2014年10月 |
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10月5日 | 10月12日 | 10月19日 | 10月26日 | |||
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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読者よ、悟れ | 2014年10月第1主日礼拝 2014年10月5日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第13章3〜13節 | |
13章<3節>イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。<4節>「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」 <5節>イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。<6節>わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。<7節>戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。<8節>民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。<9節>あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。<10節>しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。<11節>引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。<12節>兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。<13節>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」 |
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3節に「イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた」と記されております。主イエスは神殿に何を見、何を思っておられるのでしょうか。先に言われたように、神殿の破壊される様子を見ておられるのでしょうか。 4節「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」と、4人の弟子は主イエスに、ひそかに尋ねました。主が神殿の崩壊について語り、神殿を見ておられる様子に促されて、こう問わずにはいられなかったのです。ここに「問いを持つことの大切さ」が示されております。 改めて、問いを持つことの大切さを思います。問い、それは神がくださった思いなのです。主は問うことを良しとしてくださるのです。 問いを持たないことは、何も考えていない、無関心に過ぎません。何の感情も無いということです。度々申しますが、愛の反対は無関心です。関心が無いということは、愛の無い姿なのです。ですから、問うことは愛することでもあるのです。深い関わりを持っているからこそ、問うのです。 私どもは、「なぜ」という思いがあってこそ実存があることを知らなければなりません。それは信仰生活においても同じです。疑問を持つこと、なぜ?と問わざるを得ないことを神に問う。問いを発することができるほどに親しい関係にされている、それがまさに「弟子とされている」ということです。ですから、主に問うことは、主の弟子とされている印なのです。 ここに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレと、4人の弟子の名が記されております。なぜこの4人なのかという疑問がわきます。弟子の代表として思い浮かべるのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネで、この3人の名はゲッセマネをはじめ度々出て来ますが、アンデレの名はありません。なぜこの場面ではアンデレが出てくるのか、注解書の多くは理解を諦めておりますが、少し考えてみたいと思います。 主イエスに最初から従った4人の弟子が、主に問う。従う者であるからこそ、問うのです。ですから、問うことは弟子の印でもあります。主イエスに従っているからこそ、問わざるを得ないのです。このことを今日のこの箇所は示しております。「主に従う」とは、どういうことなのか示されているのです。「従う」とは、ただ言われたことをやるだけのロボットとは違います。「従う」ことは、自発的なことではありますが、しかしそこには「問う」ことも含んでいるのです。従う者として、だから問うのです。 私どもの信仰生活においても、改めてこのことを思って良いと思います。「なぜ、こんなに苦しいのか」と思うとすれば、それは、信仰があるからこそ、問いが起こるのです。信じるがゆえに「どうしてでしょうか」と問うのです。「こんな私で良いのか」と、真面目な信仰生活をしていればしているほど、問うはずです。また、なぜこんな苦しみがあるのかと、問うのです。私どもは、主に従う者だからこそ、問わざるを得ないのです。 そして、その問いが深ければ深いほどに、恵みはなお深いと言えます。 ここで、弟子は「ひそかに」尋ねたと記されております。なぜ「ひそかに」なのか、このことは、主イエスのこれからの出来事を暗示しております。終わりの日に様々なことが起こる、そこに「神の秘め事がある」ことを示しております。神がそこで「ひそかに」御業をなされるのです。 主の苦難と十字架の死はまだしも、「主の復活」ということになると、なお理解は困難です。「復活」は人には理解できないこと、信じ切れない出来事です。信じるしかない、けれども本音では信じられない出来事、復活こそ秘儀中の秘儀、神の奥義です。 ですから、覚えたいと思います。私どもは神秘(しんぴ)の出来事に与っているのです。そのことを忘れますと、人の理解や感情の出来事になってしまいます。信仰においても、人の理解の出来事になってしまうことを忘れてはなりません。 人は、苦しみにおいてこそ救われる者です。それがまさに神の秘儀の出来事です。人の知性や感性で知り得ない出来事です。神は私どもの救いを、神秘の御業をもってなしてくださいました。私どもの救いを、「ひそかな」形でなしてくださったのです。 弟子たちは問いました。問うているのは「いつ神殿が崩壊するのか。どんな徴が起こるのか」ということです。ここまでの成り行きを見れば、そう問うことは当然のことでしょう。 |
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