聖書のみことば
2014年10月
  10月5日 10月12日 10月19日 10月26日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 話すのは、聖霊
2014年10月第3主日礼拝 2014年10月19日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第13章9〜13節

<9節>あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。<10節>しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。<11節>引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。<12節>兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。<13節>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」

 9節、主イエスは、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」と言われました。今日の準備をしながら、この言葉にはっとさせられました。私どもは、他者に気をつけよと思うことはありますが、ここで主イエスが「自分のことに気をつけていなさい」と言われていることを考えるべきです。

 この箇所は後との繋がりが難しいところです。この後には、弟子たちに対する迫害が語られております。けれども、主イエスは、迫害に遭わないように気をつけなさいと言っておられるのではありません。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる」と言われ、必ず迫害を受けると言っておられるのです。ですから、自分のことに気をつけて、迫害に遭わないように気をつけよとは続きません。この箇所だけが独立していると思われます。

 では、「自分のことに気をつけていなさい」とはどういう意味なのでしょうか。自己管理ということなら分かりますが、そういうことではありません。気をつけるのは他者、他のことと思っている私どもに対して、自分のことに気をつけよとは感慨深い言葉です。「自分のこと」とは何かを受け止めなければなりません。
 人は、自らに執着する者です。そして、そこに問題があります。例えば、マタイによる福音書6章26節に「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」とあり、私どもは「空の鳥」を勝手に小鳥だと解釈しておりますが、平行記事であるルカによる福音書12章24節では「烏(カラス)のことを考えてみなさい…」とあり、小鳥とカラスでは随分違いますから、そうなると、この箇所に対する印象も違ってきます。私どもは好き嫌いで物事を考えるのです。また例えば、子育ても、自分にできることは子どももできるという親の勝手な思い込みがあるために、最初の子どもは失敗することが多いものです。それもこれも、自分が基準になって事柄を判断するからですが、それは自分に執着しているからです。そういうあり方が、ひいては他者への好き嫌いとなる。人は公平では有り得ません。
 ですから、ここで「自分のことに気をつけていなさい」と言われていることは、どういうことをするにしても「自分に執着する、そういう自分に気をつけなさい」と言われているのだと考えますと、分かります。

 ただ、そこで問題があります。それは、「執着している、そういう者が気をつけることができるか」という問題です。執着しているのですから、気をつけるのではなく、仕方ないでしょうと開き直りになる、身勝手になり傲慢になるのです。そんな自分にどうやって気をつけるのでしょうか。自己制御、コントロールできるでしょうか。悟りを開くほどの人であれば、できる人も少しはいるかも知れませんが、多くの人にはできません。開き直るしかないのでしょうか。だからこそ、考えてよいのです。
 執着せざるを得ない自分であるからこそ、そういう自分に気をつけていなさいと言ってくださる主イエスの前にひざまずく他ないのです。主の前にひざまずき、自らを客観視する、そこでこそ執着から解き放たれる糸口を得るのです。
 私どものことを一番よく知っていてくださるのは、主イエスです。私どもが知る自分自身以上に、主は私どもを知っていてくださいます。真実に自分を捉えることが難しい私どもです。ですから、真実に私どものすべてを知っていてくださる主イエスの前に立つ、そのときだけ、私どもは気付き、真実に自分を捉えることができるのです。

 今このようにして守っている礼拝は、私どもが主イエスの前にひざまずき、「自分のことに気をつけている」ことです。この時この場こそ、もう一度自分を客観的に捉える時なのです。それは、私どもを受容していてくださる神の前にひざまずくことです。赦されているからこそ罪を知り、ゆえに、赦し受容していてくださる神への感謝と、神の御支配を願うのです。神の憐れみなくして済まされない、ゆえに、神の憐れみを祈るようになるのです。私どもが祈る、そこでこそ、神の憐れみと慈しみが私どもに臨むのです。このことが、「自分のことに気をつけていなさい」との言葉に示されていることです。
 神の赦しをお題目のようにして願うことは、祈りを、自分を傲慢にする道具にしてしまうことになりかねません。そうではなく、ありのままの自分が示される、十字架の主の贖いによって赦されているからこそ自らの罪を深く知る、そこでこそ、開き直りでしかない自分から解き放たれ、ただただ神への感謝と神の憐れみを祈る者とされるのです。
 日本人は習慣的に下を向いて祈りますが、ヘブル人は天を仰いで祈ります。下を向きますと自己反省の姿勢になり、ついつい自己吟味するような祈りになりがちで、神の赦しを求める切実感が少なくなるようです。くずおれて、御赦しを願うように祈れるならば幸いです。なかなか難しいことです。神の赦しのできごとは、神の憐れみが自らに臨んでいることを知ることです。神の憐れみのうちにあることを実感していることですから、そうであれば、礼拝こそは神への感謝と祈りとして、私どもの生命線です。

 このように「自分のことに気をつけていなさい」との言葉は、独立した言葉として私どもに重い言葉ですが、それだけではなく、後との繋がりについても考えなければなりません。この後には、弟子たちに対する迫害が語られております。迫害と聞いて、戦後世代の者は迫害を経験したことがありませんので、他人事として受け止めてしまうことでしょう。そのように他人事として受け止めてしまうことに対する戒め、迫害を自分のこととして聞きなさいと捉えるという解釈です。
 私どもの教会は、このことを心して聞かなければなりません。愛宕町教会もかつて、70年近くも前ですが、権力の迫害によって解散させられたという経験を持つのです。ですから、私どもも「迫害」ということを自分のこととして捉えなければなりません。教会の逝去者略歴を見ますと、当時、キリスト教に対する迫害の中で、キリスト者としての証しを立てた方たちの記録も残っております。ですから私どもは、迫害を他人事としてではなく、自分のこととして捉えておかなければなりません。これから先、同じことが起こらないとも言えないのです。

 そしてこのことは、教会にだけ言われているのではなく、私ども一人ひとりも捉えておくべきことです。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」と主は言われました。主の弟子(キリスト者)が、キリストの名をいただいているがゆえに引き渡され、打ちたたかれ、総督や王の前に立たされて証しをするというのです。
 聖書の中で、迫害を受けた者の代表者は使徒パウロです。パウロは、コリントの信徒への手紙二の11章で「彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。 キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした…」と、様々な迫害を受けたことを語っております。また、使徒言行録26章を見ますと、敵する者に告発されローマ総督の前に立たされたパウロは、「アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います」と、公の場での弁明を望みました。それは公判の場での弁明こそ、公にキリストを証しする場であると思ったからです。キリスト証言が公の場で語られるということは、すなわち世界中にキリストを宣べ伝える機会となると、パウロは考えました。このことは非常に重要なことです。隠していることは公にはなりません。それはつまり、公の承認を受けないということです。誰が何と言おうと、私どもが語り続けるならば、そしてそれが公の場であるならばなおさら、宣教の業となるのです。

 ここで「わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」と主が言われた「証し」と訳されている言葉は、ギリシャ語の元の言葉を見ますと「殉教」という言葉です。つまり、殉教そのものが証しだと、主は言っておられるのです。
 この箇所を読む者は、この後の言葉「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」と言われていることに引きずられて、どう語ることが証しなのかを考えてしまいます。しかし、そうではない。引き渡されて捕らえられていること、そのこと自体が証しだと、主イエスは言ってくださっているのです。これは素敵なことではないでしょうか。
 人々の前でどんな立派な弁明をしたかということではなく、キリストの御名のゆえに捕らえられたこと自体が、キリストを証ししているのだと、主は言ってくださっているのです。そうであれば、安心です。どのように弁明するかを心配する必要はないのです。キリスト者であるがゆえに捕らえられる、あるいは悪口を言われる、しかしその人はそこで既にキリストを証ししていると、主が言ってくださっているのです。これは大きなことです。キリストの御名のゆえに生きること、それこそが私どもの証しであるということです。そのゆえに迫害を受けるとするならば、主はその者を憐れんでくださるのですし、キリスト者は、キリストのゆえに永遠の命の約束をいただいているのです。

 「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない」と言われております。必ずそこで、聖霊が働いてくださるからです。キリスト者であるがゆえに弁明を必要とするならば、まず、問う方も「なぜキリストを宣べ伝えるのか」と問わざるを得ません。問う側がキリストの御名のゆえに問わざるを得ないとすれば、キリストにある者として、問われたことに真実に答えれば良いのです。ですから、この弁明は特別なことではありません。「キリストのゆえに」起こる全てのことは、まさしく聖霊の働きによるのです。
 キリストが語られる、それはまさに神が証しされることです、そこで聖霊が働くのです。キリスト者として、問われたことに答えるだけで証しをしているのです。犯罪に対する問いや弁明ということとは違います。「キリストの御名のゆえに」ということであれば、自ずと答えることはキリストを証しすることになるのです。
 そう考えますと、それは家庭であっても職場であっても、起こることは同じです。「なぜ礼拝に行くのか」と問われることもあるでしょう。そこで、キリストのゆえに語ることに対して聖霊が働き、私どもは主を証しすることになるのです。

 12節〜「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とは、共同体について語られていることです。家族(親、兄弟)は一番小さな共同体ですが、キリストを信じる者となることは、血肉によるその共同体から離れ、キリストにある共同体の一員となることですので、そこでかつて属した共同体は嫉妬し憎むということが起こるのです。
 キリストを信じる者は、神の家族として新しい共同体を与えられます。そして、この新しい共同体こそが、核家族化した現代社会にとって大事です。人は、共同体に中に自分を位置づけるのですから、地域や家族という共同体制が崩壊しつつある今、神にある共同体はとても大事なのです。神にある、揺るぎない共同体の一員であること、このことは何よりも慰め深いことです。
 今日は山梨ダルクのメンバーが大勢礼拝に来ておりますが、ダルクも家族を離れ共同生活をする中で共同体作りをし、そこで失われた共同体制を取り戻す生活をしております。それがリハビリであり、ダルクの回復プログラムはキリスト教から生まれたこともあり、それは大変宗教的です。

 とは言え、地上にある共同体はいずれ失われてしまうのです。しかし、神の家族である教会の共同体は、決して失われることのない共同体であることを覚えたいと思います。
 「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とは、キリストにある共同体の一員として、神の家族の一員として生きる者に与えられる恵みです。キリストを信じる者には、永遠の命の約束が与えられているのです。
 キリスト者は、終わりの日の救いの完成の約束を与えられて、今この時を生きる者であることを、感謝をもって覚えたいと思います。

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