聖書のみことば
2013年9月
9月1日 9月8日 9月15日 9月22日 9月29日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら 音声でお聞きになりたい方は
こちらまでご連絡ください
 

 パウロの生き方
9月第2主日礼拝 2013年9月8日 
 
小島章弘牧師 
聖書/使徒言行録 第22章1~5節

22章<1節>「兄弟であり父である皆さん、これから申し上げる弁明を聞いてください。」<2節>パウロがヘブライ語で話すのを聞いて、人々はますます静かになった。パウロは言った。<3節>「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。<4節>わたしはこの道を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです。<5節> このことについては、大祭司も長老会全体も、わたしのために証言してくれます。実は、この人たちからダマスコにいる同志にあてた手紙までもらい、その地にいる者たちを縛り上げ、エルサレムへ連行して処罰するために出かけて行ったのです。」

 パウロの晩年はどうだったかに非常に関心を持っています。が、それを知る資料はほとんどありません。使徒言行録にいくらかの手がかりがあります。今読んでいただいたところです。ただ、全部を読むことは時間的に出来ませんでしたが、興味がある方は、読んでみてください。
 パウロの信仰が、どれほど成熟していったのか? 私自身人生の後期を迎えておりますので、自分がどれほど成熟しているのか、退化しているのか等々、思い悩んでいますので、こんなことに注意が向けられているのです。

 ご存知のようにパウロは、よく伝道しました。その信仰は、数通の手紙を見ても、秀でていることは誰もが認めるところです。そのようなパウロが、どのように成熟したのかを知りたいという思いがあります。
 長い旅行は4回であったことを聖書は伝えています。すべて使徒言行録に書かれていますが、最後の旅行については、21章から終わりまでが、それに当たります。エルサレムを出発して、ローマまで、殆どが洋上で、船旅です。ローマまで護送されたものでした(パウロは皇帝に上訴していましたので)。
 そのような旅中でも、パウロは、伝道者としてあり続けています。その終わり方が印象的です。使徒言行録の最後に記されています。「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」(28章30〜31節)
 イエス・キリストが、紀元29年ごろ十字架刑で死に、3日後に復活してから、パウロがネロ皇帝の時代に逆さ十字架で処刑されたのが65年頃ですから、約35年ほどたっているわけです。教会の草創期、弟子たちを始め、多くの信徒たち、その中にはパウロも加わって、大きなうねりを持って、キリスト教会は発展していきました。その背景には、コイネーギリシャ語が共通語として使われていたこと、また道路が地中海沿岸を始めその周辺に張り巡らされていたなどが有効に働いていたことをあげることが出来ます。
 それだけ広範囲にキリスト教が拡大していったのは、パウロの活動が実を結んでいったことはいうまでもありません。神のご計画は、人知をはるかに超えています。それが、この書、使徒言行録を「聖霊の書」と呼ばせることになっています。

 それはパウロの言語力、並びにパウロは生まれながらのローマ市民であったことが、彼の伝道に大きく影響したことは言うまでもありません。それ以上に彼が、多くの手紙を残していること。しかも、キリストの福音を正確に受け止め、それを言語化していることが、わたしたちが福音を理解することを容易にしていることにつながっています。
 この使徒言行録では、21章17節から終わりまでの長いところを、それに当てています。全体の4分の1に当たります。

 第3旅行からエルサレムに戻ったパウロを待っていたのは、パウロに対する非難と誤解でした。パウロが、ユダヤ人の古くからの習慣や律法に反対しているということで、批判が起こりました。これは根も葉もないことで、エルサレムの指導者たちは、そのことを理解していましたが、(24節)一般の人たちは、パウロを非難していたのです。
 さらに、パウロに対する誤解もありました。それは、アジア州のユダヤ教徒で巡礼してきた一人の男エフェソでクリスチャンになったトロフィモと一緒にいたところを見られて、しかもその異邦人が神殿の境内で目撃されて、それが事件へと発展していったのです。そこでエルサレムが大混乱に陥り、パウロはユダヤ人たちから滅多打ちにされ、殺されそうになったので、ローマ軍が出動して鎮圧することになり、(31)鎖2本でパウロをつなぎ、パウロから事情を聞くことになったのですが、騒ぎは収まらず(31〜34)結局兵営にかくまわれることになり、パウロは担ぎ上げられて、ようやっと逃れることができたというのです。連行される途中で、パウロがギリシャ語ができることを知った千人隊長は、民衆に弁明の機会をパウロに与えたことから、今日の22章1節が始まっています。パウロの演説です。パウロは、ヘブル語で話し始めたとありますが、おそらくアラム語ではないかと思われます。これは民衆が理解できる言語です。それはイエスご自身の言語でもあります(エパタ、ラボニ、エロイ、エロイ、レマ、サバクタニなど) 。

 パウロは、自分の回心の出来事を語り始めます。これは、言行録に3回出ています。微妙な違いがありますが、9章、22章、26章に記されています。
 3回のうち2回がこの後半にあるということは、パウロ自身が罪を深く考えていたからではないかと思います。
 牧師になりたてのとき、一人の女性、26歳ネフローゼを病んでおられた方、その方が、家族が席をはずしているときに、病室で、「先生わたしの罪は赦されるでしょうか」と小さな声で言われました。このごろしきりにそのことが思い出されるのですが、死を間近にすると、罪を深く自覚するようになるのではないかと考えられます。
 年をとると罪意識が深くなるということを実感しております。パウロもそうではなかったかと思います。ですから、あの回心のことを語っているのではと。

 パウロの信仰は、神様から一方的に与えられるものであるという経験が回心の出来事であったのです。自分がキリストとキリスト教徒を迫害していた、そんな惨めで、どうしようもない罪を救いあげてくださったという信仰を与えられたことを深く思い返していたのではないでしょうか。 パウロは、自分の罪の深さを自覚し、自分の惨めさを知れば知るほど、キリストの赦しを深くすることが出来たのではないでしょうか。
 使徒言行録が、3回にわたって、パウロの回心のことに触れているのは、そこにパウロの信仰の原点があるからです。後半2回も記述されていることは、おそらくパウロはが、これまでにも何回ともなく語ってきて、最後になろうとしているときにどうしても語らざるを得なくなってきたのではないでしょか。
 それはパウロにとって、忘れることができない復活のキリストとの出会いであり、信仰への出発であったからに他なりません。
 それは一言で言うならば、信仰は神から、上から一方的に与えられるものだということ、罪赦されるということは神の恵みの賜物であり、ただ信仰によってのみ与えられるものだということをパウロは経験的に知っていたからに他なりません。

 パウロは、手紙の中で、自分は「キリストの囚人(口語訳)」だとも言っていることから、キリストのものであることを信仰的な事実として受け止めていたのではないかと思われます。
 パウロの成熟ということは、そのことであると言って良いでしょう。それがパウロの信仰のスタンスでありました。
 したがって、キリスト以外は自由という立場を貫いていたわけです。その意味で、パウロは本当の自由人であったと言って良いでしょう。

 キリストとの出会いは、まったく現実的なものでありました。決して抽象的なものではなかったのです。
 つまり、キリストとの出会いは、彼にとって「自分の罪が赦された」という贖罪の信仰でもありました。
 また、復活についても多く言及していることも注目させれます(23章6節、8節、24章15節、21節、26章8節、23節)。
 罪人とは、自分だけを愛する人のこと、と言っても良いでしょう。パウロは「義人、正しい人は一人もいない」と言っていますし、自分が「罪人の頭」とも言っています。決してこの私も例外ではありません。エゴイストの最たるものです。自分のことを中心にしようという傾向が強く出てくるのです。
 実はそれが人間の悲哀と悲惨になり、自由のないものにしているのです。自分を自分で縛っている不自由さの中に生きていることになります。 

 28章の最後が、「神の国を述べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」で締めくくられていることは、パウロの生き様を言い表しています。

このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ