聖書のみことば
2014年7月
  7月6日 7月13日 7月20日 7月27日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 神の正体
2014年7月第3主日礼拝 2014年7月20日 
 
小島章弘牧師 
聖書/エレミヤ書 第10章1〜16節、コリントの信徒への手紙一 第13章8〜12節

エレミヤ書10章 <1節>イスラエルの家よ、主があなたたちに語られた言葉を聞け。<2節>主はこう言われる。異国の民の道に倣うな。天に現れるしるしを恐れるな。それらを恐れるのは異国の民のすることだ。<3節>もろもろの民が恐れるものは空しいもの 森から切り出された木片 木工がのみを振るって造ったもの。<4節>金銀で飾られ 留め金をもって固定され、身動きもしない。<5節>きゅうり畑のかかしのようで、口も利けず 歩けないので、運ばれて行く。そのようなものを恐れるな。彼らは災いをくだすことも 幸いをもたらすこともできない。<6節>主よ、あなたに並ぶものはありません。あなたは大いなる方 御名には大いなる力があります。<7節>諸国民の王なる主よ あなたを恐れないものはありません。それはあなたにふさわしいことです。諸国民、諸王国の賢者の間でも あなたに並ぶものはありません。<8節>彼らは等しく無知で愚かです。木片にすぎない空しいものを戒めとしています。<9節>それはタルシシュからもたらされた銀箔 ウファズの金、青や紫を衣として/木工や金細工人が造ったもの いずれも、巧みな職人の造ったものです。<10節>主は真理の神、命の神、永遠を支配する王。その怒りに大地は震え その憤りに諸国の民は耐ええない。<11節>このように彼らに言え。天と地を造らなかった神々は 地の上、天の下から滅び去る、と。<12節>御力をもって大地を造り 知恵をもって世界を固く据え/英知をもって天を広げられた方。<13節>主が御声を発せられると、天の大水はどよめく。地の果てから雨雲を湧き上がらせ 稲妻を放って雨を降らせ 風を倉から送り出される。<14節>人は皆、愚かで知識に達しえない。金細工人は皆、偶像のゆえに辱められる。鋳て造った像は欺瞞にすぎず 霊を持っていない。<15節>彼らは空しく、また嘲られるもの 裁きの時が来れば滅びてしまう。<16節>ヤコブの分である神はこのような方ではない。万物の創造者であり イスラエルはその方の嗣業の民である。その御名は万軍の主。

コリントの信徒への手紙一13章<8節>愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、<9節>わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。<10節>完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。<11節>幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。<12節>わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。<13節>それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

 本日は、エレミヤ書10章から神の言葉に聴いてまいります。

 前回に引き続いて、エレミヤが、イスラエルの人々に警告しているテーマが記されています。それは偶像礼拝のことです。この問題は、すでにモーセの十戒の第1戒において示されていることで、もっとも重要なことであることは言うまでもありません。なぜ、このことが繰り返し繰り返し問題にされるのでしょうか? それは、人間が、その弱さから、神ならぬものへと心変わりするからです。このことは、終りの日まで続くことでしょう。それは神の正体が見えないからです。
 新約聖書を読んでいただきましたが、有名な「愛の賛歌」で、パウロが述べている13章8節以下、特にその後半に、「だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」。ここにある〈その時〉とは終わりの時を言っているのです。顔と顔を合わせる、つまり神と顔を合わせるということ、そこで初めて神を知ることができるということです。それまでは、見ることができない。神の正体は、その時まで、お預けなのです。   

 エレミヤは、ここで偶像について指摘しています。天体の異変、木片、木工彫刻、金銀の彫金を挙げ、それらはどのように職工が制作しても、結局「きゅうり畑のかかし」にすぎないと。つまり、それは自分で動けず、運ばれてきて、災いも幸いももたらすことができないものであると。この表現は、エレミヤの優れた詩の言葉だといえましょう。
 結局、偶像とは、人間の手になるもので、人間が自分自身を崇めていることになるからです。そこが決定的なことで、聖書が偶像礼拝を禁止している根拠になるわけです。
 ということは、まことの神と偶像崇拝は、「神か人か、自分か超越者か」の二者択一になるということを意味していることになるわけです。

 もう少し、この点についてエレミヤの言葉に聞いてみましょう。エレミヤは、「きゅうり畑のかかし」ではない、まことの神は、「他と並ぶことができな方」、 超越した存在が、それだと言っています。まことの神は、横に並ぶことのできない方であるというのです。大いなる方であり、力を持った方、すべてのものの創造主であり全知全能ということです。加えて、「真理の神、いのちの神、永遠を支配する王」と言っています。
 それに対して、偶像には、<霊がない、力がない、滅び去るもの>にすぎない。

 偶像崇拝(idolary)がなぜ起こるかを考えてみますと、まことの神が見えない、触れられない、対話ができないということにあるのでしょう。何とか神を自分で作り出すことができればとの願いと欲求とが、偶像に走ることになるのではないでしょうか。触れることができないことも偶像に走らせています。触れられないということは、信じられないということにつながることだかです。
 また、神との間に会話ができないこと、それも人間には耐えがたいものになっています。神と人間の間に、対話不可能、理解不可能(discommunication)、なかなか理解ができず、一方通行one wayになって、神が一方的に語り、約束するということが普通で、人間の意志が通らないのです。常に神の側からの語り掛けに終始しているところに、人間の苛立ちともいうものが偶像を作り出すことになると考えてよいでしょう。 

 紀元8世紀、正確には紀元726年に、いわゆる画像論争が起きています。これは約100年続く論争で、結局キリスト教が、普遍的キリスト教(カトリック教会)から、東西に分裂することになった大きな歴史的事件となったものです。ことのきっかけは、キリスト教がローマ帝国の国教となり、勢力が強化され、それと同時に教会堂建築が盛んになるにつれ、教会堂内部の装飾が発展していきました。そこで、イエス像、これは私達から見れば偶像になると考えられますが、その当時イエス像が盛んに描かれるようになりました。東コンスタンチノーブルを中心として、イコン(画像)が書かれるようになって、イエス像に髭(ひげ)を生やすものが流行したわけです。威厳を重視した東キリスト教(東方教会)、現在のギリシャ正教会、ロシア正教会などは、イコンのキリスト像に髭をつけるようになったのです。
 それに対して、西ローマ(現在のローマカトリック教会)は、最初イエス像を描くことすら偶像崇拝になると考えていましたから、子羊を描くことで表していたほどでした。そこで、当然対立が起こり、別名「キリストの髭の論争」となったのです。そのことで亀裂が生まれ、結局分裂へと発展したわけです。威厳云々がそこまで行ってしまうわけです。
 こんな些細なことでと思いますが、人間の争いは、そんなものです。互いの小さな正義感が、大きな傷となっていくのです。人間の争いごとのきっかけは、些細なことから起こるのが普通です。

 だいぶ横道にそれてしまいましたが、偶像がそのようなことを生み出したほど、大きなことになっていくことを歴史は示しています。人間の弱さと罪とが、人と人とを引き裂くことになってしまうのです。
 真の神は、偶像のように人間の手になるものではなく、唯一、絶対的存在であって、揺らぐことなく、私たちをご支配なさる方です。「わたしはあるというもの」とモーセにお示しになったことが、そのことを示しております。出エジプト記3章14節に、神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また「イスラエルの人々にこういうがよい。『わたしはある』という方が、わたしをあなた方に遣わされたのだ」と言われます。
 続いて、神はモーセに、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」(出エジプト記33:20)と記していますが、私たちは目に見えない神を信じ、その方にすべてを委ねることに賭けたのです。わたしが神のものであること、そこに信仰を与えられたのです。

 エレミヤの時代と大きく違うのは、私たちは主イエス・キリストの十字架を知っています。復活されたことも知っています。それだのに、まだ揺らいでいるのです。十字架と復活の出来事、その大きな恩寵に与っているのですから、偶像に走ることはありえないはずです。神は、私たちに試練をお与えになり、背負いきれない試練を課せられることもあります。そんな時、私たちは、神なんか居るものかということになりかねません。しかし、それでも「神は居られる」と言い切れる信仰は、どこから来るのか。
 それは、人間の理性、知性と経験を超越したところにあるのです。それが信仰であり、神の正体は、まさにそこにあると言えるでしょう。  

 「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも『 イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。 」(コリントの信徒への手紙一12:1〜3)。

 私たちは、聖霊によってはじめて、イエスがキリストであり、十字架によって贖われた者であり、どのような不条理の中にあっても、それを試練として受け止め、それを克服する道を示し、導いていてくださることを信じることが可能となるのです。

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