ただ今、マタイによる福音書5章13節から16節までをご一緒にお聞きしました。13節に「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」とあります。
「あなたがたは地の塩である」と主イエスはおっしゃいます。ここで「あなたがた」と呼びかけられているのは、主イエスの前に集まっている弟子たちです。先週はこの直前の11節12節を聞きましたが、主イエスに従おうとする弟子たちは、この世にあっては、丁度歯車の中に挟まった砂粒のように異質なものとして扱われ、軽んじられたり嘲られたりすることがあるのだと教えられていました。この世から不当な扱いを受けて悲しんだり苦しんだり、自分の無力さを痛切に感じさせられている人、この世にあって自分は本当に貧しい者にすぎないと感じさせられている人、けれども、そういう「あなたがた」は、「この世にあって地の塩として働くのだ」と、主イエスはここで語っておられます。
主イエスに招かれて、神を信じ、神に信頼し、神に希望を置いて生きる。弟子たちは、まさにそういうあり方をすることによって、この世の他の人たちが出来ない貢献をこの世に対してする。すなわち、この地上に大勢の人間が生きている中にあって、「神に信頼する人は、塩の働きをするのだ」と言われているのです。
「塩」で言われることの一つは「防腐剤」ですから、この世が腐敗しないように働くのです。冷蔵庫など無かった昔は、生肉を保存するためには、細かく刻んで乾燥させるか、塩漬けにするかでした。干し肉にも塩をまぶす場合がありました。余分な水分を出させて腐敗を遅らせる、塩にはそういう働きがあります。塩が肉を腐りにくくさせるみたいに、キリスト者たちも、教会の頭であるキリストを見上げて、御言葉に聞き従って、弟子として生きていこうとする時には、この世にあって防腐剤のような働きをするのだと主イエスは教えられます。
このことは、この世にキリスト者が一人も居ない社会を考えてみれば分かり易いかもしれません。もし、神に信頼し希望を置いて生きる人がおらず、人が皆、自分の思いによって生きるとすれば、一体どうなるでしょうか。その時には、恐らく、そこに生きる人たちのエネルギーは、自分自身の中から生まれてくる様々な欲求が原動力になるに違いありません。そして、自分たちの欲望に任せていろいろなことが行われると、より力の強い者が弱い者を虐げるということがあるかもしれません。社会はもはや清潔ではなくなって、至る所に騙し合いや汚職や不正が観察されるようになります。もしかすると、信仰を与えられている私たちも、この世に慣れっこになってしまっていて、この世でそういうことがあっても驚かないということがあるかもしれません。
しかし、主イエスに従おうとする弟子たちがいる所では、事情は少し変わってくるのです。主イエスに真心から従おうとする時、その人と共に主イエスが居てくださる。そしてそこでは、世の中の悪い風潮に流されたり支配されたりすることがなくて、正しいことが通用するようになる、そういう方向への動きが生まれるということが起こってくるのです。
「塩」の働きのもう一つは、塩の持つ塩気によって料理の味を引き締め整えるという働きです。よくスープなどを作る時に、最後に塩胡椒で味を整えるということがありますが、まさに、塩を程よく入れると、素材の甘味が生かされながら、全体としてまとまった美味しい料理が出来上がります。そのように、キリスト者たちは、この世にあって、一緒に生きている他の人たちと交わりを持ちながら、程よくこの世に味をつけるという役割を与えられています。その場合、地の塩である者が自分だけを主張するということはあり得ません。塩というのは防腐剤の役割を果たすのだから、塩こそが大事で、塩をどんどん入れれば良いということになれば、料理は塩辛くてとても食べられたものではありません。塩はそのように味付けには必要ですし、私たちが生きる上で必要なものですが、しかし、塩そのものが食物になるのではありません。むしろ、様々な食材の中にあって自分は姿を消しながら、防腐や味付けの役割を果たすのです。そして、キリスト者はこの世にあって、そういうものになるのだと主イエスは言われます。キリスト者自身は、この世と異質な部分があるがゆえに、この世から邪魔者にされたり無視されたり、軽んじられたり不当に扱われることがありますが、しかし、そうでありながら、キリスト者はこの世にあってなお、働くべき働きがあるのだと、主イエスは教えておられるのです。
弟子たちに対するこの主の教えは、「あなたたちが塩になれ」あるいは「塩らしく、塩のように行動しなさい」ということはありません。そうではなくて、主イエスに真心から従おうとする者は、そのあり方をすることによって、「あなたたちは、塩なのだ」と言われるのです。
ではどうして、主イエスに従おうとする者が「地の塩」になるのでしょうか。それは、主イエス・キリストというお方ご自身が、真実な塩であるからに他なりません。「わたしに従って来なさい」と弟子たちを招かれた主イエスご自身は、どこに向かわれたのでしょうか。エルサレム郊外の「十字架」を目指して歩まれました。その主イエスの十字架への歩みこそが、この世が腐敗して完全に滅んでしまわないようにするための歩みでした。主イエスは十字架の上で、私たちの罪を背負って苦しみ、罪を清算してくださいました。
主に従う弟子というのは、たとえその歩みがどんなに不束であったとしても、また時には主イエスを忘れてしまう不確かな者であったとしても、それでも、主イエスが私たちのために十字架にかかってくださったのだということは信じているに違いありません。そしてまた、その主の御業を、礼拝を捧げるたびに思い出させられるということも確かです。
私たちが週ごとに礼拝に集い、そこで繰り返し繰り返し思い起こさせられていることは何なのでしょうか。礼拝に集う度に、「この一週間、主イエスに従う歩みがよくできた。自分を褒めたいくらいだ」などと思う人はいらっしゃらないことでしょう。礼拝に集う時、私たちには覚えることがあります。それは、「自分はこの一週間、主イエスを忘れて生活することが多かった」ということです。「主イエス抜きで歩んでしまった」ということを、私たちは、ここに来て思い出すのです。そして、「そういうわたしだけれど、今、神を礼拝する民に加えられ、神の前に立たされているのだ」ということを、礼拝毎に思い起こさせられるのです。
もし、この礼拝が私たちの生活から失われてしまったらどうなるでしょうか。恐らくその時には、私たちは自分が神抜きで生きているということに鈍感になっていくのだろうと思います。そして、神抜きでいることに気づかなくなっているのに、時折、神を思い出すことがあると、「ああ、やはり自分は神のものだ」と、まるで神が共にいるような気になり、より一層、神から離れた生活をするようになるのです。神抜きで生きるということは、自分の思いで生きることが当たり前ということです。自己実現のために生きるのです。ですから、自分の思いが実現されないと不機嫌になり、周りの人に荒い言葉を吐いたり、つれない仕打ちをして悲しませたり傷つけてしまう、そういう仕方によって何が起こるのかと言えば、この世は滅んでいくのです。共に生きるべきはずの者同士が争い、共に生きるどころか、他者に警戒しながら、自分が潰されないように自分を守ろうとして、皆が孤独になり、やがて、生きていく意味が分からなくなり、滅んでいくのです。
しかし、キリスト者は、そういうあり方から守られます。礼拝に集められ、この場所から、繰り返し繰り返し、「神から離れてしまった」ことを、そして同時に、そういう私たちのために「神は主イエス・キリストを送ってくださったのだ」ということを思い起こさせられるのです。私たちが神から離れてしまったためにもたらした罪の結果をその身にすべて引き受けて、主イエスは十字架にかかり、罪を精算してくださいました。私たちは「ここからもう一度生きて良いのだ」ということを、主イエスの十字架の前に立たされて初めて、しみじみと思い起こすことができるのです。そして「ここからまた、神の民の一人として生きていこう」という思いが与えられるのです。
キリスト者がそういう生活をしていく時に、この世にあって塩の働きが現れてきます。「地の塩」としての生活というのは、決して押し付けがましいものではないと思います。塩であるキリスト者がこれ見よがしに、自分たちこそ正しさの家元であるかのような顔をして他者を指導するということではありません。そうではなくて、「神を忘れて生きてしまったのだ」とまず自分が思い起こし、自分に聞かされている主イエスの十字架の赦しを受け止めて、そこで生きるようになる。それこそが、地の塩としての生活なのです。私たちが「何に生かされているのか」ということを、主イエスに示されながら思い起こすことによって、私たちは、「この世界が滅びないように、身を持って支えることができる」、そういう塩としてのあり方を取ることができるようにされるのです。
ところで、主イエスは「あなたがたは地の塩である」と教えられた時に、時として、塩の中から塩気が失われることがあるのだということも教えられました。今日の私たちの生活感覚では、塩から塩気がなくなるということは考えにくいことです。私たちの使っている塩は精錬された純度の高い食卓塩だからですが、主イエスの時代には食卓塩などありません。主イエスがここで「塩」とおっしゃっているものは、不純物をたくさん含んだ岩塩か、岩塩を削った粉
です。塩と言っても、その中にはマグネシウムやカリウムも含み、また塩化ナトリウムも入っていてしょっぱいので、塩と言っていたのです。ですから、そういう岩塩は、保存状態が悪いと、形は変わらなくても、塩化ナトリウム成分は流れ出てしまうということがあったようです。例えば、岩塩を水の中に放置すれば塩分が流れ出てしまいますから、そういう岩塩はもう塩気を失った塩ということになります。主イエスは、弟子たちの生活から、そのように塩気がなくなってしまうことがあることを教えられました。
これは、私たちの信仰生活に置き換えますと、頷けることです。私たちは確かに、主イエスが私たちのために十字架におかかりくださったのだと聞かされ信じる信仰を持っています。けれども、私たちの信仰生活は、例えば食卓塩のような純度100%で、朝起きてから夜寝るまで主イエスのことを考えない時はない、そんな生活かと言えば、そうではありません。弟子たちの信仰生活というのは、食卓塩ではなくて、岩塩の中に不純物と共に含まれている塩のようなものです。そして、私たち自身もそういう歩みをしているのだと思います。いつも私たちの信仰生活というのは、そういうものなのです。どんなに敬虔な信仰生活をしている方であっても、私たちは必ず、主イエスに従うということだけに生きているのではありません。様々なことを考えながら、不純物をたくさん身にまとわせながら生きている中に、しかし「主イエスが確かにわたしを支えて生かしてくださっている」という塩気、信仰を与えられて生きているのです。
私たちは様々なこの世の思いに付きまとわれながら、重荷を抱えながら生きていくのですが、そういう中で、ふとしたはずみに、神への期待、主イエスへの信頼がスポンと抜けてしまうということがあり得るのです。そうすると、それはもはや塩気を失った塩になるということです。私たちは洗礼を受けて、キリスト者であると思っていますが、しかし気づいてみると、神に対してさほどの期待をしていない、ただ自分の生活がこれまで通り平穏に保たれていたらそれで良い。礼拝に来るのも習慣になっているから来るだけ。あまり考えたくありませんが、そうなってしまうということがあり得るのです。そうなってしまえば、その人の信仰はもはや、「神から顧みられないものになる」と主イエスは言われます。
ですから、私たちの信仰というのは、純度の高さが問題ではないと思います。純度の高さではなく、「あるか、ないか」が問題なのだと思います。私たちはどうしても、自分の生活に様々なものをまとわりつかせた中で、信仰生活をします。しかしそういう中にあっても、私たちが信仰を持っているかどうかが問題です。たとえ微かでもよいのです。主イエスは「からしだね一粒の信仰さえあればよい」とおっしゃいました。しかしそれが無いと困るのです。「あなたたちは、地の塩の役割を果たす者だ。そしてその塩気はなくなってはならない」と教えておられるのです。
主イエスは、この同じ事柄を、もう一つの譬えでも教えられます。主に従う弟子たちは「世の光」であると言われました。14節に「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」とあります。「キリスト者は世の光である」とはよく聞く言葉ですが、「世の光である」と言われると、自分たちは光なのだから世の中を明るくしなければならない、世を照らさなければならないと考えるのではないでしょうか。しかし、主イエスが弟子たちにおっしゃっていることは、そういうこととは違っているようです。主イエスは世の光である弟子たちを譬えて、「山の上にある町は、隠れることができない」と言われます。「山の上にある町」というのは、町自体が光源になっているのではありません。町は動けませんから、上から照らされて輝いているのです。自分たちは「山の上にある町」なのだからと言って、懸命に松明を灯して自分で輝こうとするということではありません。上から照らされる光によって明るく輝くことができるのです。ですから、キリスト者が世の光であるということは、元をたどると、「真の世の光であるお方の光に照らされて、その光を照り返す」ということです。
光を照り返すという弟子たちのあり方を、弟子たち自身がどのように語っているでしょうか。エフェソの信徒への手紙の5章8節に「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」とあります。「あなたがたは、以前は暗闇だった」とはっきり言われています。暗闇だったものが光となるのは、自分で光を発しているからではありません。「主に結ばれて、光となっている」とここに言われています。「真の世の光である主イエスに結ばれて、照らされているから、あなたたちは光となっている」と言うのです。山の上にある町は隠れることができず、真の世の光である方によって照らされている。その姿は誰の目からも隠されることなく、皆が見ているところで露わになっていくのです。
「山の上にある町は、隠れることができない」とは、主イエスは随分面白い言い方をなさったと思います。山の上にある町は光に照らされて立派だとおっしゃるのではありません。山の上にある町が立派とは限りません。もちろん城壁に囲まれた堅固な町もあるかもしれませんが、下から見たのでは分からなくても、同じような山の上から眺めれば、城壁が崩れて攻めこめそうな場所もあるかもしれません。また、攻め込まれ戦いに敗れて廃墟になっている、そういう町が照らされているのかもしれません。私たちは、自分自身が照らされることで「立派なのだ」と言われているのではありません。「あなた自身の姿が、上からの光に照らされて露わになっている。そしてそういう姿で世の光になっているのだよ」と主は言っておられます。その町の姿というのは、それぞれの持つ歴史によっています。その町がこれまで、どのように過ごしてきたかによって、その町の今の姿があるのです。
そして、キリスト者一人ひとりもそうです。日曜日に共に礼拝に集っているからと言って、皆が皆、同じ姿で暮らしているわけではありません。その人が生きてきた、これまで持ち運ばれてきた歴史があって、その人らしい姿で、しかし私たちは皆、上からの光に照らされて、今日ここに集められているのです。思い返せば、主イエスの元に招かれた12弟子も様々です。12弟子だからさぞかし立派な人だっただろうとか、いつも主イエスと一緒にいたのだから純度100%の信仰だったのだろうと思って聖書を読みますと、とてもとても、そうは思えません。
嵐の晩に湖の上を歩いてこられる主イエスを見たペトロは、「主がそうなさるのなら、わたしも同じように波の上に立ってみたいと思いますので、主よ、立たせてください」と願いました。主イエスが「よろしい。舟から降りてこちらに来なさい」と言われた時、ペトロは、主イエスのその言葉を聞いて、そのことだけに集中している時には大丈夫だったのですが、ふと周りの風や波に気づくと恐ろしくなり、湖に溺れそうになってしまいます。主イエスに手を差し伸べていただいて、引き上げていただいて、そして「なぜ、疑ったのか。信仰の薄い者よ」と言われます。このようにペトロは決して純度100%の立派な信仰を持っていたわけではありません。
あるいは、ヤコブとヨハネの兄弟は、仲間の弟子たちを出し抜いて、主イエスに「あなたが栄光をお受けになる時には、一人は主の右の座に、もう一人は左の座に着かせてください」と言っています。それは、主イエスの元で立派な者になりたいと思っていたからですが、その2人に主イエスは「わたしが栄光を受けるとはどういうことなのか、あなたたちは何も分かっていない」と言われました。2人は「わたしの飲む杯を飲めるのか」と主イエスに聞かれて、「飲めます」と、何も分からないまま答えます。自分たちは弟子たちの中でも上の方にいたいという思いだけで、そう答えるのです。ヤコブもヨハネも、その信仰によって主イエスに答えているのではありません。むしろ、他者よりも上になりたいという思いが丸出しになって、滑稽なほどです。また、イスカリオテのユダは、弟子たちの中でお金を預かっていた人です。ということは、他から見て、一番信頼できると思われていた人だということです。ところがそのユダが、他の弟子たちに内緒でお金を別のことに流用し、その帳尻合わせのために、銀貨30枚で主イエスを売ってしまうのです。
こういう弟子たちの姿を聖書から聞かされて、私たちは覚えることができると思います。あの弟子たちの姿は、皆、上からの光に照らされているのです。主イエスの弟子たちというのは、時には随分とひどい有様で従っている、いや、従うというよりも付いて行っていると分かります。けれどもまさに、この弟子たちは「山の上の町」なのです。上から照らされて、もうどうしようもなく、「主イエスに従う人間というのはこういう有様なのだ」という姿をさらしてしまうのです。主イエスに従う人の姿というのは、決して麗しいばかりの姿ではないのだということを、聖書は語っています。
しかし実は、そういう何ともサマにならない格好で主イエスに付いて行った弟子たちが、私たちにとっては、私たちの信仰の足元を照らしてくれる松明であり、道しるべになるのです。どうしてかと言えば、私たちは天使ではないからです。もし聖書の中に、主イエスの弟子は常に聖人君主で立派でなければならないと書いてあったとすれば、私たちは誰も、主イエスに付いて行くことはできなくなります。しかし聖書は、主イエスに従う人間というのは、光に照らされるがゆえに随分とみっともなかったり滑稽な姿が出てきてしまうけれども、しかしそれでも、主イエスに導かれて、ほんの微かな信仰によって、時には自分でも無くなってしまったのではないかと思うほどの信仰によってでも、「そのままの姿で辿って良いのだ」ということを、弟子たちの姿を通して私たちに語っているのです。
神は、地上の人間が腐敗して滅びてしまわないように、地上の人の中に「塩」となる人を置いてくださいます。そして、「塩」とされる人たちが道を外れて主イエスから離れてしまわないように、世の光となる弟子たちを置いて、私たちもその弟子の中に連なって良いのだと示してくださるのです。そして、今、そういう光に照らされている私たち自身を、「あなたがたも、世の光なのだよ」と、主イエスはおっしゃるのです。16節に「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とあります。「弟子であるあなたたちは、その立派な行いによって、あなたの光を人々の前で輝かせることになる」と言われています。
ここで「立派な行い」などと言われますと、私たちは自信がなくなってしまいます。主イエスがここで言われる「立派な行い」とは、何のことなのでしょうか。強い信仰によって幾多の試練を乗り越えて、私たちがこの地上で大きな事業を成し遂げることでしょうか。あるいは、周囲の人に、こんなに立派な人はいないと言われるほどに慈悲深く接して周りから感謝されることなのでしょうか。そういうことは確かに人目を惹くことですが、そういう場合には、一体誰が褒められることになるのでしょうか。恐らくは、そういう立派なあり方をしている本人が褒められることでしょう。そして、その人にそういうあり方をさせてくださっている天の神がおられるという事実は退いてしまうに違いありません。
主イエスはここで、「あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる」と言っておられます。天の父がこの人の上におられる。だからこそ、「この人は、神に生かされ、支えられているのだ」ということに周りの人たちが気付いて、天の父が崇められるようになるのです。
そういう生活というのは、恐らく、私たちが普通に考える立派な行いというものとは違うのだろうと思います。主イエスがここでおっしゃっている「立派な行い」とは、私たちが思うよりもずっとささやかで、慎ましい生活のことかもしれません。例えば、体調が思わしくなく暫く礼拝を守れなかった人が、それでも礼拝への思いが止み難く、一週間何とか体調を整えて礼拝にやってくる。その時に周りの人たちは、「本当にこの人は、神に支えられている。神を慕っているのだな」と思うに違いありません。「神がこの人を生かしてくださっているからこそ、この人はこのように生きることができるのだな」と思うことでしょう。あるいは、毎日忙しい日常生活の中で、すっかりこの世に流されて身も心も磨り減ってしまっているような人が礼拝にやってきて、聖書の御言葉に心から慰められて、「ここからもう一度、新しい一週間を歩んでいける」と言って、笑顔で歩みだすのを見て、周りの人たちは「この人の信仰はすごい」と思うのではなく、「神は、こんなに疲れた人にも働いて力を与えてくださる。同じように、私たちの上にも御手を伸べてくださる」と思うに違いありません。そして、そういうことによって、私たちは、天の父を崇めるようになるのではないでしょうか。
私たちの日常の営みは、本当に細やかなものでしかなかったり、また異質なものと言われることもあるかもしれない。あるいは、自分は本当にちっぽけで何もできない、息をしているだけだと思うこともあるかもしれない。けれども、まさにそういう生活を神が支えてくださっているのです。私たちが、「神に支えられ、主イエスの弟子となって生きていこうとする」、そういう生活が、「この世を腐敗させない、地の塩である生活である」ことを知る者とされたいのです。
今ここで、私たちは皆、新しい者とされ、主イエスに従う者としての歩みを確かにされて、ここからそれぞれの生活へと送り出されていきたいと願うのです。 |