ただ今、マタイによる福音書5章17節から20節までをご一緒にお聞きしました。17節「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と、主イエスは言われました。
「律法や預言者」というのは、当時の聖書を言い表す言葉です。今日では、旧約聖書と新約聖書を聖書全体としますが、それは、「新約聖書」が新しい約束としてできたために、それまでの聖書が古い約束として「旧約聖書」と呼ばれるようになったのです。新約聖書に語られていることは「主イエス・キリスト」ですから、主イエスが地上で活動しておられる間は、新約聖書はまだ文書として纏められておらず、ですから、この当時には新約聖書がありません。今で言う旧約聖書は、単に「聖書」とか、「律法や預言者」と呼ばれていました。
主イエスはここで、ご自分がおいでになったのは、「旧約聖書の中に教えられている教えが廃止されたり、無意味なものにされるわけではない。むしろ、完成させるためである」とおっしゃっています。「旧約聖書の教えが主イエスによって完成される」とは、どういうことなのでしょうか。
主イエス以前、または同時代のユダヤ人の中には、熱心に聖書を研究し、神に喜ばれる人生を送りたいと願っていた人たちがいました。聖書の中でファリサイ派と呼ばれる人たちです。「ファリサイ」の元々の意味は「分離する」という意味です。この世の大方の人たちは、神を信じ神に従って生きると口では言っていても、どこかに妥協やごまかしが入り込んできてこの世の風潮に流されてしまうのですが、そのような、言わばぬるま湯に浸かっているような信仰生活とはっきり決別して、「わたしは聖書の言葉を自分の生活に厳密に適用させて生きていく。そのために聖書の言葉を研究して、神に従って生きる生活をするとどうなるのか確かめる」と言って、聖書的生活を自ら選び取っていた人たち、それがファリサイ派の人たちです。この世に蔓延している生ぬるい生き方から、自ら分離して神に従って生きる、そういう意味でファリサイ派と名乗っていました。
新約聖書の特に福音書の中によく出てくるファリサイ派の人たちというのは、大方、主イエスの敵として登場しますから、聖書に親しんでいる者にとっては、あまり良い印象はありません。実際、主イエスの十字架への陰謀にも加担する人たちです。しかしそれは、福音書の記事を通してしか彼らを見ていないからかもしれません。もし私たちの時代にもファリサイ派のような人がいたとすれば、彼らを尊敬するのではないかと思います。本当に立派で真面目な信仰者だと思うかもしれません。真剣に聖書を読み、聖書に戒められていることを行うにはどうしたらよいかを常に考え、実行しようとする。ファリサイ派の人たちは聖書の通りに生きようとして、聖書に記されている掟に従って、自分の生活について613のチェックポイントを持っていたと言われています。
ただし、普通の人であれば、いくら熱意があっても、613もの掟を覚えていることはできません。それで、掟について教えてくれる人を頼りにしました。掟について学び、聖書的生活とはこういうことだと説明してくれる人、それがファリサイ派の人たちと並んで新約聖書によく登場する「律法学者」と呼ばれる人たちです。律法学者が教えた相手はファリサイ派だけではなく、皆に教えたのですが、そういう言葉に喜んで耳を傾け生活しようとしたのは、圧倒的にファリサイ派の人たちでした。そして、そういうファリサイ派と律法学者のようなあり方に対して、一般のユダヤ人たちはどう思っていたかといえば、「とても自分たちはファリサイ派の人たちのようにはなれないけれど、ファリサイ派の人たちは立派な人たちだ」と一目置いていたのです。サンヘドリンと呼ばれたユダヤの最高法院の議員の中にはファリサイ派の人たちが大勢いましたが、それは、当時のユダヤ人社会の中で、彼らが認められていたからです。彼らは、同時代のユダヤ人たちからは尊敬され、歓迎された人たち、主イエスの時代においての良識派を自認するような人たちでした。
しかし、主イエスは、ファリサイ派の人たちのあり方をどのようにご覧になっていたでしょうか。聖書を熱心に学び生きようとする、そういうファリサイ派や律法学者たちのあり方を、主イエスははっきり批判し、ばっさり切り捨てるようなことをおっしゃっています。今日の箇所でも、20節に「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われました。これは裏返して言えば、「律法学者やファリサイ派の人たちの義では、決して神に受け入れられることはない」ということです。当時のユダヤ人社会の中で最も良識派であり、聖書に熱心で、他者から尊敬を受けていた人たち、そういう人たちの正しさは、神に受け入れていただくためには十分ではない。「わたしの弟子であるあなたたちの義、正しさが、律法学者やファリサイ派と同じ程度なら、神には決して受け入れてもらえないのだよ」と、主ははっきりと言っておられます。
ここには書かれていませんが、これを聞いたファリサイ派の人たちは怒ったと思います。自分に足りないと思っていること、弱点を批判、非難されたのであれば、口惜しくはあっても、一方では認めざるを得ないこともあると思います。ところが、主イエスは、ファリサイ派の人たちが一番誇らしく強いと思っていることを非難されました。神に喜んでいただくために、聖書を熱心に学び考え実践している。自分たちほど誠実に神の言葉に従っている者は他にはいないと思っている。しかし主イエスは、そういうあり方を全否定し、決して神に受け入れられないとおっしゃるのです。
どうしてそこまで言われるのでしょうか。主イエスがそこで問題にしておられる事柄が、「律法と預言者の完成」ということの一点にあるからです。17節を端的に言えば「わたしが来たのは律法や預言者を完成するためである」、つまり「旧約聖書に書かれていることを完成するために来たのだ」と言っておられるのです。では、「旧約聖書の完成」とはどういうことでしょうか。ファリサイ派の人たちからすれば、聖書を丹念に読み、実践すること、それが完成だと思っていました。それは一般的な感覚だと思います。私たちであっても、神に喜ばれる生活をするためには、聖書を毎日一生懸命読み、御言葉を心の中に蓄えて生きれば良いのではないかと考えるでしょう。聖書の中で求められていることを行うことが完成することではないのか。しかし主イエスは、そうはお考えにならないのです。
そもそも、旧約聖書全体が問題にしていることとは何でしょうか。旧約聖書は大変分厚い書物ですから、これを一言で要約することは容易ではありませんが、それを敢えて一言で言うならば、「人間の罪とその克服」について語ろうとしているのです。「罪の克服」と唐突に言われても理解し難いかもしれませんが、しかし、旧約聖書の冒頭に書かれていることを思い起こしてみますと、かなりはっきりとイメージできるのではないかと思います。
旧約聖書の冒頭は、創世記です。創世記の最初には、神がこの世界を造られた天地創造の出来事が語られています。神はまず闇の中に「光」を造られました。そして光と闇が繰り返す中で、「時間」を造られ、それから「空間」を造られました。その「時間」と「空間」の中に、私たちの住む世界を造り、そこに生きる生物を造り、そして6日目に「人」を造られました。神は天地創造の業を終えられて、7日目に安息されました。7日目は、神が創造の業を終えて、単に休まれた日ということではありません。神は創造の業の一日毎に、お造りになったものをご覧になって「良かった」と繰り返し言われました。神はお造りなった一つ一つを良いものとしてお造りになったのです。ですから7日目は、「神が、お造りになったすべてのものを見て、この世界に共に生きていることを喜んでくださる日」なのです。その神の喜びに、造られたもの皆が加わって、共に神の喜びを喜ぶ日なのです。
聖書が言っていることによれば、人は、神の喜びの中にある者としてこの地上に置かれていることを感謝して生きる、そういう者として造られているのです。それが創世記の冒頭に語られていることです。
人は、神の喜びを最も主体的に生きるために造られました。神と同じように、自分から自発的に物事を考え行動するようにお造りになったのです。ただ本能のように神を喜ぶというのではなく、自らの思いで神に造られていることを喜び、神に感謝する、そういうあり方を与えられたのです。ところが、最初に造られたアダムとエバは、神から与えられた主体性を履き違えてしまいました。神が「してはいけない」と言われたことを敢えて行い、そのために、神と結ばれた者して共に地上を生きるはずの者たちが堕落したのだという話が、天地創造の次に語られていることです。具体的には、エデンの園の話です。神は二人に、「園にあるどの木から取って食べても良い。けれども、中央にある善悪を知る木からだけは取って食べてはいけない」と言われましたが、二人はそれを取って食べてしまいました。それは、他に食べるものがなく止むに止まれず食べてしまったということではありません。自分の思いで食べてしまったために、二人は、神に従う生き方を止めてしまって、自らが神のような生き方になってしまうのです。自分がこの世界の造り主であるかのようになって、すべてのことを自分で判断するようになるのです。
ですから、この時以来、人間にはそういう傾きがあるようになってしまいました。それは確かに、自分に照らし合わせてみますと分かります。私たちは、神に造られた者としてこの人生を感謝して、常に神を思いながら生きているかと言いますと、そうではなくて、大方の時間を、神を忘れて暮らしています。自分が神によって造られたことさえ忘れて、自分で何もかもできるかのように生きています。人は誰一人、自分で生まれてきた者はいないのに、自分の意志で生まれてきて、自分でこの人生を歩んでいるかのように思っています。それは子供であっても同じで、子供でありながら何もかも分かっているつもりで生きています。「人間は神との繋がりを自ら断ち切り、自分が神のようになってしまっている」、それが聖書の語っていることなのです。
私たちは本来、神によって造られた者として、神の御言葉を聞き分けて、「この木以外であれば、どれを取って食べても良いよ」と言われたことに従っていれば、与えられた園の木の実を存分に味わって「神さま、ありがとうございます」と感謝しながら、自発的に神を賛美しながら生きることもできたはずです。しかし、アダムとエバは、与えられている主体性を間違って用いてしまったために、「善悪を知る木」から取って食べ、神のように善悪を判断しながら生きることになったのです。しかし、人が善悪を判断して生きるようになると、どうなったでしょうか。何でも自分で判断できるのだからと喜んでいるかといえば、そうではありません。なぜならば、神のようであっても、人は神ではないからです。神に造られ、この世界に置かれている者に過ぎないのに、意志だけ、思いだけ神になって、何でも思い通りにしたいと思うのです。けれども、人には限界があって思い通りにはなりません。思い通りにならなければ、人はだんだんと不機嫌になります。神は私たちを、命の恵みを喜んで生きることができるようにと造ってくださったのに、私たちはそう生きられないのです。
神との繋がりの中で造られたにも拘らず、神との繋がりを自ら断ち切り、自分自身が神となり、自分の思いが人生の目的であるかのように思ってしまう、そう生きてしまうあり方を、聖書は大変重々しい言葉で「罪」と呼ぶのです。
そして、それはキリスト者であっても同じです。私たちは、気がつくといつも、神抜きで、自分の様々な思いを持って生活をしています。そして、そう言われればそうだったと思います。しかしそれは、神から呼びかけられているからです。この世の中には、神を知らずに一生を終える人も大勢います。そういう人たちは、自分が神によって生かされているなどとは思わずに、自分の人生は自己実現のためにあると思って生きるのです。しかし、聖書は、人間の生き方はそうではないと呼びかけているのです。
聖書が語っていることは何なのか。冒頭に語られているように、人が神から離れ、神抜きで生きるようになってしまって、そこで神が諦めてしまったならば、創世記の4章あたりで終わってしまうのですが、実際にはそこから長い話が続きます。「神に背を向けた人間を、それでも神はお見捨てにならなかった」という話が続くのです。神がどのようにして、神に背を向けた人間をご自身との交わりの中に回復させ、人間が心から自発的に神に感謝し与えられた命を生きるようになるかとお考えになって、様々な仕方で人間に出会おうとしてくださったのだということが、旧約聖書には面々と語られています。
例えば、アブラハムという人と家族を選んで、この人たちにご自身を表してくださって、「わたしはあなたの主である。あなたたち一代限りでなく、子孫に至るまで持ち運ぶ」と約束してくださいました。なぜアブラハムの家族だけが神に選ばれたのかと思われるかもしれませんが、しかしそれは、アブラハムの姿を見て周りの人たちが自発的に神に従って生きるようになるためなのです。神はどこまでも、人間の自発性を重んじてくださいます。神の民とされたアブラハムの一族を神が真実に持ち運んでくださったが故に、イサク、ヤコブと続くイスラエルの民は広がり、持ち運ばれてきたのです。
あるいは、そのような神の民がエジプトで奴隷の身になった時、民は奴隷として苦しい生活を余儀なくされるですが、そこで神はモーセを選び用いてそこから導き出してくださった、出エジプトの物語があります。そして、そのようにして導き出した後に、神がなさったことは、イスラエルに「十戒」を与えることでした。「わたしは、目には見えなくても、あなたたちと共にいる。わたしの与える言葉を聞いて、わたしが共にいることを信じて生きていきなさい」と言って、イスラエルに十戒を与えてくださったのです。
またその更に後の時代には、イスラエルが一つの群れになって神に仕えて生きることができるように、イスラエルの民の中から「王」を立ててくださいました。人間の王を考えますと、人間が人間を支配するということが多いのですが、聖書に出てくる王は、世の中の王とは少し違うところがあります。イスラエルの王は、神の御言葉を聞いて神の民として相応しく生きていけるようにきちっと纏めて導いていくのが務めでした。
このように、神がさまざまな仕方で、人間が神の元に立ち返ることができるようにと働きかけてくださったことが旧約聖書には語られているのですが、ところが同時に、そういう神の側からのなさり用がことごとく上手くいかないということも語られていて、それが聖書に記されている神の民イスラエルの歴史なのです。神の側では、人間が自発的に神に立ち返って従順に生きられるようにと、さまざまな手がかりを与えてくださるのですが、しかし人間はそのたびに、神に従順にはなれません。律法と預言者を与えて神の御心を教えてくださっている、にも拘らず、そのことにおいてすら、人間は自分の立派さを誇りたがるのです。それがファリサイ派の人たちのあり方でした。「神が私たちを恵みのもとに連れ帰ろうとして、私たちに御言葉を与えてくださった」と心から感謝して平らな思いで生きれば良いのに、横を見て、周りは生ぬるいと他者を批判し、あのようにはならないようにしようと懸命に律法を守り、そして、あたかも自分が律法を守っていることが自分の長所のように思って高ぶってしまったのです。人の命は、神が聖書を与えてくださって、「あなたはこう生きなさい」と言ってくださる招きの中にあるもの、贈り物として与えられているものであるのに、人はそれを初めから自分のものであるかのように生きてしまうのです。
本来であれば、律法も預言者も神の御心を人間に伝えて、神に立ち返るための手がかりになるはずのものでした。神が忍耐を持って人間を立ち返らせようとしてくださった歴史が記されているのです。しかしそれでも、人間は平らな思いで神に立ち返ることができなかったのです。
主イエス・キリストは、そういう旧約聖書に描かれている内容をすべて完成させるためにおいでになったのだと、ここに言われています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。
「完成するためである」という言葉は、大変重要な言葉です。「完成する」とは、ただ旧約聖書に教えられている戒律、掟をすべて守る、満たすということだけを言っているのではありません。そうではなくて、旧約聖書において神が伝えようとしておられることを飽和状態になるまで行なって、そして新しい状態に変わっていく、展開していくということが言われています。今求められていることを全部行えば完成するというのではないのです。そうではなくて、今ある状態が克服されていく、新しい状態に展開していくということです。
神が願っておられることは何でしょうか。罪に堕ちた人間が、ただ言われていることを行えば救われるということではありません。どうすれば本当に神との関係に自分から立ち返って、自分の命を喜び、この世界で神と隣人に仕えて生きていけるようになるかということが問題なのです。主イエスは、そのことをもたらすためにこの地上においでになりました。
ですから、主イエスの言われる「完成」というのは、ある古い状態の終わりを示すと同時に、新しいことの始まりを意味するのです。主イエスはこのことを伝えるために、18節で「はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」と言われました。「はっきり言っておく」とは、主イエスが弟子たちに大事なことをおっしゃる時に口癖のように言われる言葉です。ですから大事なことをおっしゃるのですが、それは、「律法にはある限界が設けられている」ということです。「天地が消えうせるまで」が、律法の有効期限なのです。
「天地が消えうせる」時には、どういうことが起こるのでしょうか。私たちにとっては、この地上の生活が終わる時ということになるのでしょうが、その時には、私たちは、この地上では見ることのできない「神の完全な御支配のもとに入れられる」、そういうことが始まるのです。「天の国、神の国」と聖書に記されていることの全容が、私たちの前に立ち現れるのです。私たちが、地上の生活ではなく、地上の生活の先に神が備えてくださっている、神のもとでの真実な生活に生きるものとされる、その時には、もはや「律法はお役御免になるのだ」と、主イエスは教えてくださっているのです。
ところが、その天の国というのは、主イエスがこの地上においでくださったことによって、既にこの地上において実現しています。どうしてでしょうか。主イエスは、この先、十字架にかかって亡くなられます。十字架によって人間の罪をすべて精算して、そして復活によって新しい命を生きる初穂となられるのです。「主イエスは十字架で死に、復活された方」、そういうお方であることを私たちは聖書から知らされ、そして礼拝するのですが、主イエスは私たちと共にこの地上だけを生きておられるのではありません。私たちがこの地上を終えて神の前に立たされる、その時にも、私たちの罪の裁き主として神の前に立ってくださいます。主イエスは、私たちが神の国で永遠の命を生き始めるようになるために復活なさいました。そういうお方としてこの地上に来られたのです。
ですから、主イエスは「律法と預言者を完成するために来た」と言われます。旧約聖書に語られている人間の罪の問題、神に立ち返れないという現実に閉じ込められるのではなく、さらに神が願っておられる新しい状態に至るということが、「このわたしにおいても起こるのだ」ということを、主イエスは教えておられるのです。
主イエスによって、律法と預言者は完成され、新しいものに変えられていきます。神が主イエスを通して、私たちに新しいものをもたらしてくださるのです。それは、主イエスが「わたしがあなたの罪をすべて、十字架において精算したのだ。あなたは新しくされて生きることができるのだ。だからそのことを信じて生きなさい」と、聖書を通して語ってくださるがゆえに、私たちはこの地上において天の国の走りを見せられながら生きる者とされているということです。
キリスト者は、神を信じるようになったのだから、何か目に見えるような変化があるかと言いますと、そういうことはありません。天使のように背中に羽根が生えるわけでもなく、生活そのものは、地上の歩みそのものです。けれどもキリスト者は、この地上の人々の持っていないものを与えられて生きています。それは、「主イエスがこのわたしのために十字架にかかり、わたしの罪を精算してくださった」ということです。もちろん私たちは、神抜きで生きてしまうという罪の根っこを持っていますから、繰り返し繰り返し罪が頭をもたげて、気づくと神抜きで生きてしまって後悔するのですが、しかし同時に私たちは、「それでもわたしは、主イエスによって救い出されて、もう一度、神の前で、ここから生きて良いと言われているのだ」ということを思い出させられるのです。そして、「神が受け入れてくださるのだから、どう生きたら良いか。神に喜ばれる生き方とは何だうか」と考えながら生きるようになるのです。神の御業に感謝し、神の御名を讃えるために、日曜日には集まって礼拝を捧げ、また、礼拝において毎週聖書の御言葉を聞かされながら、神に喜ばれるあり方を考え、行なっていくのです。
ですから、19節で「だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる」と言われています。これは、主イエスによって新しいものに変えられた人たちの中のことです。神との交わりの中には入れられているけれども、しかし、御言葉に従わない者は小さい者なのだということです。これは、ファリサイ派の人たちの義が、それだけでは天の国に入れないということと同じことではないのです。自分の行いが十分であれば神の国に入れるということではない。キリスト者は、自分の行いを誇るのではなく、「主イエスがこのわたしのために死んでくださった。その贖いの恵みの中に生かされているのだから、もう一度ここから新しく、神を信じて生きて行く」のです。そういう意味で、キリスト者の生活は感謝の生活なのであり、感謝を表すために聖書の御言葉に聞き従って生きるのです。
これは、上辺だけ見ればファリサイ派と同じに見えるかもしれませんが、しかしファリサイ派の人々が聖書に従ったところで、何が大きくなるかと言えば、自分は十分できているという自意識だけが大きくなるのです。
しかし、キリスト者は違います。神の御言葉に従っていきたいと願う時に、私たちがいつも気づくことは、なかなか自分は従えていないということですが、そこで「こんなわたしを主イエスが執り成してくださって、もう一度新しく神に喜ばれる生き方に立ち返らせてくださっているから感謝である」と思う、主イエスと自分の関係のことが大きくなるのです。自分が大きくなるのではなく、私たちを執り成して新しい命へ導いてくださっている主イエス・キリストの贖いの業の大きさと、またどこまでも主イエスが私たちに伴ってくださる恵みへの感謝が、私たちキリスト者の中では大きくなるのです。
私たちが毎週ここで捧げる礼拝は、主イエスの御業を繰り返し聖書から聞かされ、そして「ここからもう一度、自分のこの地上の生活に歩み出して良いのだ。与えられた人生の中で、神が備えてくださる隣人に仕えていくのだ」ということを教えられる、新しいスタートの時です。
神が私たちのための執り成しを、主イエスの十字架を通して完全になしてくださったのだということを、もう一度改めて覚えたいと思います。そして、ここから始まる一周りの歩みも、主イエスの御言葉に聞きながら、心を込めて、私たちの働きを必要としているものに仕える、そういう生活に向かって押し出されていきたいと願うのです。 |