2014年2月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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神が結び合わせる | 2014年2月第1主日礼拝 2014年2月2日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第10章1〜12節 | |
10章<1節>イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。<2節>ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 <3節>イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 <4節>彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。<5節>イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。<6節>しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。<7節>それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 <8節>二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 <9節>従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 <10節>家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。<11節>イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。<12節>夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」 |
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1節「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」と記されております。「そこ」とはどこかと言いますと、カファルナウムでしょう。主イエスはカファルナウムを出てユダヤ地方に行き、ヨルダン川の向こう側、一般的に東ヨルダンと言われる所へ行ったということです。 けれども聖書にこう記されている以上、私どもは、「主イエスがユダヤ地方から東ヨルダンに行かれた」ことに何らかの意味を見出すべきだと思います。 そして東ヨルダンの地で、「群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた」と記されております。主イエスの行かれる所に、人々は集まっております。ユダヤの地に限らず、東ヨルダンでも同じことが起っている、それは「人々が主イエスを必要としている」ということです。 そして主イエスは、「いつものように教えて」くださっております。 「いつものように」とは、心惹かれる言葉です。主は「いつもと変わりなく」御言葉を下さいます。「いつものように」人々に話してくださる、主イエスの慈しみに、いつものように人々は与っております。主イエスの言葉を頂くことは、神の憐れみ、慈しみを頂くことです。「いつものように」主が慈しみをもって人々を包んでいてくださることを覚えたいと思います。 このように、主イエスが人々に教えておられたときに起ったことは何でしょうか。2節「ファリサイ派の人々が近寄って、『夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と尋ねた。イエスを試そうとしたのである」と記されております。ファリサイ派の人々が主イエスに、律法について尋ねたとありますが、ファリサイ派の人々は律法に精通し厳守している人々であり、律法を最もよく知る者ですから、わざわざ主イエスに尋ねる必要のない人たちが尋ねているということです。しかも彼らは、「近寄って」とありますように、群衆と一緒に主の教えを聴いていたのではなく、人々に教えておられる主イエスに質問するために「近寄って」来たのです。その理由は「イエスを試そうとした」のだと記されております。彼らは、主イエスに教えて欲しいと思って尋ねているのではありません。彼らは自分の答えを持っているにも拘らず、敢えて問うのです。それは、主を「試す」ためでした。 主イエスは、ファリサイ派の人々が聞く必要もないのに尋ねていることをしっておられます。ですから、尋ねられて、逆に彼らに問われるのです。3節「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問われました。彼らが答えを持っていることをご存知だから問い返されるのです。 4節「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」とは、申命記24章1〜4節に基づく答えです。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。…」とあるのです。離縁する場合には離縁状を渡せということですが、その理由は「妻に恥ずべきことを見いだした場合」であって、内容的には女性の権利を守っている律法です。ファリサイ派の人々は、この律法を知っているのですから、「離縁状を書いて離縁を許す」と答えました。知っているのですから、主イエスに聞く必要のないことを聞いたことが分かります。 ここでもし、ファリサイ派の人々が主イエスに聞きたい思うことがあるとするならば、それは、もう一歩先の内容について問うという可能性はあるでしょう。例えば「妻に見いだす恥ずべきこととは何か」とか「気に入らなくなったとき」とはどういうことか、このことについては律法の専門家の間でも見解が分かれておりましたので、そのことを問うことはできたのです。「妻の恥ずべきこと」は「妻の姦淫においてのみ」と考える人たちがあり、またリベラルな人たちは「妻が食べ物を駄目にしたり、他の者の妻より劣っている」ことを「気に入らなくなったとき」としておりましたから、それはどちらが正しいかと問う可能性もありました。けれども、「離縁が可能かどうか」などと問う必要は無かったのです。 ここで主イエスは、5節「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」と言っておられます。本来「離縁状を書く」ということは、何の理由もなく離縁してはならないからです。そのように、結婚を守り女性を守るための律法であるのに、人は悪賢く「理由を付ければ離婚できる」と離縁状を逆手に取って離縁しようとしたのです。「理由があれば良いだろう」とすり替える、人の罪深さがあります。人は、自己正当化のためであれば理由などいくらでも付けられるのです。このように律法を合理化して考え、本来の律法の心を忘れて、律法を自己正当化のために用いる、そのような人の罪の姿を知らなければなりません。だからこそ、主イエスは深い指摘をなさったのです。 6節〜「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」と、主は言われます。どういうことでしょうか。神が、男と女に創造され、神が一人の男と一人の女を一体とされる、それは「結婚は神の御心によることである」と示しておられるのです。人の思いによっての結婚ではない、「神が二人を結び合わせ一つのものとしておられる」と示されるのです。 またここで、「結婚し夫婦となる」という出来事は「父母を離れて」と言われていることは尊いことです。なぜならば、親子の関係、絆は簡単に切れるものではないにもかかわらず、その親子の絆以上のものとして夫婦の絆が重んじられることが示されているからです。「夫婦の関係」とは、人間関係の中において第一義的な最も大事な関係であることを知らなければなりません。 更にまた、夫婦ということにおいて、この言葉は大きな意味を持っております。神の創造された一人の男、一人の女として、夫婦は互いに尊い存在です。神によって与えられた存在として、それゆえに、互いは「神の恵み、神の賜物である」ということです。人の好き嫌いによらないのです。もちろん、互いに惹かれ合うことはより良いことですが、そのことにおいても「思いをくださるのは神である」ことを知らなければなりません。「神が与えてくださる恵みとして相手を受け取る」べきことを、「神が結び合わせてくださった者同志である」ことを、主イエスはここで示してくださっております。 けれどもここで問題となるのは、現実には離婚があるということです。このことをどう捕らえたらよいのでしょうか。神学者カール・バルトは、「キリスト教倫理」という著書の中で、この点について語っております。 ここに示されていることは、大変重い出来事です。主イエスは、結婚の中心にあることは「神のご意志である」と導いておられるのです。離婚できるかどうかが問題なのではありません。「結婚とは、信仰の出来事である」ことが示されているのです。結婚は、人の理由やそのことによって得る利益によらないのです。 10節「家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた」とあります。主イエスがファリサイ派の人々にお答えになったことを、弟子たちは理解できませんでした。ですから、主は、11節、12節と、なお教えてくださっております。 しかし、この部分は9節までと内容が違っております。そして注意すべきことは、12節「夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」という言葉は、元の律法には無いということです。離縁状というのは、あくまでも夫が書くものだったからです。このことは、後の教会の状況が反映しているのだと言われております。そして、現代においては一般的なことです。 そのことはそのこととしまして、私どもは、主イエスが教えてくださったこと、「神の御旨としての結婚である」ということに思いを馳せたいと思います。その神の御旨、神の御心に従うことはまさしく私どもの信仰ですから、「結婚もまた信仰の出来事である」ということの重さを示されているのだということを覚えたいと思います。 |
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