聖書のみことば
2013年7月
  7月7日 7月14日 7月21日 7月28日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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 エッファタ
7月第1主日礼拝 2013年7月7日 
 
北 紀吉牧師(文責/聴者)
聖書/マルコによる福音書 第7章31~37節

7章<31節>それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。<32節>人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。<33節>そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。<34節>そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。<35節              >すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。<36節>イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。<37節>そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」

 31節「イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」と記されております。ティルスは、前節で異教徒・異邦人の女が娘を癒してほしいと主イエスにすがった場所です。主にすがるより無かった女に、主イエスは御言葉をくださり、娘は癒されました。7章の初めからの出来事の影響を受けて、今日の箇所に繋がっております。

 7章の最初で、主イエスは、ファリサイ派の人々の言い伝えを守ることに生きているそのあり方に対して、「神の言葉を無にしている」(13節)と言われました。ファリサイ派の人々は律法を重んじているようで、実は律法を虚しくしていると言われたのです。それから群衆に向かっては「悟りなさい」と言われ、弟子たちには「あなたがたも物わかりが悪い」と言われました。
 ここに言われていたことは、信仰者は神の言葉を無にし、弟子を含む群衆には悟りが無い、信仰者も群衆も神の言葉に対して無理解であるということです。
 人は、神の言葉を理解できないか、あるいは自分の思いによって無にしてしまうのです。

 では、神の言葉は無力なのでしょうか。24節で、主イエスにすがるより無かった女の場合、主が病む娘のところに行かれたわけではありませんが、しかし主の御言葉によって娘は癒されました。
 人は神の言葉を理解せず無にしてしまうのに、その神の言葉は人を救い、慰めを与えるものなのです。
 このことは大事なことです。自分が神の言葉を理解しているから、神の言葉は力であると思うということ、それはまったく無いことではありませんが、そのような思いは、神の言葉の力を曇らせてしまいます。私どもがどうであろうとも、神の言葉は力そのものであることを覚えなければなりません。人には理解できなくても、神の言葉は力ある言葉なのです。
 大事なことは、人の救いは、私どもの理解を超えているということです。私どもの理解によって救われるのではありません。理解による救いであれば、悟りであり会得でしょう。そうではなく、会得できない者の救いのために、理解を超えた力が臨むから救われるのです。私どもが無理解に過ぎない者であることは当然のことです。神の力は、私どもの理解を超えた力なのです。

 けれども、私どもは、理解できなくても「神の言葉をいただく」ことは出来るのです。私どもは「神の救いの宣言」によって救われます。洗礼に際して聞くことは「あなたの罪は赦された」との宣言です。このことは、洗礼の後、日々の生活の中で実感することなのであって、この宣言によって全てを理解するということではありません。私どもの実感によって洗礼を受けるとすれば、洗礼は虚しいものとなるのです。けれども、洗礼とは、宣言を受けたところで神の救いが臨むということです。
 私どもにとって大事なことは、自分が「無理解な者、理解し得ない者であることを知る」ことです。理解できない、だから「憐れんでください」と、主に委ねることができるのです。自分の力でどうにかしようとすれば、委ねることはできません。どうにかしようともがきつつ、深みにはまってしまうけれども、這い上がることもできなくなるのです。そこで、ただ神が「引き上げて」くださるしかありません。

 このように、30節までには、神の言葉が救いであることが示されておりました。触れることなく癒しが、救いが起こる。それが前提としてあるのです。
 そして、31節に入り、今度は、主イエスに触れていただくことによって癒されたことが語られます。言葉をくださることによって癒しをなさる方であることが前提にあって、触れることによっても癒される方である、このことを覚えなければ、ここだけを読むと主イエスの業を魔術的なものとして聞いてしまう危険があることを知らなければなりません。

 さて、主イエスはティルスを去り、一旦北に上ってシドンへ行き、ガリラヤの奥の異邦人の地デカポリスまで行き、そして漸くガリラヤへ戻られました。地図を見れば分かりますが、まともに考えれば、ガリラヤに戻るためになぜこのような行程になるのかと理解できないところです。けれども、ここで知ってよいことは、主イエスがガリラヤを囲む異邦人の地すべてを回ってくださったということです。
 主イエスは本来、神の民イスラエルの救いのために来られました。しかし、主が敢えて異邦人の地へと行かれたことによって、異邦人の女が救われました。それは、私どもの救いに繋がっているのです。主が異邦人の地を回られたということは、主が私たちのところにも来てくださったということを示しているのです。

 主がガリラヤに戻られると、人々がやって来ました。31節「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った」と記されております。人々は、自分の癒しのためではなく、癒しを必要とする人を連れて来るのです。多くの人が連れて来られる、それは主イエスへと導く人たちがいるということです。主へと導く人々を主は憐れみ、救ってくださるのです。他者の救いを求める、そこに主は慈しみをくださいます。
 「手を置いてくださるようにと願った」とは、当時、触れることによって相手の力をいただくと考えたからです。主に触れていただけば、主の力が伝わって癒されると考えたのです。

 ここで「耳が聞こえず舌の回らない人」とは、興味深い記述です。聞いていても人々には分かりませんでしたが、この人は聞こえないのですから、「語られていることすら気付かない人」ということです。また「舌が回らない」とは、悪霊の束縛を受けていることを暗示しております。そういう者に対して、主は、語るという形ではなく、語られていることが分かるように「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」のでした。当時唾液は癒しの力を持つと考えられておりました。ボディアクションによって、主は御言葉を語りかけてくださったのです。このことによって、この人は主の力をいただいて悪霊を追い出し解き放たれました。
 指と唾液の出来事によって、この人は御言葉を聴ける者へと変えられました。主が臨んでくださるのです。主が臨んでくださって、御言葉を聴き取れる者としてくださったのです。
 そして更に、彼は「恵みを語る者」となりました」(35、36節)。ここでは、聴くことと語ることが同時に言われております。

 戻りますが、24節には「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である」と記されております。主は天を仰いで神からの力をいただかれるのです。そして「深く息をつき」とありますが、このため息はどのようなものなのでしょうか。人からため息をつかれると「ああ、仕方ないなあ」と思われていると思うのではないでしょうか。けれども、主イエスの深い息は、悪霊に憑かれて苦しんでいるその人の様子を見て、深く痛んでくださるアクションです。主イエスのため息は、私どもの深い苦しみを見て憐れんでくださるため息です。「ああ、そんなにも苦しいのか」と憐れんでくださり、深く息をつかれるほどに、私どもを受け止めてくださるのです。

 そして「エッファタ」と言われました。それは「開け」という意味です。主イエスに触れていただき、与えられた御言葉「エッファタ」、それはその人の人生を切り開く言葉です。神の言葉を聴ける者とし、語れる者とし、その人生も切り開いてくださる、それが「エッファタ」という言葉なのです。
 そして、そこに主の力が働いて、35節「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」と記されております。主にある救いの喜びに満たされて、この人は語り出します。「舌のもつれが解け」とは、大事なことです。私どもも、真実な救いの御言葉に与るとき、御言葉を恵みとして語る者となるのです。ですから、私どもは、理解できないから語れないということではありません。自分の力では語れないのです。神の力が臨んでくださって初めて語れるのです。

 36節「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた」とあります。このところは、まだ主の十字架の出来事の前ですから、主の御業によって、主イエスを癒す人として人々が理解してしまう危険があったということです。けれども、人々は主からいただいた恵みを語らずにはいられません。人は自分をコントロールすることはできませんので、「ますます言い広め」ました。
 それはイザヤ書35章にまで繋がっております。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる。そこに大路が敷かれる。その道は聖なる道と呼ばれ/汚れた者がその道を通ることはない。主御自身がその民に先立って歩まれ/愚か者がそこに迷い入ることはない。そこに、獅子はおらず/獣が上って来て襲いかかることもない。解き放たれた人々がそこを進み主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて/喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え/嘆きと悲しみは逃げ去る」。

 ここに記されていることは、終末における神の救いの出来事です。
  主と共にある終わりの日の救いの出来事、終わりの日の救いの恵みが、今ここに既に始まっていること、それが今日の箇所を通して示されていることです。

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