2014年2月 |
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2月2日 | 2月9日 | 2月16日 | 2月23日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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しきにり語る神 | 2014年2月第2主日礼拝 2014年2月9日 |
小島章弘牧師 |
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聖書/エレミヤ書 第7章1〜16節、マタイによる福音書 第21章13節 | |
エレミヤ書 7章<1節>主からエレミヤに臨んだ言葉。<2節>主の神殿の門に立ち、この言葉をもって呼びかけよ。そして、言え。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。<3節>イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。<4節>主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。<5、6節>この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。<7節>そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。<8節>しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。<9節>盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、<10節>わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。<11節>わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。<12節>シロのわたしの聖所に行ってみよ。かつてわたしはそこにわたしの名を置いたが、わが民イスラエルの悪のゆえに、わたしがそれをどのようにしたかを見るがよい。<13節>今や、お前たちがこれらのことをしたから――と主は言われる――そしてわたしが先に繰り返し語ったのに、その言葉に従わず、呼びかけたのに答えなかったから、<14節>わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの神殿に、そしてお前たちと先祖に与えたこの所に対して、わたしはシロにしたようにする。<15節>わたしは、お前たちの兄弟である、エフライムの子孫をすべて投げ捨てたように、お前たちをわたしの前から投げ捨てる。」<16節>あなたはこの民のために祈ってはならない。彼らのために嘆きと祈りの声をあげてわたしを煩わすな。わたしはあなたに耳を傾けない。 マタイによる福音書 21章<13節>そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」 |
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旧約聖書は、39巻で構成されています。それを掛け算しますと、3×9=27巻が、新約聖書、合計66巻をプロテスタント教会は正典(canon カノン =尺度の意 あのカメラのキャノンはこのラテン語から取られたと思われます。)としていることはご存知の通りです。 聖書は、皆さんがお持ちのものを正典として重んじていますが、この外に外典アッポクリファや,偽典(にせもの)と言われるものも数多く存在しています。トマスによる福音書とか、ペトロの福音者、ユダの福音書なども今話題になっているものも存在しています。 聖書全体は、約1000年間の中で口伝されたもの、記述されたものとさまざまです。旧約と新約の間の約200年は、中間時代といわれ、殆ど聖書の中に存在していません。黙示文学が花盛りだったとも言われてはおります。 エリヤ(エリシャ)は、預言者の代表のように書かれていますが、その他にいわゆる文書を残している預言者がたくさんいます。旧約聖書の後半にあります17巻はすべて預言書です。大変バラエティーに富んでいまして、個性的です。中にはヨナ書のような童話的なもの、ダニエル書のような黙示文学的なものまでありますので、面白いのですが、難解なものがあります。時代的背景を見なければ何を言っているのか分からないものもあります。いわゆる大預言者には、その筆頭にイザヤが登場していますが、これも実は、一人ではないようで、第1、第2、第3と3人がいたといわれています。ですから難しいのです。 わたしたちの教会では、66巻が正典カノンとして認められていますが、今私が持っている聖書には、カトリック教会が認めていまが外典が、数編含まれています。そのほとんどが日本語になって、なぜかそのほとんどは講談社から出版されています。 新約の外典では、ペトロ福音書、トマス福音書、またユダの福音書というものが最近では話題になっています。私たちは読む必要がありませんが、ジュンク堂に行っては立ち読みしています。 これは、エレミヤ書の中でも有名な箇所の一つです。いくつかのメッセージが伝えられていますので、拾い出しながら聞いてまいりましょう。 いつの時代でも、国の正義は、一番弱いものへの配慮がなされることでなければならないとエレミヤは考えています。 イエス様の視線もそうでした。常に弱いものに向けられていました。病人、子供、女性など、当事社会的に弱いものに目を留めて,憐れんでくださいました。 エレミヤが、イスラエルの民衆に語っていることは、正に「怒り」だといってよいでしょう。ただ、「神殿、神殿」と呪文のように唱えていることで、弱いものへの正義がないがしろにされていることへの怒りだといってもいいでしょう。 イエス様は、神殿でここは強盗の巣であると怒りました。神殿は祈りの家だと言われました。 次にエレミヤがいっていることは、悔い改めがないということです。「悔いて」はいても「改め」まで行かないことを指摘しています。これは私にとっても耳の痛いことです。悔いることはしょっちゅうしていますが、改めるところにいかないでとまってしまっていることが大部分です。 時代の混迷のとき、腐りきった時代にはオカルト的な宗教が出現し(イスラエルの時代には偶像礼拝)、民衆がそれに動揺することが起こります。エレミヤの時代には、政治的不安が、神殿により頼むという状況に人々を駆り立てていたのです。 先に見ましたように3節で『お前たちの道と行いを正せ。そうすればわたしはお前たちをこのところに住まわせる』とあります。これをよく読むと、エレミヤは「道と行いとを正す」ことによって、真の安全が約束されるといっているのです。正義こそが、時間と空間、時と処を結びつけるというのです。(申命記16:20、ミカ書6:8)
わたしたちの安全、シャロームは、健全ということです。神がわたしたちに土地を与えてくださるというのです。それは、神の正しさが行われるときに与えられるものだとエレミヤは言うのです。 最後は、16節です。ここは、口語訳聖書では、『あなたは、この民のために祈ってはならない、彼らのために嘆き、祈ってはならない、またわたしにとりなしてはならない。わたしはあなたの求めを聞かない』となっています。 |
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