聖書のみことば
2014年2月
  2月2日 2月9日 2月16日 2月23日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 あなたに欠けているもの
2014年2月第4主日礼拝 2014年2月23日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者) 
聖書/マルコによる福音書 第10章17〜31節

10章<17節>イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 <18節>イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。<19節>『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 <20節>すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。<21節>イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」<22節>その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。<23節>イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」<24節>弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。<25節>金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」<26節>弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。<27節>イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」<28節>ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。<29節>イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、<30節>今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。<31節>しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 主イエスが旅に出ようとしておられます。どこへ行かれるのでしょうか。それは、神殿のある神の都エルサレムです。
 それは、神殿に詣でるためでしょうか。そうではありません。弟子たちも知らないことですが、それは、主イエスが「十字架に死なれるため」です。「世の罪人の贖いとなるため、罪人の救いを成し遂げるため」に、主はエルサレムに向かわれるのです。
 それゆえに、主イエスの旅立ちは、「福音」への旅立ち、前進なのです。「福音」とは「善き知らせ」です。善き知らせ、罪人の救いを成し遂げるために、主はエルサレムへと旅立たれるのです。
 このことは、とても印象的なことです。主イエスが私どもの救いのために前進される、それは私どもに対しての促しでもあるからです。エルサレムへの主の一歩一歩が、私どもを救いへ、救いへと進むようにと導いていることを覚えたいと思います。

 さて、そこで17節「ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた」と記されております。ここで気になることがあります。「ある人」と言われております。
 新共同訳聖書は大変懇切丁寧で、平行記事の箇所や、この箇所に対する表題まで付けられており、そこには「金持ちの男」とあります。しかし、マタイによる福音書では「青年」であり、ルカによる福音書では「議員」であり、このマルコでは「ある人」なのです。話の内容から表題を「金持ちの男」としたのでしょうが、これは余計なお世話と言わざるを得ません。聖書は「ある人」と言っているのであって、それは何も特定されない「ある人」なのです。
 つまり、すべての人に当てはまるのであり、それは私どもをも含むことを、先ずは覚えたいと思います。「金持ちの男」と言われれば、それでは自分とは関係ないと思ってしまうかもしれませんが、そうではないのです。この「ある人」は、私ども自身を含んでいることを思いながら、御言葉に聴きたいと思います。

 「走り寄って、ひざまずいて尋ねた」と言うのですから、主イエスなら必ず答えてくださると確信していたのでしょう。この人は、主イエスに真剣な問いを、自分の実存のかかった問いをするのです。
 この人が求めていることは、はっきりしております。「永遠の命」を求めているのです。聖書における「救い」とは、「永遠の命」を示しております。このマルコによる福音書以降に書かれたヨハネ福音書では、「救い」を「神の国」として言い表し、それは「神との尽きることのない交わり」を示すのです。

 この人は、主イエスに対して「ひざまずいて」おります。そして「善い先生」と呼びかけております。それは、主イエスへの敬意を表すものですが、単に教師に対する敬意を超えた振る舞いでもあります。「ひざまずく」それは、神に対する振る舞いなのです。
 ここで主イエスは、この人のこの振る舞いに対して、18節「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と、突き放しておられます。「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と、主イエスは、ご自身が「神の子なる、神であられる」にもかかわらず、神として讃えられるのを求めてはおられないのです。
 主イエスは神の子でありながら、「人として」、この世に来られた方です。この人のところにも、「人として」来られ、出会ってくださっているのです。敢えて「人となって」来てくださった、私どものところに来てくださったのです。それゆえに、主は「ひざまずかれる」ことを良しとはなさいませんでした。「善いとは、神以外にない」と言って神を表し、そのことを通して、この人を神へと向かわせておられるのです。

 それは、「神のみ、救い」だからです。「善い」とは「救いの出来事」です。「神のなしてくださる救い」こそが「善い」のです。主イエスは、この人を、また私どもを神へと向かわせてくださっております。主はこのようにして、「神に仕え、人に仕えておられる」のです。
 主イエスは、どうして「善い先生」と呼ばれることを拒まれたのでしょうか。実際には、主イエスは「善い方」でありながら、ただ「神のみを示す」ために、ご自分が「善い」と呼ばれることを拒まれました。それは、主イエスが私どもに、「人としての真実な在り方」を示してくださったということです。「神と人とに仕えること」こそが、人の真実の在り方であることを示してくださったのです。真実な人として生きること、キリスト者の生き方は、「神に仕え、人に仕えて生きること」です。もし人が、神に仕えることなく、人に仕えるならば、いつしか人は自分が神となる高慢な者となるのです。人は、「低さ」を持つことなく、真実に自分を生きることはできません。
 けれども人は、自分の力によっては「低さ」を知り得ない。ただ神にあって、自らの低さを知る以外にないのです。
 主イエスは、この人に、私どもに、「善き方とは、神お一人である」ことを示しておられます。そして、「永遠の命を与えてくださるのは、神のみである」ことを示しつつ、語ってくださるのです。

 19節「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」と、主は教えてくださっております。これは、十戒のうちの5戒から10戒までですが、主はここでこの人に、「あなたはこの戒めを知っているはずだ」と言われるのです。この部分は、十戒のうちの「人に関する規定」ですが、十戒とは神より与えられた神の民の生活の指針ですから、「神がどう生きたらよいか、ここに教えてくださっているだろう。そして、そのように生きればよいことを、あなたは知っているだろう」と言っておられるのです。
 主イエスは、こう言うことによって、この人の思いを鮮やかにしてくださっております。「神の御心に適う者が永遠の命を得る」と、この人は思っております。それに対して、主イエスは、「だから、そうしなさい」とは言われません。「あなたは、そのことを知っていて、既に行っているだろう」と言われるのです。実際にこの人が行っていることを、認識させておられるのです。

 ですから、彼は、20節「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。この人は、十戒を守っているのです。主は、彼が「神の御心に適う生き方をする者が、永遠の命を受け継ぐ」と思っていることを、もう一度、この人に認識させておられるのです。しかし、主のこの言葉は、「そうではない」ことを暗示しております。このことを深く知ることは、私どもにとってもなかなか難しいことです。
 主は知っておられます。この人が十分に十戒を守った人であることを知っておられるのです。そして私どもも、まさしくこの人は「神の御心に適うように生きてきた、誠実で真面目な人である」ことを覚えなければなりません。
 けれども、この人は、誠実であればあるほど、「救いの実感、永遠の命に至る確信を得られなかった」というのです。主イエスは、その誠実な生き方を否定はなさいません。けれども、「永遠の命」は、そのことによって受けられるものではないことを示されるのです。「神の御心に適う生き方をすれば、永遠の命を得る」と思っていることに対して、「行いによって与えられる報いとして、永遠の命を考えてはならない」と言っておられるのです。
 この人は、神の御心に誠実であろうとすればするほど、自分が救いから遠いことを感じて、それゆえに、主イエスに真剣に問わざるを得なかったのです。

 そのようなこの人に対して、主イエスは、21節「彼を見つめ、慈しんで言われた」と記されております。主イエスは、この人のすべてを知った上で、「見つめて」くださっております。主が見てくださる、それは「主イエスの愛の眼差し」です。主は、愛の眼差しをもって、そして「慈しんで」くださるのです。
 「慈しんで」とは、「痛んで」ということです。この人を憐れと思ったということではありません。そのようにしか生きられない、その人を「痛んで」おられるのです。それが主イエスの慈しみです。

 覚えてよいことがあります。私どもには、さまざまに、いろいろな生き方があります。そして、皆、自分なりに誠実に生きようとし、またそうでしか生きられないのです。そんな私どもを主が痛んでくださっていること、それはどれほどに慰め深いことか、支えであることかを思います。主イエスが痛みをもって私どもを思ってくださっている、だからこそ、救いがあるのです。

 主イエスは、この人に「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と教えてくださいました。この人が、施しをしなかったとは思えません。私は思います。この人は、自分にできる限りの施しをしただろうと思います。それほどまでに誠実な人であったと思うのです。けれども、主が言われたことは、「すべてを無にすること」でした。それは神にお返しすることですが、しかし献げることこそが必要なことなのではありません。その先に「わたしに従いなさい」と言っておられます。この人のなすべきことは、「主に従うこと」にかかっているのです。
 すべてを無にする、無だからこそ、それゆえに「主イエス・キリスト以外にない」、そういう者として「主に従うこと」、そこでこそ「永遠の命がある」と示されているのです。

 この主の言葉に対して、この人は落胆します。22節「たくさんの財産を持っていたからである」と記されております。彼は「持っている物を売り払う」ことはできませんでした。私どもは、彼が財産に固執しているからできなかったのだと思ってしまいますが、そうではありません。彼は財産を持っていたから、その財産に対しても誠実で真面目であったから、できなかったのです。もしそんなことをすれば、周りの人からは「どうしてそんなことをするのか」と思われることでしょう。そのような自虐的な、自己放棄の生き方は良いとは思えない、何とか真面目に生きようと、この人は思うのです。だから、できなかったのです。
 とかく財産に目がくらんでできなかったと思われがちですが、そうではなく、神の掟を忠実に守っていた人だからこそ、富に対しても誠実だったということです。なぜならば、富も神からの恵みであると信じられていたからです。誰もが財産を維持できるわけではありません。大きな富を持っていたということは、財産管理の能力も持っていて、財産を維持できたのでしょう。それほどに真面目な人なのです。誠実に真面目に生きるという生き方を放棄できなかったのです。「ただ神にすがる」ということはできなかったのです。

 この人は「永遠の命を受け継ぐには」と問うています。覚えておかなければならないことは、「永遠の命は、どこまでも、恵みとして与えられるものである」ということです。こうしたから、ああしたから受け継ぐ、というものではないのです。
 マタイによる福音書では、ある人のことを「青年」と言っております。青年が多くの財産を持っているということは、あまりしっくりしないことです。青年が財産を持っているということは、財産を受け継いだということです。遺産を与えられたのです。マタイによる福音書では、遺産もまた与えられた恵みとして言い表しております。
 ですから、ここでも同様に、「永遠の命は恵みとして与えられるものなのであって、それに相応しい者として生きたから与えられるというものではない」ことが示されております。

 この人は「神の御心に適う生き方をしていれば、与えられる」と思っておりました。けれども、そうではなかったのです。だから、誠実であればあるほど、真面目に生きようとすればするほど、それが報いとして与えられると思っているならば、与えられなかったのであり、確信を得られなかったのです。

 けれどもここで、この人は、救いから遠ざけられてはおりません。この人にも、「永遠の命は恵みとして与えられる」と言ってくださる主イエスがいてくださるのです。ですから、救いは閉ざされておりません。ただ、「すべてを無にして、主に従う者に与えられる」のです。

 誠実で真面目に生きていれば、神が応えてくださると思っていること、それこそが、この人の罪です。いかに誠実に生きる者であっても、「神の前に、罪人にすぎない」ことを忘れてはなりません。自らが誠実であると思えば思うほどに、そこに罪深さが潜んでいます。そして、自ずと神から遠ざかってしまうのです。
 いかに真面目で誠実であろうとも、私どもは、「神のあわれみを必要とする罪人にすぎない」ことを知ること、そしてただ「主にすがる」こと、そこでこそ喜びが満ち溢れるのです。

 私どもの日々の歩みは、罪なる歩みであります。神の憐れみなくして生きられないのです。そのことを覚えたいと思います。そして、そんな私どもを主が痛んでくださっていることを、主の憐れみのうちに生かされていることを、感謝をもって覚えたいと思います。
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