2014年7月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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復活について | 2014年7月第2主日礼拝 2014年7月13日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第12章18〜27節 | |
12章<18節>復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。<19節>「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。<20節>ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。<21節>次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。<22節>こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。<23節>復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」<24節>イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。<25節>死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。<26節>死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。<27節>神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」 |
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13節では、ファリサイ派とヘロデ派の人々が来て、主に問いました。今日のところでは、18節「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた」と言われております。 モーセ五書を中心に「復活はない」と言われておりますが、旧約聖書全体を読みますと、死者に命が与えられるという考えが全く無いわけではありません。ダニエル書12章2節「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り…」、そして今日奇しくも招詞として聞きましたイザヤ書26章19節には「あなたの死者が命を得、わたしのしかばねが立ち上がりますように…」とあります。けれども、このようにはっきりと「復活」ということを思わせるのは、この二箇所のほかには殆どありません。詩編88編には「わたしの魂は苦難を味わい尽くし、命は陰府にのぞんでいます。穴に下る者のうちに数えられ、力を失った者とされ、汚れた者と見なされ、死人のうちに放たれて墓に横たわる者となりました。あなたはこのような者に心を留められません。彼らは御手から切り離されています」とありますように、「死の世界」は「神との関係を失った世界である」ことが記されております。旧約においては、死によって人は存在を失うと考えました。ですから、復活を考える余地は無く、死してなお永遠の命を与えられるという考えは基本的に無かったのです。 ではどうして、主イエスの時代に復活という考えが起こったのでしょうか。特には、マカベア戦争(古代シリア王国治下のユダヤ人反乱)における殉教者たちの死を受け止めるに際して、苦難の果ての殉教の死が神との関係を絶つものではないと考えるようになりました。神のために苦しむ者を、神は見捨てたまわないと考えたのです。 ここで、旧約における「命と死」について、考えておきたいと思います。 現代社会の闇は、損得勘定で人と関わるところにあります。日本人の感性には、悪霊信仰と美の感覚があって、例えば聖徳太子はその力のゆえに家系を断たれましたが、そのようにして抹殺された者の怨霊、悪しき力を鎮魂し、守護の力とするために、法隆寺は建立されました。悪しき力は大きいほど良いのです。大きな悪しき力を祀りあげれば、大いなる力を返してくれると考えるからです。ですから、必ずしも悪を退けません。けれども、美醜の感覚でいけば、汚いことは許されない。山梨県出身の大物政治家も、悪者であった間は、悪であっても故郷に利益をもたらす悪として受け入れらておりましたが、私利私欲の汚い人物であると判明したことによって力を失いました。このように日本人の宗教感覚の根本は、自分に利益をもたらすかどうかが大事なのです。 さて、ここでサドカイ派の言っていることは、レビラート婚の規定です。兄の子孫を残すことで、家系が存続するという考えです。ですから、ユダヤ人にとっての「永遠の命」の思想は、自分の命が子に受け継がれていくことにあるのです。個人の命ということではなく、子孫を残すことによる命の伝承、それが永遠の命なのです。 しかし、主イエスは24節に「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」と言い、27節でも「あなたたちは大変な思い違いをしている」と言われました。思い違いをしていると二度も言っておられます。 それゆえに、主イエスは言われるのです。25節「死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と。地上と同じ姿に復活するのではないと言われます。「天使のようになる」と言われますが、これは微妙な表現です。「天使になる」と言っていないのです。天使のような、つまり「天の存在になる」と言っておられるのです。 26節に「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか」と言われていることについては、私どもにはピンと来ないことです。私どもにとっては、アブラハム、イサク、ヤコブは皆、父祖であるとしても、既に死んだ者だと思っております。これはどういうことなのでしょうか。 主イエスは言っておられます。「神の力を知らないのか」と。「神の力は死に勝るということを知りなさい」と言っておられます。神の約束は決して無効にならない。たとえ死によっても排斥されることはないのです。 サドカイ派の人々は、復活の是非を問いました。けれども、主イエスが言われたことは是非ではありません。主イエスが、甦りのキリスト(救い主)であるというところから、主は語っておられます。もちろん、この時点では、まだ主の十字架も復活もありません。けれども、主イエスはここで、「甦られるお方として、復活について語ってくださっている」のです。 人の命を軽んじている、それが現代社会の問題です。それは、3.11、原発の問題が語っていることです。 主イエスは、甦られるお方として復活について語り、約束をくださいました。それが今日の個所においての主の御言葉です。そしてそれは、信じる者に約束される恵みであることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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