ただ今、マタイによる福音書5章21節から26節までをご一緒にお聞きしました。21節22節に「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」とあります。
この直前の20節で、主イエスは「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と、弟子たちに教えておられました。律法学者やファリサイ派の人たちは聖書を熱心に研究して、教えられている暮らし方をすべて守って生活しようと志していた人たちです。ある意味、聖書に真剣に取り組んでいた人たちです。しかし主イエスは、彼らのそういうあり方では、決して本当には神と共に生きる生活はできないのだとおっしゃいました。この言葉はショックな言葉だと思います。どうして、聖書に書かれていることを真剣に受け止めて行おうとすることが神と共に生きることにならないのだろうか。それでは一体誰が、神と共に生きることができるのだろうか。私たちもそう思うかもしれません。どうしてなのか。主イエスは、今日のところから、一つ一つ例を挙げながら、教えていかれます。今日は最初のところですが、この後、6つ例が取り上げられますので、少しずつ聴いていくことになります。
今日の箇所は21節から26節ですが、ここで主イエスが取り上げておられるのは、「十戒」の第6番目の戒めの言葉であり、また人間同士が関係を築いていくための最も根本的な戒めになるであろう「殺してはならない」という戒めです。「殺人はやってはいけないことだ」ということは、聖書から教えられなくても十分に承知していることだと思います。キリスト者だけがそう思っているのではなく、世の中の大抵の人は「殺人はいけないことだ」と思っています。しかし、そうであれば、どうして聖書は、言わなくても分かっているような戒めをわざわざ語るのでしょうか。その理由は、現実の問題としては、殺人の出来事がこの世に絶えないからです。この世で生活している中で、私たちは思い当たると思います。メディアを通して様々なニュースが入ってきますが、注意して聞いていますと、殺人事件が無かった日は一日もありません。私たちは、自分には遠い出来事だと思って聞き流していますが、殺人ということに注視して耳を傾け、記事を読んでみますと、この狭い日本の中だけであっても、毎日どこかで殺人があったことを聞かされるのです。「殺人はいけないことだ」と私たちは分かっていますが、しかし一方では、殺人は起こっているのです。世の中には「人を殺してはいけない」ということが分からない人たちがいるようです。
しかし「人を殺してはいけない」ということが分かっている人と、分からない人とは、それほどはっきりと区分できるものではないのかも知れません。当然のこととして弁えているつもりの人が、もしかすると、人生において起こる何かの出来事によって逆上して、気付いたら人を殺していたということがあるかも知れません。私たちは、自分は決して逆上などしないと言い切れるでしょうか。恐らく、どなたも言い切れないと思います。誰であっても、自分について「絶対」とは言えないのです。
もちろん、今ここで、「誰かを殺したいか」と聞かれれば、大方の人は「したくありません」と答えるでしょう。けれども、私たちの心は本当にか弱く、移り変わり易いものです。今はそういう気持ちではないからと言っても、決してしないと言い切れるものでしょうか。
そもそも、「人殺し」という行いは、一体どこから起こってくるのでしょうか。私たちは普段、あまりそのことを深く考えたことはないと思います。しかし聖書は、はっきりとそのことに答えていきます。そもそも、人類の歴史の中で殺人事件が起こるようになったのは、最初の人々が神に背を向け、神抜きで自分の思いを先立たせて生きるようになった、その直後からであることを、聖書は告げています。聖書の中の最初の殺人事件は、創世記4章に出てきます。最初の人アダムとエバ、その子どもであるカインとアベル、兄であるカインが弟のアベルを殺したこと、これが最初の殺人です。
それに先立つ創世記1章2章では、神の天地創造の御業が語られています。神は、まず時間・空間をお作りなり、私たちの生きる世界を一つ一つ整えてくださり、そしてその際に、ご自分が創られたもの一つ一つをご覧になって「良し」とされました。神はこの世界を良いものとしてお創りになったのです。ところが3章になりますと、最初の人アダムとエバが神に背を向けてしまう出来事が語られます。神は2人をエデンの園に住まわせ、「園にあるどの木から食べてもよいが、中央にある木からだけは食べてはいけない」と言われました。神は、園の中で2人が自由に生きていけるように十分に備えてくださっているのですが、選りによって2人は、食べてはいけないと言われた、たった一本の木から実を取り、まずアダムが食べ、エバにも渡しました。2人がこのように「善悪を知る木の実」を食べてしまったために、罪の出来事が生まれました。創世記3章は、1・2章で神が創られたすべてを良きものとしてくださったその流れの中に、人間によって初めて違う流れが持ち込まれてしまう、そういうことが語られる箇所です。神がすべてを良きものとして創られたにも拘らず、創られた人間が神に背を向けて、良いと言えないものを持ち込んでしまったために、続く3章でカインとアベルの出来事が起こるのです。
ですから、どうして殺人が起こるのかということは、聖書においては、「人間が神に背き神との関係を断ち切ってしまったために、肉親や隣人との関係が歪んでしまった、その直接の結果として起こる」のだと語られます。
神に背を向け、神を愛さなくなると、自分の思いが第一で、自分の思いが満足することが人生の目的だと考えるようになります。そうなると、人は、隣に生きている人たちのことを「神が良きものとしてお創りになった存在だ」と思うことができなくなります。神が私たち一人ひとりを愛してくださっている、そして自分も神を愛している、そういう神と自分との間の信頼の交わりきちんとしている時には、自分や隣人の存在を「一人ひとりが神に愛されている存在である」と受け止めることができるのですが、神との交わりを失うと、自己実現が人生の目的になって、隣人は神に愛されている存在だと思うよりも、自己実現のための道具と考えたり、あるいは自己実現を邪魔する者と思えてくるのです。そして、自分がそう思っているのですから、相手もそう思っているに違いないと考え始めて、隣人への不安や恐れ、あるいは隣人を軽く見る嘲りの気持ちというものが生まれてくるのです。そして、「殺人」というのは、そういう人間の孤独なあり方が極限の形をもって現れたものなのです。
最近報道された殺人事件の中で、スーパーで何人もの人を殺した犯人が逮捕された時に、「自分は生きていても仕方ない。死刑にされたくて人を殺しました」と語ったことが伝えられていました。その人はとても孤独なのです。本当は、その人はここまで多くの人に支えられて生きてきたはずなのに、そのことが分からなくなっているのです。人生は自分の思い通りに生きるものと思っているにも拘らず、実際にはそうは生きられない。周りの人との関わりが全て切れてしまっている。ではもう生きていても仕方ないから死にたいけれど、むしゃくしゃしているから誰かを巻き添えにして死のう…
おそらく、今の時代の問題として学校教育があると思います。今の学校では、自分の思いが達成されることが人生の目的なのだというような教育をしているからです。「あなたの夢は何? 思い通りに生きることが人生の目的なんだよ」と子どもの頃から、皆、そう教育されています。しかし、本当にそうなのだろうかということを、キリスト者は真剣に考えなければなりません。自己実現が本当に人生の意味なのか。それよりも大きな意味があるのではないか。「このわたしを創ってくださった方の御心が、この世界に実現していくこと。そしてそのお方の喜びがこの世界の中に現される、そのことに仕えていくために、私たちは創られているのだ」ということを、キリスト者は弁えていなければならないと思います。
いずれにせよ、殺人は、その起こった出来事だけが問題なのではありません。聖書の中で問題にされていること、それは、結果として殺人に至るまでの経過です。人間が神との関係を断ち切って自分の思い通りに生きたいと思っているということ、それが問題なのです。
主イエスは、そういう事情をよく分かっておられるので、「殺すな」という戒めについて、殺人そのものを起こさなければ良いと考えることでは十分ではなく、それよりも、思いが募れば殺人に繋がりかねない人間の中に芽生える憎しみとか、隣人を侮蔑するような言葉に注意を向けられます。人間の目には、殺人の出来事と、隣人を憎しむとか侮蔑するという少しの心の思いとは、別々の事であると映るかもしれません。しかし、人間がそう思ったとしても、その両方は根っこのところでは一つに繋がっているのだと、主イエスは考えておられます。主イエスは、人間には見えないところに目を注がれます。そして、22節「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」と言われました。
主イエスは殺人という最悪の結末だけではなく、その始まりのところから問題になさっておられます。人間の心の思い、あるいは、手を下すに至る前の口を衝いて出る言葉の一つ一つを問題にされます。「兄弟に腹を立てる者」、つまり一緒に生きる兄弟姉妹に憤ったり憎しみを募らせる、けれどもそれは心の中の思いですから行動には表れていないのですが、しかし、そういう人は「裁判所で裁きを受けることになる」とおっしゃるのです。
これは聖書の言葉ですから、そういうものかと思って私たちは何となく聞き流してしまうのですが、主イエスはここで、明らかに、私たちの生活感覚とは違うことをおっしゃっています。普段、私たちが裁判沙汰になると考えるのは、誰かの悪意ある行動や不用意な行いによって、実際に他者の不利益なることが生じたり、また社会の中の安心・安全が脅かされる時であり、その出来事を裁くのだと考えます。心の中の思いや考えが裁かれるなどとは、思っていません。もし本当に、私たちが日々に抱く思いとか暗い考えがいちいち取り上げられて裁かれるとしたら、国中にいくつ裁判所があっても、裁判官がいても足りないことでしょう。
自分の心の中のことは誰にも分からないし、ましてや裁かれることはないと、私たちはそう思っています。しかし、主イエスは違います。主は、一人ひとりの心の中を見透かされます。そして「兄弟に腹を立てる者はきっと裁きを受けることになる」と警告なさるのです。なぜでしょうか。
私たちはしばしば、心の中に暗い思いや考えが浮かぶ時には、それを放置して、募らせていってしまうということがあります。その心の中の暗い思いが重なっていくと、次にどうなるでしょうか。まるで、ガスタンクの中にどんどんと悪いガスが送り込まれて内部の圧力が上がってしまうように、やがて充満した不満の思いが出口を探して、堰を切ったように流れ出すのです。そこに嘲りや罵り、あるいは呪いの言葉が口を衝いて出てくるようになるのです。「『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」とありますが、「ばか」「愚か者」という2つの言葉だけがいけないのではありません。悪態や相手を呪う言葉はいくつでもありますから、そういう全体のことが考えられています。一度でもそういう言葉が口を衝いて出てくるならば、それはもう心の中のことではないので、公のこととなり「最高法院に引き渡され」、またさらにそれでもなお悪態を言い続けるならば、その人はもはや裁判ではっきりと有罪が確定して「火の地獄に投げ込まれる」と、主イエスは言っておられるのです。繰り返しになりますが、「ばか」「愚か者」という言葉が問題なのではありません。「ばか」「愚か者」に程度の差があるのでもなく、そういう言葉が重なっていった時に、私たちはどんどん神から離れてしまい、神から捨てられて、火の地獄に投げ込まれる方に近づいていくのだという警告がされているのです。
神の御前での裁きの際には、行いの結果だけが裁かれるのではなくて、言葉や心のあり方が問題にされるのだと、主イエスはここで弟子たちに教えられました。しかし、そうはっきりと主イエスから申し渡されてしまいますと、率直に言えば、私たちは困ってしまいます。「人を殺すな」と言われるのであれば、「それなら、大丈夫かな」と思えるでしょう。けれども、例えば「悪態や呪いの言葉を口にする」とか、「隣人に対して悪い思いを抱く」ということまでが問題にされて裁かれるということであれば、私たちは結局、裁かれる他ない者であり、神の恵みを受け継ぐことなどできようはずがありません。私たちは、行いで上辺を取り繕うことはできても、自分の心の奥底までを清らかに保つことができるのでしょうか。それはできないのです。一人ひとりの内にある自己中心の罪が、清らかにあろうとする邪魔立てするのです。使徒パウロは「わたしは、なんと惨めな人間だろう。神に喜ばれる生き方をしたいのに、肉の思いがそこから遠ざける」とローマの信徒への手紙において嘆いています。
主イエスは、律法学者やファリサイ派の人たちのあり方を見て、ああいうあり方では決して神と共に生きることはできないと教えられましたが、それはまさに、私たち人間の中には、そういう部分があるからなのです。私たちがどんなに「神に従って生きたい」と願っても、そのために聖書を熟読して、例えば聖書を暗記していたとしても、だからと言って、私たちが罪から離れることができるわけではありません。御言葉に深く感銘を受けたとしても、私たちのうちに次々と生まれてくる自分中心の思いというものをどうすることもできないのです。それは、畑に生えてくる雑草を抜くことはできるけれども、根絶やしにすることはできないのと同じです。私たちは、日ごとに時間ごとに自己中心な思いが頭をもたげて、神から離れていってしまうのです。私たちの中には、抜きがたく罪が根を張っています。繰り返し繰り返し、暗い心、悪い思いが立ち上がってくる。そしてそれを放置すると、畑と同じことになって棘だらけになり、そして自分を傷つけ隣人を傷つけることになっていくのです。それでもそれを放置すると、さらに荒んでしまって、もはや畑とは言えなくなってしまいます。
主イエスが律法学者やファリサイ派の人たちの義について教えられたのは、今のような事情があるからです。人間の思いで聖書の言葉を学び、少し良い考えに染まってみたいと思ったとしても、私たちはそうならないのです。
しかし、そうであるとすると、私たちは結局、自分中心にしか生きられず、罪を克服することができない、神と共に生きられないのでしょうか。今日の箇所で、主イエスは、到底私たちが実現できないような難しいことを要求なさっているのでしょうか。そうではありません。主イエスがここでおっしゃっている、心の奥底まで清らかであるような正しさは、もちろん、人間には実現できません。しかし、人にはできなくても、神は実現することがおできになるのです。神が、真実に清らかで決して誰も傷つけず、まことの愛に生きる、そういう正しいあり方をなさるお方をこの地上に送ってくださって、私たちの間を生きるようにしてくださいました。そのお方は、弟子たちが無理解なためにその方を裏切っても、事柄を理解しなくても、決して怒らず、根気強く辛抱強く、神に喜ばれるあり方を教えてくださるのです。私たちが、神の御心よりも自分の思いを先立たせてしまう者であることを教え、言葉によって照らしてくださりながら、「わたしが一緒に生きてあげるから、わたしについて来るならば、自分中心な呪われたあり方、神なき孤独な者となって滅んでしまう、そういう生活から離れることができる。だからわたしに従って来なさい」と言ってくださるのです。
主イエスの「わたしに従って来なさい」との招きは、私たちが信頼するに足る招きです。どうしてでしょうか。この方は、ご自身が十字架にかかって私たちの罪の報いをその身に受けて、すべてを既に精算してくださっているからです。私たち自身は、思いでも言葉でも行いにおいても常に過ちやすく、破れた歩みを積み重ねている者です。その結果として、私たちは絶えず神の前に訴えられ、最高法院において罪を断罪され、裁きを受けて火の地獄の中に投げ込まれても仕方がない者です。しかし、そういう神の裁きは既に済まされているのです。新約聖書が知らせているのは、このことです。
人間の自己中心ゆえの罪は裁かれなければないけれど、その裁きは既に主イエス・キリストが身代わりとなって引き受けてくださったと語られている、だからこそ教会は2000年の間、その福音を宣べ伝えつつ、この地上に立ち続けているのです。
主イエスは、ご自身が人の重大な罪をすべて引き受けたお方として、「わたしに従って来なさい。わたしがあなたの罪を清算したのだから、あなたは、たとえこの地上の暮らしがどんなに困難だとしても、真実に清められた者として生きることができるのだ」と、招いてくださるのです。「あなたが自分の罪に沈み込んでしまいそうになる時には、わたしが言葉を与え、引き上げてあげるから、わたしを信じて従って来なさい」と言ってくださるのです。
さて、「主イエス・キリストによって罪を完全に清算された者として、主イエスに贖われた者として生きていく」、そういうキリスト者たちの生活態度には、それまでとは違うあり方が見えてくるようになります。主イエスはそれを、今日のところで2つの方向から教えておられます。
最初は、人が神に感謝し、神に仕えて生きようとする、その生活が真実なものになるように努力する思いが生まれてくるのだと言われます。23節24節「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」と言われます。「供え物を献げようとし」とは、私たちが神に感謝する、そのしるしとして自分自身を献げるのですが、それは私たちの献金であるとか、あるいは敬虔な行い、あるいは感謝ゆえに神の前に正しくあろうとするあり方ということでしょう。それを、ただ「献げる」ということだけで言うならば、私たちと兄弟姉妹との間に破れがあろうがなかろうが、献げることはできるに違いありません。けれども、「あなたは、ただ自分だけが神に仕えているというあり方をするのではなく、そこで兄弟姉妹との交わりの破れに気づいたならば、それを何とかして修復しようとするはずだ。何とか相手と仲直りしてから、その上で、神に仕える者になりたいという思いが芽生えるようになる」と教えられています。そして、そういう新しいあり方は、神に向かっていく敬虔さだけではなく、直に隣人との間柄にも、その影響が現れます。「破れがあっても仕方ない、それが人間関係だから…」などとは言わなくなるのです。主イエスによって救われたことを信じる人は、隣人とのあり方も変わるのです。
25節26節には「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」と言われます。これだけを聞きますと脅かしの言葉のように聞こえますが、しかしよく読んでみますと、22節と同じことを言っていることに気づきます。22節では裁きについて、「訴えられ、最高法院で裁かれ、火に投げ込まれる」と3重の言い方がされていました。ここでは隣人との和解について、「自分を訴えている人と和解しないままで放っておくと、裁判官に引き渡され、また下役に引き渡され、牢に入れられて、最後の一クァドランスを返すまでそこを出られない」と言っています。律法学者やファリサイ派の人たちのように、自分の正しさを満たそうとしている時、人は、隣人と和解することはできません。聖書の御言葉を聞いて、自分が少し利口になったようなつもりになり、また、良い話を聞いて少しだけ優しい気持ちになれたような気になることがあるかもしれません。けれども、直後にはマラ、私たちは雑草が芽を吹くように自分中心の思いが頭をもたげて、隣人との間柄が険しくなるのです。
「主イエスが罪を清算してくださって、今ここに生きる者とされている」、そのことを信じる人は、自分が本当の和解を諦めていたということへの恐れが生まれてくることになります。もちろん、隣人との和解というのは、自分一人でできることではありません。特にはっきりと反目し合っているような場合には、相手を許すことも難しいですが、相手が許してくれるかどうかも分かりません。相手が許してくれないかもしれないと思うと、私たちの心も萎えるのです。相手が許してくれると分かっていれば、こちらも許そうという気持ちを保っていることができるかもしれません。和解はなかなか容易にはできないのです。
しかしそれでも、反目は仕方がないから諦めて生きていくということではなくて、「何とか隣人と和解して、もう一度一緒に生きよう」という態度が生まれるのです。
このように、「罪赦された者として生きようとする人には、神に対してと隣人に対して、それまでと違ったあり方が見られる」と主イエスは言われましたが、どうしてそう言われたのかには理由があります。それは、人間の罪がもともと神に対して犯した罪だったからです。神との関係が断絶したために人間同士の関係が歪んでしまう、そこで罪が現れるからです。つまり、主イエスが真実な赦しに私たちを結んでくださって、「わたしがあなたたちを赦したのだから、あなたの罪は清算されているのだから、それを信じて生きて良い。わたしに従って来なさい」と言ってくださる言葉を信じて生きるようになる時には、私たちの神に対するあり方と隣人に対するあり方の両方が新しくされていくのです。私たちは、主イエス・キリストの十字架によって執り成しを受けています。そして、「本当に新しくされた者であることを信じて良いのだよ」と呼びかけられているのです。
私たちは、真剣に神と隣人とに仕えていくようになる時に、神の平和を生み出す者とされていきます。神の喜びがこの地上に満ち溢れていく、そのために働く者として、私たちが用いられていくようになるのです。
自分の思いが実現されるのではなくて、神の平和がこの地上に実現され、神の喜びに仕えて生きる、そのような者とされることを心から願いながら、ここからまた、新しい一周りへと送り出されたいと願うのです。 |