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2013年7月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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感謝の祈り | 7月第3主日礼拝 2013年7月21日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第8章1~10節 | |
8章<1節>そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。<2節>「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。<3節>空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」<4節>弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」<5節>イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。<6節>そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。<7節>また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。<8節>人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。<9節>およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。<10節>それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。 |
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今日の箇所は、主イエスが4,000人に食べ物を与えられた話です。既に6章30〜44節で5,000人に食べ物を与えられたことが記されておりますので、再びここで、この話をすることは難しいことでもあります。また、こんなことが本当にあったのかという学問的な問いもあるのです。 ここでは、時間や場所は特定されておりません。そこで人は色々と知恵をもって先走りして考え、6章はユダヤ人に向けて、8章は異邦人であるギリシャ人に向けて書かれたのだという解釈があるのです。対比してみますと、6章ではパンは5つで残ったパン屑の籠は12個、8章ではパンは7つで籠は7個です。この解釈によれば、6章のパン5つは「モーセ五書(旧約聖書)」であり、8章のパン7つは「70人訳ギリシャ語聖書(異邦人のために翻訳された聖書)」です。12つの籠は言うまでもなくイスラエル12部族であり、7つの籠は、新約に入り初代教会の職制(使徒の他に7人の執事が置かれた)を表すとしています。それゆえに、この8章は異邦人キリスト者に対するメッセージと捕らえるのですが、しかし、そのように特定できるわけではありません。私としては、この節を退けるわけではありませんが、それがここに聴くべき中心のメッセージと取らない方が良いと考えます。 1節「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた」と記されております。ここでの設定は「群衆には何も食べる物がなかった」ということです。それは、人々の「飢え乾き、困窮、欠乏」を表しているのです。では、その困窮とは何かということですが、ここで6章と大きく違っていることは何かと言いますと、群衆の飢え乾きに対して、6章では主イエスは受け身で弟子たちの方から働きかけていますが、8章では主イエスの方から働きかけておられるということです。 2節に、主イエスが「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」と言ってくださいます。ここでは主イエスが主導権を持っておられて、群衆に対する心遣いをなしていてくださるのです。群衆の思いを先取って酌み、自ら行動してくださるのです。「三日」とは、欠乏の著しさを強調する言葉です。 他者と同じ思いに立つということは、とても辛いことです。人が人の重荷を担うことは辛いことです。相手の重荷を知れば知るほどに、それは重く、担いきれずに共倒れてしまうのです。人は他者の重荷、痛みを担えません。担おうとすれば、自らが病んでしまうのです。同じ者でしかないのに担い合おうとすることは、本当の救い、本当の慰めにはなりません。 そのような私どもを、主イエスは憐れんでくださいます。神なる方が憐れんでくださるのですから、私どもは救われるのです。 ここで、群衆は本当に「かわいそう」なのかどうかと思います。「三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」と主は言われましたが、空腹で帰りたければ、帰れば良かったことでしょう。けれども、人々はそこに居たかったから居たのです。 そして、3節に主イエスは「空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる」と、「人々に食べさせる」と言ってくださっております。これは単に空腹を満たすことを目的としてのことなのでしょうか。そうではありません。私どもは、主イエスが群衆を「恵みをもって去らせようとしてくださっている」と聴くべきです。 しかし、この主の言葉に対して弟子たちは、4節「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」と答えます。弟子たちは、どこまでも物わかりが悪いのです。6章で既に経験しているわけですから、そう考えれば、「主よ、あなたにならお出来になります。何をするべきかお示しください。従います」と言えた筈なのです。けれども、弟子たちはどこまでも無理解です。 主イエスは、人の思いを知る方、人の心の飢え乾きを知る方として、人々と共にあって下さる方です。ですから、人は、主イエスと共にあるとき、幸いなのです。自らの深い飢え乾きすら自分で分からない、そういう私どもと共に、主はいてくださいます。神が、主が共にあってくださるところに幸いがあるのです。 そして、主は、何も分からない、理解しない弟子たちを用いてくださいます。 主は「感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった」とあります。6章とは違っております。6章では「讃美の祈り」ですが、8章では「感謝の祈り」なのです。7節以降は、6章と合わせるかのように、魚を出され、讃美の祈りがなされます。 人の飢え乾きを知っていてくださる方、主ご自身が、ご自身の血潮をもって罪を贖うという形で、人を救ってくださいました。言い表すことのできない人の罪まで贖って下さる方は、十字架と復活の主イエス・キリスト以外にないことが、ここに示されていることです。 人は、裏切るしかない者です。しかし、神は決して裏切ることはありません。神以外に、真実に信頼できる方はいないのです。 9節「およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた」と記されております。恵みに恵みを加えて、主イエスは人々を家路へと送り出してくださっております。 10節「それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた」とありますが、ダルマヌタの地方とはどこなのかは分かりません。けれども、主が訪ねてくださる場所、そこに救いの恵みが満ち溢れるのだということを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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