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2013年9月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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福音のために | 9月第5主日礼拝 2013年9月29日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第8章34節〜9章1節 | |
8章<34節>それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。<35節>自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。<36節>人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。<37節> 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。<38節>神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」9章<1節> また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」 |
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この前のところで、主イエスは弟子たちに、ご自身の苦難と死そして復活について教えられましたが、それを聞いたペトロは主をいさめ、そのペトロに対して、主イエスは「サタン、引き下がれ」と厳しく叱られたのでした。 そして34節「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』と記されております。ここで敢えて「群衆を共に呼び寄せて」と言われております。弟子だけでなく、群衆をも主が招いてくださっているのです。それは、この御言葉を聴く私どもをも、「主に従うこと」へと招いてくださっているということです。 そして、ただ「従う」ということではなく、「自分を捨て、自分の十字架を背負って」と言われております。どういうことでしょうか。 根本は、私どもが「どこに属しているか」ということです。この世に属する限りは、この世に属する者として自分に執着せざるを得ません。そうではなくて「神に属する者となる」、そこでこの世の束縛から解き放たれるのです。この世・人の世から、神の世への転換ということです。このことが無ければ、人は自分への執着から解き放たれることはできません。 「この世」の意味するところは何でしょうか。それは「被造物、造られたもの」ということです。つまり「有限性のあるもの」ということです。先が限られている、だから束縛を受けるのです。人は限りある者として生きなければなりません。この世も同じです。「限られた」という不自由の中にいれば、不自由に生きざるを得ないのです。「限定された自己」という前提があって自己執着がある。「天に、神に属する者」であって初めて、「無限の自分」を思うことができる。ですから、「神に属する者」となって、有限性から解き放たれる以外ないのです。 次に、「自分の十字架を背負う」とは、どういうことでしょうか。「背負う」とは、ここでは「担う」ということではありません。共観福音書では、ルカによる福音書だけが「担う」と言っております。マルコでは「主イエスが十字架を背負われたように、背負う」という意味です。「担う」というのであれば、自分に与えられた課題を担えと言われていることになりますが、ここではそうではないのです。実際に十字架を背負うということは、犯罪人として処罰を受けることです。つまり、そのように「十字架に付けられる覚悟を持ちなさい」ということなのです。 死をも恐れないということが、どうしてあり得るのでしょうか。このことを知るためには「生命(いのち)とは、いかなることか」を知る以外に答えは見出せません。つまり、「生命の源である神に委ねる」だから「死をも恐れない」ということが起こるのです。 「主に、神に従う者」は、「神との永遠の交わりに与る者」です。今日は逝去者記念式をいたしますが、そこで私どもがすることは何でしょうか。この地上を生き、死んだ方々が、今、天において神との永遠の交わりの中にあることを覚えるということです。満ち満ちた神との交わりにあることを覚えるのです。あの人はこんな人だったと、在りし日のことを偲ぶということだけではない。在りし日、そうであったあの人は、今、天において神との交わりに満たされているのだということを覚える、それが逝去者記念式においてなされることです。 終末の出来事を、聖書は「完成のとき」と語ります。それは「完全な命となる」ということです。地上の命は、完全ではありません。年を取れば取る程に、どんどんと失われていきます。自分自身は衰え、周囲で生きていた人々も死んでいくのです。そのような老いの現実の中で、人は苦しみます。完成などとは到底思えないのです。 けれどもそれだけではなく、「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」と続きます。「福音のために」と、マルコによる福音書は語ります。「主に従う」ことによる迫害があるだけではなく、「福音のために」つまり「福音宣教のために」迫害を受け命を失う者も救われると、主は言ってくださっております。 36節「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われます。「全世界を手に入れても」とは、どういうことでしょうか。それは、今の関心事で言えば、金メダルを獲ることです。自らの道を究めるということです。金メダルを獲ること、そこには感銘や名誉はありますが、しかしそれは、天に通じる道ではありません。地上を超えたものでない限り、地上で究めたこともやはり、死と共に滅びる、失われるに過ぎません。地上を生きる限り、もちろん、道を究めることがあっても良い。あるいは逆に挫折ということもある。しかし、それらのことを超えて、主を信じ神に依り頼む者は、地上で道を究めた者でも手に入れられなかった「勝利」を得ることができるのです。 ですから、神との交わりがないがしろにされるならば、その生は虚しいものなのだということを覚えたいと思います。 信仰ある生は、命の充実です。けれども覚えたいことがあります。人生を愉しむことは生の充実でしょう。しかし、人生をはかなむことも良いのです。はかなみつつ、悲しみつつ生きても良い。はかなんでいることに捕われなければ良いのです。はかなむ悲しみで終わらない。その先があることによって満たされる生、それが聖書の語ることです。人生を愉しもうと、はかなもうと、主にある生であるならば、その人の命は満たされた命であることを覚えたいと思います。 そして、そのような「満たされた生」とは、「主イエス・キリストの血潮によって、十字架の贖いがあって初めて与えられる生、救いである」ことを覚えたいと思います。「命の源である神との交わりに生きる」者であること、それは自力によってなることではありません。ご自身の血潮によって罪を贖い、神との和解を成し遂げ、私どもに救いを与えてくださった主イエス・キリストを信じる信仰によるのです。 その主をくださった神に、まったく依りすがるよりありません。神に委ねる、依りすがる、そこでこそ「神に属する者とされる」ことを、「命の源である神との交わりに生きる者とされる」ことを覚えたいと思います。 |
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