聖書のみことば
2014年9月
  9月7日 9月14日 9月21日 9月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 責任を果たす生き方
2014年9月第3主日礼拝 2014年9月21日 
 
小友 聡牧師 
聖書/コヘレトの言葉 第12章3〜8節

12章<3節>その日には 家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ 窓から眺める女の目はかすむ。<4節>通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。<5節>人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。<6節>白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる。<7節>塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。<8節>なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。

 今年も愛宕町教会の礼拝にお招きをいただき、光栄に思い、また感謝しております。今年は研修会で旧約聖書のコヘレトの言葉を学んでおります。ですからコヘレトの言葉から、12章3節〜8節を与えられた御言葉として、この礼拝において聴きたいと思います。

 まず、12章1節には「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」とあります。この言葉は多くの人がよく知っている言葉でしょう。口語訳では「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」でした。口語訳では「コヘレトの言葉」は「伝道の書」と呼ばれていて、伝道の書と言えばこの言葉を思い出すというような有名な言葉です。今日は、その後に続く言葉に聴きたいと思います。
 この言葉の直後には「苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」とあります。意外な言葉です。「年を取って幸福になれる、だから若い時に創造主に心を留めなさい」ということなら分かります。しかしそうではない。年を重ねると「苦しみが増し、喜びが薄れる」と言うのです。これは皮肉でしょうか。そうではありません。このことが3節〜7節に繋がってくるのです。とても不思議な詩文です。この箇所は比喩的な表現で書かれております。
 3〜6節「その日には 家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ 窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる」。
 「家を守る男も震え」とは、肉体が衰えて膝がガクガクする様子、「力ある男も身を屈める」とは、腰が曲がる様子、「粉ひく女の数は減って行き、失われ」とは、歯が抜けること、「窓から眺める女の目はかすむ」とは、目が白内障で見えにくくなること。年を取って人の肉体は衰えることを比喩的に書いているのです。そしてこの後、はっきりと、7節「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」と書かれております。
 つまり、人はこのようにして年を取り、肉体が衰えて、そして人生を終えるということです。

 コヘレトは、世の終わり、終末を、「わたしの人生の終わり」として考えております。若い日に創造主に心を留めることで年を取ってから幸福な生活を送ることができると言っているのでは、必ずしもないのです。もっと深いところを見つめております。人は誰でも衰え、苦しみ、人生を終えます。そのように、とてもやりきれない、希望もない、ただ死に行く人間の姿を、聖書は見つめているのです。
 コヘレトは38回も「空しい」と繰り返します。この書を読む人は、なぜこんなに暗いことが書いてあるのかと思うに違いありません。しかし、ここが決定的に大事なところです。聖書は、人が死ぬとうリアルな空しい現実を見つめています。しかしそこから、断じて、決して否定的な結論を出しません。人生は無意味だという結論を出さないのです。そうではなくて、まったく逆の結論を教えております。死という暗闇に向かっている、だからこそ、今この時が永遠の時であると教えているのです。

 終わりへの時間が短くなればなるほどに、残された時間は永遠化されます。皆さんも経験してきたことではないでしょうか。愛する人を看取った経験のある方もおられることでしょう。地上での最後の時、その時は一瞬ですが、しかしその時は永遠に消えない時、思い出として残る時です。一瞬だからこそ、私たちにとってのかけがえのない永遠の時となるのです。
 このような「時」を神学的には「カイロス」という言葉で置き換えることができます。それは「神の時」なのです。

 11節には美しい言葉があります。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」。
 神はすべてを時宜にかなうようにお造りになります。しかし人には、その神のなさる業を見極めることは許されておりません。けれども神は、人に、一瞬の輝きに「永遠を思う心」をお与えくださっている、これは逆説的な論理です。死に向かっているからこそ、今という、生かされている時が大切になるのです。終わりがあるからこそ、私たちの人生には意味があるということです。
 もし、人生が千年、二千年とあったらどうでしょうか。人生が長ければ、何事もいつかそのうちにすればよくなります。そうであれば、人生は大切、生命は大切という実感はなくなるのではないでしょうか。

 実際に、当時は「若い日」は短く、平均寿命は35歳でした。人生に与えられた時は短いという背景が、この詩にはあります。死という終わりを見つめるとき、今生かされている一瞬の時が輝いてくるのです。神は、かけがえのない時、カイロスをお造りになりました。このお方に目を向けよと言われております。

 旧約聖書コヘレトの言葉は、不思議な論理で語られております。しかし、このことこそ、新約聖書において、主イエスが語られたこと、マルコによる福音書13章32節〜37節の御言葉に発展してゆきます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」と、主はここで、終末を予告して譬えでお話くださいました。
 主人は「僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ」て、後を任せて旅に出ます。僕たちは主人がいつ帰って来ても良いように、割り当てられた仕事をします。主人が帰る時はいつか分からないけれども、ただ精一杯に自分に与えられた責任を果たして、主人が帰ったときに、忠実な僕よと誉めていただけるようにと務めを果たすのです。
 主人が帰って来るとき、それは主イエスが再びおいでになる時、主の再臨のときを暗示しています。 そしてそれは、私たちには、人生の終わりの時を示しています。その時まで、今この時を無駄にしない、主イエスから委ねられている「生きる」という務めを忠実に果たすのです。終わりの日を目前にして生きるという使命を果たす、それがキリスト者に求められている生き方なのです。

 宗教改革者のマルティン・ルターは有名な言葉を残しています。「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう」。
 明日、世の終わりが来るとすれば、今日リンゴの木を植えることは無意味に思います。しかし、ルターは言うのです。たとえ明日、この世が終わっても、今日という日を無駄にしない。悲観的にならない。これは、プロテスタント教会のキリスト者の生き方です。
 今日という日を無駄にしない。それは、神がお造りくださったこの私を、たった一人のこの私を罪から救うために、神は御子イエス・キリストを十字架にかけ、私の罪を贖ってくださった、だから、神から与えられた「生きる」ということを、私たちは投げ出さない。それが聖書の教えていることです。

 多くの名作を残したキリスト者の作家、三浦綾子さんは、晩年、パーキンソン病の進行のために、ご主人の介助なく生きることはできませんでした。その状況を思うと、私たちならば「もう駄目だ」と悲観的になることでしょう。けれども、三浦綾子さんは「私には、死ぬという、神から与えられた仕事がある」と言いました。
 人は、最後まで生きる責任があるのです。神はこのことを望んでおられます。神が与えられた時があるのです。今日の御言葉は、このことを教えている言葉です。

 主イエス・キリストによって贖われ、与えられた生命なのですから、生きる道を選び取れと、神は言っておられるのです。
 このことは、若者にだけ言っているのではありません。すべての人に与えられた励ましの言葉です。前向きに生きるようにと語りかけてくださっているのです。

 教会は、この主の御言葉、慰めを、共に聴き歩む、信仰の共同体です。いつか終わりの日を迎える、そのとき、御国において私たちの涙を拭ってくださる、その主イエス・キリストが今、私たちを導いてくださっているのです。

 だからこそ、私たちは「リンゴの木を植える」、そのような生き方を選び取って、生きて行きたいと思います。

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