2013年9月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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自分の十字架を負う | 9月第3主日礼拝 2013年9月15日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第8章31~38節 | |
8章<31節>それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。<32節>しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。<33節>イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」<34節>それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。<35節>自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。<36節>人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。<37節>自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。<38節>神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」 |
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31節で、主イエスが弟子たちに、「人の子は必ず苦しみを受け、十字架に死に、そして復活される」ことを教えられたことを受けて、32節「ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」と記されております。 ここで知っておくべきことは、「救いを求めているのは、この世である」ということです。この世が人々を救うのではありません。この世は人によって形づくられています。そうであれば、人が救い(メシア)を求めているということは、この世が救いを求めているということです。救いを求めている者が、救いを提示はできませんし、救うことはできないのです。 人は、自らの欲するものによって物事を作り、限りなく欲するがゆえに、破れるのです。ですから、救いを求めている者が救うことはできないし、救いは「外から」しか提示できないことを忘れてはなりません。 苦難と復活によって人の罪を清算し、罪を終わりとするメシア。この救いは「ただ神にのみある救い」であって、この世の理解を超えているのです。この世の理解を超えて示されるところに、救いがある。それは「十字架と復活の主イエス・キリストにのみある」のです。 ペトロのこの行いに対して、主イエスはどうなさったでしょうか。33節「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」と記されております。ここで「振り返る」とは、どういうことかを考えたいと思います。 「サタン、引き下がれ」とは、厳しい言葉です。この言葉は、ペトロ一人に向かっているのではありません。弟子たち全体に対して語られております。これは「この世に対して」語られていると理解してよいのです。ですから、主が振り返って語ってくださったということは、私どもにとっても大切なことです。 教会は、この世の力に守られているのではありません。私どもが覚えるべきことは、教会は「神によって守られている」ということです。神によってのみ、キリスト者は、教会は守られているのです。神に属する者、神のものとしてのあり方を守られているのです。 人は、自らの思いから解き放たれることなく、救われません。自らの欲するところに陥り自分第一になるしかない、そのような私どもを解き放ち、神のものとしてくださったこと、このことを思いつつ、この主イエスの言葉に聴きたいと思うのです。 メシアは、神からのものです。自分の思いでメシアを知るのではありません。そうではなくて、神に心を向けてこそ、神に示されて知るのです。 ですから私どもは、この世のことではなく「神のことを聡く知る者とさせてください」と、祈るより他ありません。私どもの思いを変えなければ神に向かえない、ゆえに、祈らざるを得ないのです。聖霊なる神が働いてくださることを、神へと向かえるようにと、祈らざるを得ないのです。 私どもが自分の力で変わるのではありません。ただ神の力が臨んでこそ、私どもは変えられるのです。そしてそれが聖霊の出来事です。 「聖霊を、御言葉をください」と祈る、それが私どもの日々の歩みです。 そして、このようにして週毎に「礼拝を守る」ことは、神との交わりを通して御言葉をいただき、神へと心を向けさせていただく恵みの時であることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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