2014年10月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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産みの苦しみ | 2014年10月第2主日礼拝 2014年10月12日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第13章3〜13節 | |
13章<3節>イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。<4節>「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 <5節>イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。<6節>わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。<7節>戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。<8節>民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。<9節>あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。<10節>しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。<11節>引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。<12節>兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。<13節>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」 |
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弟子たちがエルサレム神殿のすばらしさに心も目も奪われて賞賛したことを受けまして、主イエスは「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)と答えられました。神殿の崩壊を言われたのです。その主の答えを受けて、4人の弟子は、4節「そのことはいつ起こるのですか」と、また「どんな徴があるのですか」と問いました。これは当然と言えば当然の問いです。 主は何と言われたのでしょうか。5〜6節「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」と、注意すべきことは「人に惑わされるな」ということだと言われました。「神殿は破壊される」と言われた主イエスに「それはいつ起こるのですか」と問うた弟子たちは、既に主イエスの言葉に惑わされております。主は、こういうことで惑わされてはならないと言っておられるのです。弟子たちが「惑わされる」ことに問題を感じておられるのです。 「惑わし」、それは人を不安にさせます。どうなるのかと不安になるのです。「いつ起こるのか」と問うたということは、「いつ」ということに捕われていることです。そして、そのような捕われによって起こることは何かと言いますと、熱狂なのです。人の不安は熱狂を生みます。そのことを主イエスは知っておられる。ですから「惑わされてはいけない」と言われるのです。主は熱狂主義が起こることを知っておられるのです。 6節の「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、…」というところは解釈の難しいところです。今の私どもには実感はありませんが、メシア到来を待望していた当時のユダヤ人であれば、「わたしはメシアである」と名乗る人がいれば惑わされるだろうという解釈もできます。 いつの時代であっても、このような惑わしはあります。「主イエスの言葉をもって」であっても、人々を不安にさせ、熱狂させるということがあるのです。 1970年代、80年代に、日本の教会において、これに類することを経験しました。この時代に教会の中心になった一つのことがありました。人々は、「聖書に聞き、イエスに聞く」と言いました。その言葉だけを見れば、それは正しいのです。しかしその裏にあったことは何かと言うと、「今、社会にある問題に対して、教会はどう対応したら良いか」という問いを立てたのです。教会は現代の問題に対してどう対応すべきか、そのためには聖書に聞かなければならないし、主イエスがどう行動されたかを知り、それに学ばなければならないと説いたのです。 このことを人々はよく理解できず、未だに引きずっている現実があります。そのような「惑わし」が、いつの世にも存在しているということを知っておきたいと思います。 人が人を助けるということは難しいことです。助けられる側に力量がなければ、助けられても結果は恨みとなってしまいます。助けたからといって、物事は解決しません。人が人を助けることは、危険を伴うことです。上下関係を生み、支配を生み、劣等感や優越感を生むのです。 先の主張においては、教会はこの世と同じ体質を持っている、組織が抑圧体質を持っている、ゆえに教会は解体すべきだとしました。それが、1970代からの教会を揺るがした問題でした。 人々が惑わされることを、主イエスは知っておられます。ゆえに言われるのです。7節「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」。実際に70年にエルサレム神殿の崩壊が起こりました。ユダヤはローマの属国でしたので、いつ戦争が起るか(戦争のうわさ)は、常にあったことです。けれども、主イエスは「戦争が起きても終末ではない」と言っておられます。人が武器を持てば、戦争は必ず起こるのです。力を持てば、必ず使いたくなるのです。人間の出来事は終末ではありません。「終末は、神の出来事である」ことを覚えたいと思います。 新共同訳聖書には小見出しがついておりまして、この箇所には「終末のしるし」という言葉が書かれていることはあまり良いことではありません。見出しを見て内容を読みますと、戦争や飢饉などが終末の徴なのかと思ってしまいます。けれどもここで、主イエスは、そんなことを言ってはおられません。8節「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」。戦争や自然災害、あるいは人と人との格差、このようなことは当然なこと、起こることですが、そのことによっては終末は来ないのです。 主が言っておられることは何か。「終末はいつ来ても良いのだ」ということです。いつ来たとしても、主イエス・キリストに依り頼む者は、対応ができるのです。どんなふうに終末が来ても、主イエス・キリストの約束が与えられている、終末における救いの完成が約束されている。約束されていることを思い起こすならば、どんなとき、どんな様であっても大丈夫なのです。 終末は、いつ起こってもおかしくないことです。だからこそ、大事です。主の約束が救いの中心にあるのです。 終末はいつ来るかは大事なことではありません。主の御言葉を頂いているか、御言葉に与っているか、御言葉の内にあるか、そのことが大事です。ゆえに主イエスは、いつ起こるのかという問いにはお答えになりませんでした。そして「惑わされるな」と教えてくださいました。 |
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