2014年9月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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すばらしい石 | 2014年9月第4主日礼拝 2014年9月28日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第13章1〜13節 | |
13章<1節>イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」 <2節>イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」<3節>イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。<4節>「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 <5節>イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。<6節>わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。<7節>戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。<8節>民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。<9節>あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。<10節>しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。<11節>引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。<12節>兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。<13節>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」 |
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1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき」と記されております。主イエスが神殿を出て行かれます。そしてこれ以降、主イエスの神殿の境内での活動については記されません。 けれどもここでは、主が神殿での活動を終えられたことに止まらず、この後に続く言葉に重要なことが示されております。弟子の一人が「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と、神殿は素晴らしいと強調します。しかしそれに対して、主イエスは「そうだね」と相槌を打つのではなく、2節「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と、「エルサレム神殿の崩壊」を告げられるのです。 ですから、ここで主イエスが神殿を去られるということは意味深いことです。エルサレム神殿を中心とした礼拝が終わる、区切りが来る、そのことを誰も知りません。けれども、主イエスが神殿を去られることによって、このことを暗示しているのです。主イエスは神殿での活動を終わられただけではなく、神殿での礼拝の終わりをも告げておられるのです。 神殿礼拝の終わりとは何を示しているのでしょうか。神殿礼拝は、羊や山羊、牛や穀物を献げる礼拝で、それはそれらの犠牲を伴う礼拝です。本来、自らの罪は自らの命をもって贖わなければなりませんが、そうは出来ないために、汚れない小動物の血や最上の穀物を献げて贖ったのです。そのような他者犠牲を用いて神との豊かな交わりを持つ、それが神殿礼拝でした。それは、私どもの礼拝とは全く違っております。 BC70年に、ローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊されます。そして神殿礼拝はできなくなるのです。では、その後ユダヤ人は礼拝できなくなったのでしょうか。そうではありません。もともと皆が皆、エルサレム神殿へ行けたわけではありませんでしたし、神殿崩壊後は、各町村のシナゴーグ(会堂)での聖書を中心とした礼拝が起こってきます。そのようにして、神は民に対して礼拝を備えてくださいました。それは聖書の御言葉を中心とした礼拝であり、その礼拝を、私どもも頂いているのです。 神の名を呼ぶこと、それが礼拝です。プロテスタント教会は、このことを重んじました。神の名を呼ぶ、それは祈りの形です。プロテスタント教会の礼拝は、祈りの形の礼拝なのです。宗教改革者たちは、それまでの祭儀礼拝から、祈りの形の礼拝へと整えていきました。 また、場所や時を選ばないだけではなく、キリスト教の礼拝は、たとえそれが小動物であったとしても、それらを犠牲にする必要はありません。他者犠牲を必要とする礼拝であれば、それらを処理するために神殿(建物)を必要とすることでしょう。けれども、私どもの礼拝はそうではありません。 この世の世界は、誰かが誰かを踏み台とし、犠牲を強いる世界です。しかし、神自ら命を献げ、神ご自身が痛み、損をしてまでの、神による自己犠牲のゆえに、私どもは他に犠牲を必要とせずに贖われるのです。 ここで、弟子たちは「先生、御覧ください」とありますように、主イエスを「先生」と呼んでおります。弟子たちは何も理解し得ていない、主イエスに自らの救いを見出していないのです。 弟子は「すばらしい石」と言っております。ここには、人の技術への賛美もあるでしょう。弟子は主イエスに、単に神殿を見て欲しいのではなく、自分の覚えた感動を受け止めて欲しいと思っているのです。そういう思いの弟子に対して、主が告げられたことは、神殿の崩壊でした。 さて、エルサレム神殿は、最初の第一神殿は、ネブカドネザル等によって破壊されました。そこで第二神殿が再建されましたが、それは第一神殿ほどの立派なものではなく、人々にとっては嘆きの種でした。 私どもは、3.11の出来事を通して知りました。原発事故により、人の手によって作られたものに完全はなく、却ってそれは重荷になることを知りました。ここから、私どもは学ばなければなりません。かつて、公害のデパートとなった日本は、その公害対策のゆえに、技術を向上させました。しかしその技術を過信し、技術に基づいた利益を求めた結果が今の現実です。 人の過ちに関わらず、神の秩序はなお、揺るぎなくあるのです。季節は移り、大地は収穫を与えてくれるのです。「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどには飾っていない」と、御言葉に言われております。どんなに人の作ったものがすばらしく美しかったとしても、神の創造の御業としての野の花の美しさには及ばないのです。そして、神の造られたものこそは、神の栄光を表すものとして麗しく、真実に人に慰めを与えるのです。「すばらしきは、神の御業」なのです。 ですから、神の造られたものに対して、私どもは、喜びをもって受け止めるべきことを知らなければなりません。その最も身近なものは何でしょうか。神の造られたもの、その第一は、「わたし」です。私もまた、神が造ってくださったものとして、神の栄光を表す器とされているのです。どんなに老いようと、障がいを負っていようと、私どもが神の御業でなくなることはありません。 私どもは、神の御業です。神が造り、良しとしてくださっているのです。神が良しとしてくださって、今、ここにあるのです。私どもは、神によって麗しくされているのです。神に造られたものとして麗しいのです。ゆえに、私どもは神の御心に生きるのです。それが神の民とされて知る恵みであることを覚えたいと思います。 人の手で作ったものがいかに美しく立派なものであったとしても、そのことに傲る愚かさを思わなければなりません。自らの手の業に固執せず、そこから解き放たれるものでありたいと思います。 麗しいもの、それは神の御手のうちにある私ども自身であることを、感謝をもって覚えたいと思います。 3節に「イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると」と続きます。主は何を思って神殿を眺めておられるのでしょうか。それは次回のこととしたいと思います。 |
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