ただ今、フィリピの信徒への手紙1章3節から11節をご一緒にお聞きしました。3節4節に「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」とあります。このパウロの言葉から、パウロとフィリピ教会との間には大変温かな交わりが成り立っていたことが窺えます。パウロはフィリピの教会の人たちを思い起こす度に神に深い感謝を捧げ、そしてまた、その一人一人を覚えて執りなしの祈りを祈るときには、いつも喜びを感じていたと語っています。
フィリピの教会の人たちが主イエス・キリストを信じる信仰によって生活している、そのことが、この時、パウロにとって本当に大きな慰めであり励ましでした。「あなたがたの信仰に深く慰められ勇気づけられている。感謝しています。ありがとう」という言葉、それがこの手紙から聴こえてくる最も基本的な調べです。
この手紙の中でパウロは、繰り返し繰り返し「喜び」という言葉を語ります。この手紙は全体で僅か4章しかない短い手紙ですけれども、数えますと「喜び」という言葉が16回も出てきます。本当にパウロが喜んでいるということが分かるのですが、しかし、この時パウロが置かれていた状況を考えますと、普通であればとても喜んでいられないような厳しい状況でした。
パウロがこの手紙を書いた時にどこに居たのかと言いますと、読んでいきますと分かりますが、鎖につながれて牢屋の中に閉じ込められていたのです。今聞きました7節に「監禁されているときも」とありますし、1章13節では「わたしが監禁されているのはキリストのためである」とか、17節には「獄中のわたしをいっそう苦しめようと」とあります。この手紙は、牢獄にあるパウロからフィリピの教会に宛てて書かれた手紙なのです。
「牢屋」について言いますと、紀元1世紀の牢屋というのは、今日の牢屋に比べますとずっと過酷な環境でした。鎖に繋がれたままで、運動も日光浴もさせてもらえませんし、食事も十分には与えられません。ですから、牢屋に繋がれますと、早い時期に出してもらえない場合には、遅かれ早かれ獄死するだろうと予測できるような環境でした。パウロ自身、この時牢屋に居るわけですから、もしかすると自分もここで獄死するかも知れない、そういう不安を抱きながらこの手紙を書いている、そう読める言葉も出てきます。
例えば、1章20節には「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」とあります。これは、半ば死を覚悟して語っている言葉です。しかも、さらにこの先を読んでいきますと、パウロが極めて死に近づいていることを推測できる言葉も出てきます。21節「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」。あるいは23・24節では「この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」。 パウロは、「牢屋にあっても、主イエスに支えられながら生きる」ということが、「主イエス・キリストの救いは本当にあるのだ」ということを証しすることに繋がることをよく弁えています。しかしそうではあっても、この牢獄で重くのしかかっている様々な欠乏は非常に厳しいものがあって、地上の生活を去って永遠の命に移され、主イエスと共に居ることができた方がどんなに楽だろうかという思いがパウロの中にきざしてしまう、そういう時があったことを、この手紙は語っています。
そして、非常に厳しい過酷な状況の中にあって、なお、「喜び」ということを語る、この点に、この手紙の不思議さ、奥深さがあると言ってよいと思います。
牢屋に捕らえられ、あるゆる物が欠乏し困窮していて、命すら失いかねないような状況の中で、どうしてパウロは「喜び」などということを語れるのでしょうか。考えてみますと、本当に不思議です。
しかし、実際に「喜び」と書いているということは、パウロはキリストへの信仰によって励まされ、勇気づけられて、いかに充実していたかということの表れだとも言えるでしょう。パウロは、極めて困難な状況、自分の死ということも視野に入らざるを得ないそういう状況の下で、しかし、「フィリピ教会の人たちの信仰によって、わたしは慰められ、励まされている。勇気を与えられて喜んでいる」、そう言っています。
それは逆に言いますと、フィリピ教会の人たちの信仰を通して、そこに神が、主イエスが生きて働いておられるのだということを見せられて、パウロはそのことに慰められ勇気づけられ喜んでいるということになるのだろうと思います。それは単純に、フィリピの教会とパウロとの間に人間的な親しい交わりが成り立っていたということだけではないと思います。パウロは、神の御前に立って、フィリピの教会の人たちと自分のことを見ています。もしも、人間同士の親しい結びつきだけであったら、自分の死に対する不安や恐れを覚えるときには、それを慰める力は無いのではないでしょうか。
私たちは経験上よく知っていますが、どんなに相手のことを深く愛したとしても、私たち人間には、死の中にまで入り込んでその人を取り戻してくる力というものはありません。私たちが死に直面するとき、あるいは、愛する者が死に直面するとき、そこで私たちが、それでもなお、慰めや勇気を得ることができるとするならば、それはどこから来るのでしょうか。「実際に死の中に踏み込むことができ」て、そして「死から命へと、自分自身もまた愛する者も連れ出すことのできる」そういう方がおられて、そして「そのお方が、このわたしと一緒に居てくださるのだ」と確信できればこそ、私たちは死に際して本当に深い慰めと勇気を与えられるのだろうと思います。
パウロは、フィリピ教会の一人ひとりが、パウロから知らされたお方、すなわち「主イエス・キリスト」が「十字架にかかり、死なれ、そして復活しておられるのだ」という福音を心から信じて、そして、パウロの言葉を聞いた最初の日からパウロの働きを懸命に支えてくれている、そのことに励まされているのです。
5節に「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」という言葉が出てきます。これは、フィリピ教会の人たちが心の中だけでパウロの言葉を善いものだと思っているということではなくて、実際にパウロの伝道の働きを何とかして支えようとしてきたということを言い表しています。
信仰の事柄というものは、心の持ち方ということではありません。実際の生活に表れてくるものなのです。フィリピの教会の人たちが祈りを捧げ、何とかしてパウロを支えようとしてくれている、そこに、フィリピ教会の人たちの信仰生活があるのです。
まだここには出てきませんが、2章5節以下を読みますと、パウロが鎖に繋がれ牢屋に閉じ込められたことを聞いて、フィリピ教会の人たちは、何とか自分たちにできることをしようとしていることが記されています。具体的には、教会員であるエパフロディトという人に献金を託して、牢屋の中のパウロに届けようとしています。牢屋の中は何もかも欠乏していますから、今の時代の感覚とは違いますが、お金が無いと暮らせないのです。お金で食べ物を買って、牢屋にいる人に届けてあげないと、牢屋の食事だけではとても肉体を保てません。今では牢屋に自由に入ることなどできませんが、パウロの時代には、外から牢屋にいるパウロに会いに行くことはできました。それで、パウロの身の回りの世話をするために、フィリピ教会の人たちはエパフロディトを送ったのです。
ところが、牢屋の状況があまりにも劣悪なものですから、パウロの世話をするために行ったエパフロディトの方が参ってしまい、瀕死の重病にかかるという事態が起こります。2章25節以降には、そのエパフロディトが幸いにも回復したので、彼をフィリピ教会に送り返そうと考えたパウロが、「支援に行った自分の方が病にかかってしまって心を痛めているエパフロディトを、どうぞ労ってほしい」と語っています。恐らく、このフィリピの信徒への手紙は、パウロがエパフロディトを送り返す時に彼に持たせたでしょうし、またテモテにも持たせたと言われています。このように具体的なフィリピ教会とパウロとの交わりの中で、この手紙は書かれているのです。
フィリピ教会は何とかしてパウロを支えようとして、実際に支援のために派遣したのはエパフロディトを始めとした数人だったでしょう。けれども、その背後には実に多くの教会員がパウロのことに心を配り、献金し、祈りを捧げ、パウロの無事を願いました。そういうことが分かるので、パウロは本当に「あなたがたの信仰によって慰められて、ありがとう。あなたがたを思う度に、神に感謝します」と言っているのです。
このように、パウロとフィリピ教会の人たちとの間には本当に温かな強い結びつきがあったのですが、それは互いに相手のことを覚えて神に祈り、また主イエス・キリストのお働きに互いを委ねて支え合う、そういう結びつきでした。3節4節でパウロは、フィリピ教会の一人ひとりを覚えて「喜びをもって祈っている」と言っていますが、パウロが実際に神に捧げたその祈りの言葉が、9節から11節に出てきます。もしかすると、これは少し要約されているかもしれません。パウロは「わたしは、こう祈ります」と言って、語り始めます。この9節以下の言葉を聞きますと、パウロがいかにフィリピ教会の人たちの信仰を喜んでいるか、またその信仰が成長することを願っていたかということが分かります。9節〜11節「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となりイエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」。
この祈りの中でパウロはとりわけ、「あなたがたの愛がますます豊かになりますように」と言っています。「愛」とは、もうこれで十分だというほどに育った愛というものは無いと言ってよいと思います。パウロがローマの教会に宛てて書き送った手紙の中で、「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません」という言葉があります。キリスト者は、愛以外に借りを作ってはいけないと言っています。しかしこれは逆に言うならば、愛ということには「借り」ということが有り得るのだということを言っているのです。「わたしは愛を受けている。本当に感謝だ。いつかこの愛をお返ししよう。そういう者になろう」と、そういう気持ちを持ってよいと言っている言葉でもあります。あるいは、愛というものは、それを向けてくれた人にすぐに「ありがとうございました」とお返しできるものでもない、そういうことを言っています。
「愛」という点でキリスト者がますます成長するようにと、ここでパウロは祈っていますが、その際に、大変面白い言い方をしています。「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり」と言っています。「知る力と見抜く力」が、愛とどう関係するのだろうかと思います。
「知る力」とは、別の言い方をしますと「神を知る深い知識」と言ってよいと思います。聖書の御言葉に教えられながら、私たちは次第次第に神のことを深く知るようになる。誰でも同じように最初は、漠然と「神」という言葉しか知りません。「神」がどういうお方なのか、まったく見当もつかないでしょう。ところが、礼拝を守り聖書の御言葉を聞き、その説き明かしも聞いていく、そういう生活を送る中で私たちは、「神は決して私たちに対してよそよそしいお方ではない。むしろ、私たち一人ひとりのこと、世界のことに深く心を寄せてくださっている」ということを知るようになります。そのような神についての知識を、私たちは知らず知らずの間に、礼拝を捧げる生活をする中で少しずつ身につけていくのです。そして、「神がどのようにこの世界を愛しておられるのか」、そのことを知るときに、私たちの愛も、一人よがりな手前勝手な愛から変えられて成長していくのです。ですから「知る力が愛を育てる」と語られています。
けれども、知る力だけが愛を成長させるのではありません。同時に「見抜く力も与えられますように」とここに言われています。「知る力」が神のことを深く知る知識であるとすると、「見抜く力」とは、大事なものは何かを見分ける力です。洞察力であり、キリスト者らしい感性だとも言えるかも知れません。何が本当に大事なのか、これは一般的な知識を蓄えれば分かるということではありません。具体的な状況の中で、日々私たちは様々なことを経験し、その中で、一体今何が一番大事なのかということを考えさせられ、そしてそこから知るようになるのです。
ですから、「愛とはどういうものか」ということは、観念的に考えている過程で分かることではありません。日々の生活の中で、今何をすることが本当に愛することなのだろうか、そのことを見分けながら、実生活の中で果たされていく日常の事柄が、私たちの愛なのです。
キリスト者は、一方においては「神が本当に私たちに対して心を寄せてくださって、愛と慈しみに富んでおられ、私たちに無関心な方ではないのだ」ということを教えられながら、「愛されていることを知らされて」生きる者です。しかしまた一方では、実生活の中で、「本当に大事なことは何だろうかと見分けて、愛を行っていく」そういう者なのです。ですから、フィリピ教会の人たちがそのように成長できますようにと、パウロはここで祈っているのです。
さらにここを注意して聞きますと、パウロが祈る愛と信仰の成長には、三つの方向づけがあることが分かります。三つの方向とは、三つに分かれていくのではなく、三通りの言い方で一つの愛を指し示しています。
第一の方向づけは、「本当に重要なことを見分ける」ということです。私たちの生活には、日々様々な勤めや課題や役割があります。そしてそれらは、皆それなりの重要性を持っています。考えてみますと当たり前のことですが、私たちの日々の暮らしは、様々な事柄にお付き合いするみたいにして、「こうだ、ああだ」と言われれば「そうかな」と思いつつ、忙しく過ぎていくということがあります。
私たちはそのように、様々に求められたり、様々に責任を果たしながら忙しく暮らすのですが、そういう中にあって、私たちは「このわたしが本当に自分の身を捧げるべきこと、献身してこのわたしの人生をもって仕えるべき事柄は一体何だろうか」との問いを、常に持ち続けるべき必要があるのではないでしょうか。そうでなければ、私たちはただ毎日の忙しい働きに付き合って、目的が果たされればそれでよいという中で、瞬く間に人生が過ぎ去り、歳をとっていってしまうのではないでしょうか。ですから、今日の箇所では、パウロがフィリピ教会の人たちのために、「本当に重要なことを見分けることができる信仰が与えられますように」と「切に祈っている」ということが伝えられていることを大切なこととして覚えたいと思います。
二番目のことは、「私たちキリスト者の愛と信仰は、終わりの裁きの日に向かって育っている」ということです。パウロの言葉に沿って言うならば、「そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となるように導いてください」という祈りです。「キリストの日」と言われていますが、これはもう少し噛み砕いて言いますと、主イエス・キリストがもう一度この世界を訪れ、私たちのもとにやってきてくださる「主イエスの再臨の日」のことです。
私たちの信仰や愛、あるいは私たちの人生そのものは、主イエス・キリストがもう一度この地上においでになって、すべてをご自身の光で照らし出してくださる、その時に、主イエスの光の中で照らされ、裁かれるものなのです。終わりの日に、主イエスが私たちのところを訪ねてくださる。果たしてその時に、私たちの信仰と愛は、神の前に通用する清らかなものだと言えるでしょうか。主イエスの光によってすべてが照らし出され、すべてが晒される。その時には、私たちが愛だと思い、愛と呼んでいたものが、途端に色あせてくすんでしまうということはないのでしょうか。今まで愛だと思っていたけれど、主イエスの光に照らされてみたら、とてもこれは愛などと呼べない代物でしかなかった、もしかすると、そういうことがあるのかもしれないと思います。
しかし、私たちが日々仕える愛の業、信仰の業が、自分の手柄とか自分の誇りとか、あるいは自分への見返りを望んでのことではなくて、ただ主イエス・キリストへの愛のゆえに、主イエス・キリストがこの世界、この地上を生きている一人ひとりを愛してくださっていることを知って、自分もそういう主イエスの愛に憧れてその愛に仕えたい、そう願っての愛の業だとしたら、それがどんなに幼稚で不器用な振る舞いだったとしても、神はそこに本当の愛があるとご覧になってくださるのではないでしょうか。
私たちが自分の人生の中でこれが愛なのだと思っていた大方の事柄は、もしかすると、終わりの裁きの日には本当の愛ではなかったと燃やされて灰になってしまうかもしれません。しかし、私たちの愛の大方がそうやって神の前に通用しないのだと明らかになるとしても、最後のところにほんの少しだけ、真の主の愛から始まった愛の業が私たちにも与えられていたのだ、そのことがはっきり現れるということがあるのではないでしょうか。
そして、そういうことがあるのであれば、私たちは損害も受けるけれど、救いにも与ることになる。私たちが人生において様々に成してきたことの大方が、あまり実のないガラクタだった。しかし、その中にもいくつか見るべきものがあったと言われるとすれば、私たちは、火の中を通ってきたようにですけれども、救いに導き入れられる、そのような最後が、キリスト者には備えられているのです。ですから、「あなたたちの信仰と愛が、キリストの日に、御前に通用するものとなりますように」と、パウロが真剣に祈っていることを覚えたいのです。
そして最後に、主の真実の御業に与って、ごく僅かでも身を捧げて生きる者として「信仰の実りである義の実を溢れるほど受けることができますように」との祈りがここにあります。11節「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」と祈られています。
「義の実」というのは、もう少し噛み砕いて言うならば、主イエス・キリストの十字架の御業を信じる生活から出てくる様々な実りであると言ってよいと思います。私たちの生活の中に主イエスが踏み込んできてくださる。そして、御言葉をもって私たちを教えてくださるのです。「あなたのために、わたしは十字架にかかっている。だから、あなたはもはやわたしと無関係な者ではないのだ。わたしの十字架のゆえに、あなたは清められた者として生きてよいのだ」と、主イエスが教えてくださるこの言葉を信じて、そして、信仰によって愛を行う生活へと押し出されていく。そこに、たくさんの実りが生まれてくるのです。
「主イエスが十字架によってわたしを清めてくださり、新しい者としてくださっている。そういう者として生きるのだ」と教えられている中で、私たちがそれを信じて生きるときに、そこに生まれてくる実りは、確かにあるのです。それは、柔和だったり、節制だったり、信仰だったり、希望だったり、いろいろなものが私たちのうちに生まれてくるのです。パウロは、そういう信仰の実りである「義の実」が、あなたがたに与えられますようにと祈っています。
パウロはこの手紙をフィリピの教会の人たちに書き送っているのですが、しかし、私たちの信仰においてもそうであるならば、パウロは喜ぶに違いありません。パウロが愛宕町教会を知っていたならば、同じように手紙をくれるに違いない。ですから、ここに語られている言葉は、私たちに対して語られている言葉でもあります。
私たちは、フィリピの教会の人たちのために、またすべての信仰者たちのためにパウロが祈った祈りを、私たち自身のための祈りとして聞き取るようでありたいと思います。神の愛と慈しみがますます豊かに知らされるように、そして、私たちがそれを信じて、実際に自分の日常生活の中で、主イエス・キリストに従って愛の業に励むことができるようにと、パウロは祈っています。
この世の煩わしい出来事の中にあって、何にお仕えして生きるべきかを祈り求めながら、ここからの一周りの時に歩んでいきたいと願います。 |