育ってくるのです。そして、そのように育ってくると、私たちはいよいよ深く神の御言葉の中に根を下ろして、「わたしは神に抱かれ支えられている」ということをしっかりと確信するように変えられていきます。
神に祈り、神の御言葉に聞くという生活の中で、私たちが最も驚かされ感謝すること、それは、「神がどんなに深くこのわたしのことを配慮し、覚えてくださっているか」ということだろうと思います。神が深い御心をもって、「わたし」を顧み、それだけではなく、「隣人」そして「世界」のこともすべてを顧みてくださっていることを、心から感謝するのです。そして、神への信頼を持って生きるが故に、「神に仕えよう」という思いが生まれてくるのだと思います。
祈りの生活を続け、神の御心を少しずつ知らされていく時に、私たちは、深い神の慈しみと憐れみのもとに置かれて今日を生きていることを知ります。そしてその中で、「かつての自分は神を知らなかったために、神抜きで、神に対して礼儀知らずな在り方をしていたけれども、そんなわたしも神の愛の中に受け止められ、赦しと慈しみの中に置かれていたのだ」と、しみじみと思わされるということが起こってくると思います。
赤ん坊は、生まれた時から親からの愛情を受けて育っていきます。赤ん坊はそれが当たり前だと思っていますから、自分がどんなに深く愛されているかを知らないまま育っていくようなところがあります。親がどんな気持ちで子育てしていたかを知るのは、自分が親になってからだとはよく言われていることです。もちろん、私たちは自分が神になるわけではありませんから、神の思いが全て分かるなどということはありません。しかしそれでも、祈りの生活をしてく中で、「どんなに神が忍耐して私たちを持ち運び、ご自身の愛を持って支え、私たちを生かそうとしてくださっているのか」ということを知って、私たちは、神にただ感謝するだけではなく、「神に仕えるようになろう。そして自分自身も神に仕える業として隣人を愛し、隣人を許すあり方をしよう」とする志が生まれてくるのだと思います。
そして、この志に従って生活するときにこそ、私たちは、「どんなに深く神に愛され、赦されてここに存在するのか」ということを、なお覚えるようになります。「神が私たちを赦し、神の愛の中に生きるようにと招いてくださっている」のは、神が、ご自身の独り子を十字架につけてまで私たちの罪を肩代わりして滅ぼしてくださった末のことだからです。私たちが毎週教会に来て聞かされる「主イエス・キリストの十字架の出来事」とは、決してただのお伽話なのではありません。そうではなくて、主イエスが苦しみ、私たちの罪を十字架によって滅ぼしてくださったという出来事が真実にあったのです。
その十字架の出来事を、私たちはどこで経験するのでしょうか。もちろん、私たちが十字架につくわけではありません。けれども、私たちが誰かを許して、愛をもって交わりを作っていく、そこでこそ知ります。もちろん、誰かを許し愛するという時に、私たちは大変さを覚えます。しかし、そのことを通してこそ実は、私たちは、神に赦され愛されて生きるものとされていることを深く知るようにされていくのです。
今日の祈りの話の最後のところ、14節15節に「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」と言われています。これはまるで、真逆のことが2つ並べられているように見えますが、神が私たちをどうご覧になっているのかを考えれば、私たちが許しも赦されもしない者として生きるということよりも、十字架の主イエス・キリストによって赦しのもとに置かれていることを信じて、私たちも「許す者となる」ということを神が望んでおられるのだということは言えると思います。
もし神が、2つの場合があると言われるだけであれば、そもそも主イエスの十字架がこの世に立つなどということは無くても良かったのです。しかし、主イエスの十字架がこの地上に立てられたこと、私たちの罪の身代わりになって主イエスが十字架にかかってくださっているという出来事が起こっているからには、神は、その赦しの御業を私たちが知って、私たちが赦しのもとに生きるようになることを、私たちのために望んで下さっているのです。
ですから、14節15節の言葉は、掟のような言葉なのではありません。私たちが主イエス・キリストの十字架の赦しのもとで生きるようになることへの招きの言葉なのです。主イエスが十字架にかかってくださっている、その事実が、私たちの罪と過ちを赦そうとする神の決意のしるしです。
そして私たちは、十字架にかかってくださった方のお名前をもって、一人一人、名を呼ばれています。それがキリスト者という名をもって私たちが呼ばれているということです。
「真の赦しの中を生きて行く。真実に赦された者だから、わたしも隣人を許して生きる」、そういう生活をする時に、私たちは、神の平和をこの地上に実現していく幸いな者の端くれとされますし、また、自分が神の平和の中に抱かれている一人なのだということを、つくづくと味わうようにされていきます。
神がそういう歩みを私たちに備えてくださるように、保護と導きを切に祈り求めて、感謝して、ここからの日々を歩んでいきたいと願います。 |