2014年10月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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話すのは、聖霊 | 2014年10月第3主日礼拝 2014年10月19日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第13章9〜13節 | |
<9節>あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。<10節>しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。<11節>引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。<12節>兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。<13節>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」 |
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9節、主イエスは、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」と言われました。今日の準備をしながら、この言葉にはっとさせられました。私どもは、他者に気をつけよと思うことはありますが、ここで主イエスが「自分のことに気をつけていなさい」と言われていることを考えるべきです。 この箇所は後との繋がりが難しいところです。この後には、弟子たちに対する迫害が語られております。けれども、主イエスは、迫害に遭わないように気をつけなさいと言っておられるのではありません。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる」と言われ、必ず迫害を受けると言っておられるのです。ですから、自分のことに気をつけて、迫害に遭わないように気をつけよとは続きません。この箇所だけが独立していると思われます。 では、「自分のことに気をつけていなさい」とはどういう意味なのでしょうか。自己管理ということなら分かりますが、そういうことではありません。気をつけるのは他者、他のことと思っている私どもに対して、自分のことに気をつけよとは感慨深い言葉です。「自分のこと」とは何かを受け止めなければなりません。 ただ、そこで問題があります。それは、「執着している、そういう者が気をつけることができるか」という問題です。執着しているのですから、気をつけるのではなく、仕方ないでしょうと開き直りになる、身勝手になり傲慢になるのです。そんな自分にどうやって気をつけるのでしょうか。自己制御、コントロールできるでしょうか。悟りを開くほどの人であれば、できる人も少しはいるかも知れませんが、多くの人にはできません。開き直るしかないのでしょうか。だからこそ、考えてよいのです。 今このようにして守っている礼拝は、私どもが主イエスの前にひざまずき、「自分のことに気をつけている」ことです。この時この場こそ、もう一度自分を客観的に捉える時なのです。それは、私どもを受容していてくださる神の前にひざまずくことです。赦されているからこそ罪を知り、ゆえに、赦し受容していてくださる神への感謝と、神の御支配を願うのです。神の憐れみなくして済まされない、ゆえに、神の憐れみを祈るようになるのです。私どもが祈る、そこでこそ、神の憐れみと慈しみが私どもに臨むのです。このことが、「自分のことに気をつけていなさい」との言葉に示されていることです。 このように「自分のことに気をつけていなさい」との言葉は、独立した言葉として私どもに重い言葉ですが、それだけではなく、後との繋がりについても考えなければなりません。この後には、弟子たちに対する迫害が語られております。迫害と聞いて、戦後世代の者は迫害を経験したことがありませんので、他人事として受け止めてしまうことでしょう。そのように他人事として受け止めてしまうことに対する戒め、迫害を自分のこととして聞きなさいと捉えるという解釈です。 そしてこのことは、教会にだけ言われているのではなく、私ども一人ひとりも捉えておくべきことです。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」と主は言われました。主の弟子(キリスト者)が、キリストの名をいただいているがゆえに引き渡され、打ちたたかれ、総督や王の前に立たされて証しをするというのです。 ここで「わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」と主が言われた「証し」と訳されている言葉は、ギリシャ語の元の言葉を見ますと「殉教」という言葉です。つまり、殉教そのものが証しだと、主は言っておられるのです。 「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない」と言われております。必ずそこで、聖霊が働いてくださるからです。キリスト者であるがゆえに弁明を必要とするならば、まず、問う方も「なぜキリストを宣べ伝えるのか」と問わざるを得ません。問う側がキリストの御名のゆえに問わざるを得ないとすれば、キリストにある者として、問われたことに真実に答えれば良いのです。ですから、この弁明は特別なことではありません。「キリストのゆえに」起こる全てのことは、まさしく聖霊の働きによるのです。 12節〜「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とは、共同体について語られていることです。家族(親、兄弟)は一番小さな共同体ですが、キリストを信じる者となることは、血肉によるその共同体から離れ、キリストにある共同体の一員となることですので、そこでかつて属した共同体は嫉妬し憎むということが起こるのです。 とは言え、地上にある共同体はいずれ失われてしまうのです。しかし、神の家族である教会の共同体は、決して失われることのない共同体であることを覚えたいと思います。 |
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