2014年9月 |
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9月7日 | 9月14日 | 9月21日 | 9月28日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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なぜと問うなかれ | 2014年9月第2主日礼拝 2014年9月14日 |
小島章弘牧師 |
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聖書/エレミヤ書 第12章1〜6節、マタイによる福音書 第15章8節 | |
エレミヤ書第12章<1節>正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い 裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え 欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。<2節>あなたが彼らを植えられたので 彼らは根を張り 育って実を結んでいます。口先ではあなたに近く 腹ではあなたから遠いのです。<3節>主よ、あなたはわたしをご存じです。わたしを見て、あなたに対するわたしの心を 究められたはずです。彼らを屠られる羊として引き出し 殺戮の日のために取り分けてください。<4節>いつまで、この地は乾き 野の青草もすべて枯れたままなのか。そこに住む者らの悪が 鳥や獣を絶やしてしまった。まことに、彼らは言う。「神は我々の行く末を見てはおられない」と。<5節>あなたが徒歩で行く者と競っても疲れるなら どうして馬で行く者と争えようか。平穏な地でだけ、安んじていられるのなら ヨルダンの森林ではどうするのか。<6節>あなたの兄弟や父の家の人々/彼らでさえあなたを欺き/彼らでさえあなたの背後で徒党を組んでいる。彼らを信じるな/彼らが好意を示して話しかけても。 マタイによる福音書第15章<8節>『この民は口先ではわたしを敬うが、 その心はわたしから遠く離れている。 |
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今日の箇所は、エレミヤの神に対する訴えの部分です。 「正しいのは、主よ、あなたです」。100%絶対に勝てない相手だとわかって、立ち向かおうとするのですから、こんな言葉になるのでしょうか。その気持ちを察すると、問わざるを得ない差し迫った、切羽詰まった思いがあったに違いないのです。それでなければ、ここでエレミヤが口を挟むわけがないのです。それとも、ダメ元で、ダメでも言うだけのことは言っておかなければ気が済まないということでしょうか。無駄を承知の気持ちだとしか思い当たらないのです。神を相手に議論しようというのですから。 「主よ、正しいのはあなたです」は、エレミヤの信仰告白なのかもしれません。あなた、神は絶対だと、正義をなさる方だと。 エレミヤは神に問います。「なぜ、神に逆らう者の道は栄え、欺くものはみな安穏に過ごしているのですか」と。この世の現象を見ると、そのように見えてしまうのです。子どもの6人に一人が貧困、食べることにも事欠いているという現実。ワーキングプア、働いても働いても報われない現実。統計でも、富裕層は多くはない、とはいえ一部の人は確かに破格の金銭を手にしているのは事実です。8月22日の朝ドラ「花子とアン」でも、兄弟が揃ったところで、同じ家に生まれたのに、なぜ花子だけが学校に行って学び、他は報われないのかと言い合っている場面がありました。「なぜ?」は、そこら中にあります。「なぜと問うなかれ」と言われても……です。 神は善いものにも悪いものにも雨を降らせ、太陽を照らす。「神が植えた。それは根を張り、育って実を結ぶ」(2a)これは自然の営みです。これには反論できません。どんな種も、まかれたものは芽を出し、花を付け、実るのです。 このことを最もよく記しているのが、旧約聖書の「ヨブ記」です。これは、大変よく知られているので申し上げる必要がないでしょうが、やはりここで振り返って見るのは意味があるように思いますので、聞いてみましょう。 そこで、簡単にヨブ記のあらすじを申し上げます。ヨブは、子どもにも恵まれ多くの財産を得て、言うことない生活を送っていました。しかしサタンが神の了解を得て、ヨブに災いを振りかけました(ヨブ記3:11~26)。すべての子どもを奪い、家畜も全滅にし、ヨブ自身にも皮膚病を患わせ、妻からは「神を呪って死になさい」と言われてしまいます。ヨブは「神が与え、神が取り給う」と言って、神への信仰を失わなかったのです。 けれども、そう読んでしまったらヨブ記の本来の意味が失われてしまいます。神もここでは多弁に語っていますが、神の自己顕示的なところがあって、神の自慢話になって、本当は、答えになっていない面があります。やっぱり、神はこの問題に沈黙を貫いているのです。悪人が栄え、逆らうものが安穏に生きているということには、正解を言ってない。ノーコメントなのです。それが神だと、聖書は言っているのです。 ここは間違いないように読まなければいけません。うっかり、最後は神様が幸福にしてくださるのだと読めば、それはご利益信仰になってしまいます。どんなに不条理なことがあっても、どんなに理不尽なことがあっても、その中で神とのかかわりを失わず生きることが聖書が示している信仰だということをヨブ記から学ぶ必要があります。人間が自分の都合で、自分に良いように信じる、のではないのです。あくまでも「神の導きで生きている」のだと信じぬくことが、キリスト教信仰だということをヨブは伝えてくれています。 この箇所には、さらにエレミヤが過酷な現実に直面することが語られています。4節、5節です。地は乾き、草木は枯れ果てる、鳥や獣も絶滅すると。神はそのことに目もくれないと。徒歩で、競っても疲れるのだから、馬で行くものと太刀打ちできるはずがないと。このことに耐えることが信仰であるのだというのです。 神は生きている、神が最終的には正しいと言い得るところに信仰があるのです。神はわたしたちに降りかかってくる試練を乗り越えて進ませてくれるのです。人生の不可解を「なぜ」と問うのではなく、知性、経験を犠牲にすることをせずに、ただ神の導きに服従することが求められているのです。 |
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