2015年8月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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狂える弓 | 8月第4主日礼拝 2015年8月23日 |
小島章弘牧師 |
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聖書/エレミヤ書 第13章23〜27節、ローマの信徒への手紙 第7章18〜25節 | |
エレミヤ書13章<23節>クシュ人は皮膚を/豹はまだらの皮を変ええようか。それなら、悪に馴らされたお前たちも/正しい者となりえよう。<24節>わたしはお前たちを散らす/荒れ野の風に吹き飛ばされるもみ殻のように。<25節>これがお前の運命/わたしが定めたお前の分である、と主は言われる。お前がわたしを忘れ/むなしいものに依り頼んだからだ。<26節>わたし自身がお前の着物の裾を顔まで上げ/お前の恥はあらわになった。<27節>お前が姦淫し、いななきの声をあげ/淫行をたくらみ、忌むべき行いをするのを/丘でも野でもわたしは見た。災いだ、エルサレムよ。お前は清いものとはされえない。いつまでそれが続くのか。 ローマの信徒への手紙7章<18節>わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。<19節>わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。<20節>もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。<21節>それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。<22節>「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、<23節>わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。<24節>わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。<25節>わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。 |
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「ハジマリニ カシコイモノゴザル。 コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。 コノカシコイモノワ ゴクラク。 ハジマリニ コノカシコイモノ ゴクラクトモニゴザル。 ヒトハ コトゴトク ミナツクル。 ヒトツモ シゴトワツクラヌ、ヒトワ ツクラヌナラバ。 ヒトノナカニ イノチアル、コノイノチワ ニンゲンノヒカリ。 コノヒカリワ クラサニカガヤク、タダシワ セカイノクライ ニンゲンワ カンベンシラナンダ。」(『約翰福音之傳』1837年) 教会には、所謂キリスト教用語、教会用語というものがあります。 例えば、三位一体とか、贖罪とか、罪とか・・・です。 罪一つとっても非常にわかりずらいものです。しかしこの最初のギュツラフ訳でも、ヨハネ8章34〜35節のところを見ると「ツミ」と訳しています。 今日は、エレミヤ書13章23節以下を読み進んでいきます。エレミヤ書では、この13、14章に集中的に「罪」という言葉が出ています。13章22節、14章7、10、20節と出てきます。しかもここは、「罪の深さ」との小見出しがついています。 小見出しは、訳者がつけたものですから、あまりこだわる必要がありません。エレミヤは、かなり苦心して、罪について手を変え、品を変えて書いています。それは、エレミヤ自身が苦しんでいたのです。この13章でも、罪という特定の言葉は使っていませんが、共同訳以外の聖書には、罪と訳されているものがありますので、この聖書では隠れているということになります。 もう一つの体験をお話しします。もう57年ほど前のことになります。大学2年生のことです。友人4人で尾瀬に行きました。今でこそ尾瀬の湿地帯は板の道になっていて快適に歩くことができますが、その頃は、沼地と道とが判別しにくく、おっちょこちょいの僕は、野草や花に見とれて足を踏み外して、沼地に足をとられてしまったのです。その時は、ただ這い出せばよいと思って、足を動かしてもがいたのですが、どんどん沈んでいくようになって、へそのあたりまではまり込んでしまったのです、友人も手を貸してくれたのですが、友人も 沼にはまり込みそうになり、山荘に助けを求めに行ってくれて、何とかロープにつかまって数時間後に脱出できました。ですからこうしてここに今立っているわけですが、その時、沼にそのまま沈んでいたかもしれない経験でした。そのとき、思ったのです。自分の力では、自分を救い出すことはできないということを。罪からの救いは、自力では不可能だということを。それは私の信仰体験とも言えるものでした。どんなにもがいても、もがいても、いや、もがけばもがくほど深みに引き込まれてしまうということを。それが罪の深さだということを知った瞬間だったと思いました。変えられない、消すことが不可能で、自力では罪からの脱出はできないということを。 さらに、25節後半「お前が私を忘れ、むなしいものに依り頼んだからだ」と記しています。私達は忘れっぽい存在です。神の恵みを忘れてしまうのです。あの十字架でイエスさまが死んでくださったこと、血を流されたことを忘れてしまうことが起こります。そればかりか、むなしいものに依り頼んでしまう傾向があります。「むなしいもの」を違う訳では《偽りの神々》となっているものがあります。《きゅうり畑のかかし》という表現も、エレミヤ書にかかれています(エレミヤ9章5節)。いかに的外れな方向に生きていることか? そこに罪の深さが示されています。それが、数々の罪として表面化していくのです。 27節後半「お前は清いものとはされない。いつまでそれが続くのか」と記しています。罪から逃れられない。ヨハネによる福音書8章34節に「罪を犯すものは誰でも罪の奴隷である」とありますが、人は罪の奴隷だと聖書は語ります。自分では、どうすることもできないのです。パウロも、ローマの信徒への手紙7章で、「わたしの中に住んでいる罪なのです」と語っておりますが、自分が罪に苦しみ、罪の奴隷状態であることを告白するものは、神の憐れみによってしか生きることができないことを知るものであり、同時に神を知っているものとして生きるものとされることであるということです。 最初に言いましたように、聖書では、新旧約全体で、人間の罪、そして罪からの救いを語ります。人間を罪人としてとらえています。その罪は、「的外れ」という言葉で表現しています。関係の断絶ということ、神との関係が壊れていることですから、それが人間の孤独であり、そのことが人間の中に種々の問題を起こすことになるわけです。それを、詩編78編で語っています。「彼らはいと高き神を試み反抗し、その定めを守らず先祖と同じように背き、裏切り欺き、裏切り欺く弓で射た矢のようにそれて行き異教の祭壇につかえて神をいからせ偶像を拝んで神の激情を引き起こした」(詩編78編56~58節)。矢がどんなに精巧にできていても弓そのものが狂い、ねじれている、それが罪だといっています。 罪の意識が深ければ深いほど、それだけ神を知ることも深まるのです。神の愛を深く知ることは、罪を深く自覚することに導かれます。 《参考 ギュツラフ訳聖書 ヨハネ8章34~35節 エズスク アノヒトタチニ ヘント コタエル ワシガ イマエタチニ ホントマコトニユフ、ミナニン ツミヲ ツクル ツミノネンキモノワ。ウチニヰツデモ ヲラヌ タダシワ ムスユワ ヰツデモヲル。ムズコワ ヲマエタチヲ イルヰテ トラセルナラバ ヲマエタチ マコトニ ヰルサレタ。》 |
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