聖書のみことば
2015年8月
8月2日 8月9日 8月16日 8月23日 8月30日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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8月16日主日礼拝音声

 ニコデモが衝突したもの
8月第3主日礼拝 2015年8月16日 
 
見城康佑神学生 
聖書/ヨハネによる福音書 第3章1〜15節

3章<1節>さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。<2節>ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」<3節>イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」<4節>ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」<5節>イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。<6節>肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。<7節>『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。<8節>風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」<9節>するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。<10節>イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。<11節>はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。<12節>わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。<13節>天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。<14節>そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。<15節>それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 ファリサイ派に属するニコデモという人がいた、この人はユダヤ人の議員だったといいます。ファリサイ派というのは、福音書ではしばしば主イエスの論争相手として名前が挙がることから私たちにとって馴染みの深い名前かも知れません。この人たちは非常に厳格に律法を守ろうとするユダヤ教のグループでありました。律法とはここでは旧約聖書の中でも特に最初の五つの書物を指します。そうして、彼らは律法を隅々まで勉強し、律法を遵守するために律法の上にさらに教師たちによってこと細かに作り上げられた膨大な量の規定を守ることで救いを成し遂げるということを教えて、それを自分でも実行していた人たちです。議員というのはここでは70人からなるユダヤ人の最高議会の議員のことを指します。また、10節で主イエスから言われていることですが、ニコデモはイスラエルの教師、おそらくは当時のユダヤ教の神学の教師、でもありました。
 福音書にはファリサイ派の人々との主イエスの論争の記事がたくさんあり、私たちは彼らが非常に形式ばっていて内実を伴わない人、頑なで傲慢な人々、といったイメージを持ちやすいと思うのですが、その実彼らは非常に真面目に御言葉に向かい、律法を守るということによって神から与えられる救いを心から求めていた人たちであります。当時のユダヤの人々からは非常に敬虔な信仰者たちと見られていたのではないでしょうか。そうして、人々に御言葉に従う生き方を教えた一種の霊的な指導者というべき人たちです。それに加えて最高議会の議員であり教師だったというのですから、ニコデモという人は相当に地位があり、人々から尊敬されていた人ではないかと思います。ユダヤ人社会で非常に高い地位を持ち、聖書に対する深い知識を持ち、多くの人々から尊敬されていた人で、それらのことからも考えられますがおそらく主イエスとも歳の離れた老年の人です。ニコデモという人はそのような人物です。ニコデモはここで初めて登場し、ヨハネ福音書ではあと二回登場しますが、一度はユダヤの指導者たちに対し主イエスを擁護する人として(7:50)、また主イエスが十字架で死なれた後に主イエスを葬った人たちの一人として出て来ます(19:39)。彼はこの対話の後、主イエスを尊敬する人となったことが分かります。私たちから見ても印象的な人物であると思います。
彼はある「夜」に主イエスのもとにやって来ました。これはなぜ「夜」かというと、彼はユダヤ人社会でも特別な地位を持つ人でありますから、主イエスに会うことが仲間に知られないよう、人目を避けて夜会いに行ったんだということがよく言われます。そういうこともあったかもしれません。しかし、ヨハネ福音書で「夜」というのは象徴的に使われている言葉です。11章10節では夜はつまずく時間であるということが語られます。また、イスカリオテのユダが主イエスから裏切ることを予告されて出て行く場面、13章30節でありますが、その時も夜だったと書かれています。夜は闇の支配する時間です。ユダは裏切るために夜の闇に出て行きますが、ニコデモは夜の闇から主イエスのもとへ来ます。主イエスは世の光です。この福音書の1章には言は光であったということが書かれていますが、この言というのは主イエスのことです。光は暗闇の中で輝いている、暗闇は光を理解しなかった、ということが書かれています。ニコデモは、その暗闇の中からまことの光を求めて主イエスのもとへ来た人です。彼は地位も名声もある、ユダヤの信仰の指導者でありましたが、おそらく自分の人生に何か欠乏を感じていました。非常に真面目で、複雑な心を持った人でありました。それで彼は夜に主イエスのもとへやって来たのです。
 「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」ニコデモはそう言って、話を切り出しました。神のもとから来た、といっても、彼が主イエスを肉体を持って地上に来られた神の言として理解していたとは思えません。神によって召された教師というぐらいの意味でありましょう。彼がそう思った根拠は主イエスの行ったしるし、奇跡の業です。2章では主イエスがカナの婚礼で水をぶどう酒に変えたというしるしを行われました。また2:23にある通り主イエスはエルサレムにいる間しるしを行われ、それを見て多くの人が主イエスの名を信じたと書いてあります。そのようなしるしは神が共におられるのでなければ誰も行うことができないとニコデモは言います。これは非常に丁寧な賛辞であって、ニコデモは精一杯の敬意を主イエスに示したのです。
 しかし、そのような彼の挨拶に対して、主イエスは全く取り合わないで、ニコデモがこれから話そうとしている本題、彼が求めていることに率直に切り込んでいくのです。主イエスはこのようにおっしゃいます。「はっきり言っておく、人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモが求めており、主イエスに問おうとしていたこと、それは神の国の到来、神の救いの問題です。ニコデモは言います。「年をとった者が、どうして生まれることができましょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」ニコデモは聡明な人でありますから、自分の言っていることが愚かなことだということは分かっていたはずです。主イエスの語られる御言葉は時に私たちの常識的な感覚からはひどくずれているということがあります。この時もそうで、ニコデモは新しく生まれると聞いて、もう一度母親の胎内に入って生まれることができるだろうか、という愚かな問いに至るしかなかったのです。そして、主イエスはお答えになりました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
 私たちはこのやりとりを見て、どのように思うでしょうか。話が噛み合っていない、ずれている、そのようなことが率直な感想の一つではないかと思うのです。確かにこの話は噛み合っていないのです。ずれています。先ほど主イエスは「人は新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と、ニコデモがしようとしている問いに先に答えたのだということを申しましたが、ニコデモの最初の言葉には何も返しておられません。いきなりそういう話をしています。どこか主イエスはわざと話を噛み合わせていないようにも見えます。ある説教者は、ここは二人の話がずれているのだということを福音書は言っているのであり、ずれていることに意味があるのであり、それを私たちがずれていないように解釈してはいけないんだということを仰っていました。これは重要なことであると思います。
 今回、説教題として「ニコデモが衝突したもの」という題を付けさせて頂きました。あえて「衝突」という言葉を使わせて頂きましたのは、ここで起こっていることは一つの衝突であったと思うからです。ずれているけれども、素通りしているわけではありません、ここでニコデモがぶつかっているものがあると思うのです。それは、主イエスそのお方であり、主イエスの語られる神の国の教えであります。主イエスの語られたこと、「人は、新たに生まれなければ、神の国をみることはできない」ということは、ニコデモが人生の中で積み重ねてきた豊かな知識や経験の中にはないものでした。むしろ「新たに生まれなければ」ということは、そういったものが否定されるところにあります。自分が人生の中で積み重ね、築いてきたものが一度否定されなければ至ることのできない救いがある、そのようなことがここでは語られているように思うのです。
 「新たに生まれる」と訳されている言葉は、原文のギリシャ語では「上から生まれる」という意味も持っています。ここで福音書記者ヨハネは非常に巧みに言葉を使っています。「新たに生まれる」ということは「上から」つまり私たちの上におられる方によって生まれるということと二重の意味を持っているのです。そして、重要なことはその「上から」ということです。そこでニコデモは「もう一度」母親の胎内に入って生まれることができるでしょうかと、「新たに生まれる」という片方の意味しか聞き取れていません。だからこれは愚かな結論になってしまうのです。この食い違いは、主イエスが言っておられるところの「肉」と「霊」の違いから来るものです。主イエスは上から来られた方であります。霊によって肉体を取られた霊に生きる方です。しかし、人間は肉によって生まれた肉に生きる者です。「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」という主イエスの御言葉は、霊と肉が徹底的に違うものであることを示しています。ここで対話のずれを起こさせているもの、ニコデモを衝突させているものは、「霊」に対する人間の食い違いなのであります。
 そこで、主イエスは「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と仰います。これは洗礼のことを言っていると思われますが、ここで重要なことは水と霊ということであり、洗礼を通して起こっていることです。神の国は霊に属しているので、肉に属している私たちはそのままでは見たり入ったりすることはできません。ニコデモがぶつかっているのはこのことです。彼はいまだ肉に属する者であり、肉の考えで考えているからこのことが理解できません。私たちは水と霊とによって生まれなければならない、と主イエスは仰います。水は死を象徴するものであり、洗礼によって一度古い肉体が死ぬということでありますが、ここで私たちが目で見ることができ、手で触れることのできる水を通して目に見えない神のしるしを私たちが体験するということが起こるのです。それが霊によって新しく生まれるということです。水はそのことの目に見えるしるしなのであります。水と霊ということによって、主イエスの言われる「上から生まれる」ということが私たちにとってリアルなものになるのです。
 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」と主イエスは仰います。ここにも二重の意味を持つ言葉が使われています。「風」という言葉は「霊」という意味を持っており、「音」という言葉は「声」という意味を持っています。だからこのようにも訳すことが出来るでしょう。「霊は思いのままに吹く、あなたはその声を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」私たちは風が吹くことで、目には見えないけれども風の存在を知ることができます。今ならば観測技術によって風がどこから来てどこへ行くのかある程度予測することが出来るのかもしれませんが、これはそういうことではありません。私たちは木々が揺らいだり木の葉が飛んだりするのを目で見ることで風の動きを知ることは出来るかもしれませんが、それを起こしているその最も根源的なものを見ることはできないのです。それと同じように、私たちは説教や証しを聞いて、人を通して語られている聖霊の声を聴くことはあるかもしれません。また、教会に導かれる人を通して聖霊の働きを見ることはあるかもしれません。しかし、私たちの目に聖霊は見えないし、聖霊なる方の根源を見て取ることはできないのです。
 霊から生まれた者も皆その通りである、とありますが、私たちが霊によって新しく生まれるということは、そのような方が私たちの主人になるということです。思いのままに吹き、どこから来てどこへ行くのか分からない、私たちにはその根源を知ることのできない聖霊なる神が私たちの主人となり、私たちを新しくさせ、救いの中に入れさせてくださるのです。それは全く一方的なことなのです。私たちの思いによってどうにかできることではないのです。救われるために律法を守ろうといくら一生懸命になっても意味がありません。それは、本当は主の御心に従って歩んでいるということにはならないのです。救いは自分が自分の力で成し遂げるものではありません。それでは自分の主が自分であるままだからです。ニコデモはそういう人でありました。彼はファリサイ派の一員として真面目に律法を学びそれを真剣に守っていたでありましょう。そのことで多くの人は彼を尊敬し、彼をまことに敬虔な信仰者だと思っていたでしょうし、そのことが彼をユダヤ人社会の中でも中心的な地位に上げていったかもしれません。しかし、そういったものは一度否定されなければならないのです。一度そういった人間のもの、肉に属することが否定され、打ち砕かれ、聖霊によって全く新しく生まれさせられたとき、初めて人は主の御心に従って歩むことができるようになるのです。それはどこまでも神から一方的に与えられる恵みとしての出来事であります。
 この対話は最後まで噛み合わないままで終わります。ニコデモは主イエスの言葉を最後まで理解できません。主イエスは「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と叱るように言われます。「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたは私たちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」主イエスは明らかなことを語っているのに、聞いているニコデモはそれを受容することができないのです。これはニコデモだけの問題ではなく、私たちの誰でもがそうなのでありましょう。私たちはどこまでも肉に生きる者であるがゆえに、主イエスの語られる救いに対し食い違いを起こしてしまう。それは洗礼を受けてキリスト者となった人でも同じであります。しかし、主イエスはそのような私たちをも受け入れて下さり、赦して下さるお方です。主イエスの仰ることを素直に受け入れることのできない、懐疑に捕らわれてしまう私たちを上から引き上げてくださる、そのようにして私たちは主からの一方的な恵みとして新しくさせられるのです。
最後は主イエスの長い語りによってこの対話は終わりますが、ニコデモがその後どういう反応をしたとか、どんな顔をして帰って行ったかとか、そのようなことは一切書かれていません。私たちから見るとそれは尻切れとんぼのように見えるかもしれません。しかし、福音書記者ヨハネにとって関心事はそこではなく、主イエスとニコデモのこのような対話があったということなのだと思います。同時に、ニコデモはここで劇的な回心をした訳ではないということでもあるでしょう。恐らくは、主イエスの言っていることが分からないまま釈然としない顔で出て行ったのではないでしょうか。しかし、彼はこの後7章50節で再び登場しますが、その時には主イエスに味方する者として登場し、また主イエスの十字架の後には主イエスを葬る人たちの一人となります。彼はこの噛み合わない対話の後、主イエスを尊敬する人となったのです。私たちはここに聖霊の働きを見て取ることができるのではないかと思います。主は上から与えられる恵みとして私たちを新しくしてくださいます。頑なな私たちが、そうして主の救いに入れられる者となれるように私たちに働きかけ続けてくださいます。私たちはそのような主の慈しみに感謝したいと思うのです。

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