2013年7月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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エッファタ | 7月第1主日礼拝 2013年7月7日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第7章31~37節 | |
7章<31節>それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。<32節>人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。<33節>そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。<34節>そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。<35節 >すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。<36節>イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。<37節>そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」 |
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31節「イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」と記されております。ティルスは、前節で異教徒・異邦人の女が娘を癒してほしいと主イエスにすがった場所です。主にすがるより無かった女に、主イエスは御言葉をくださり、娘は癒されました。7章の初めからの出来事の影響を受けて、今日の箇所に繋がっております。 7章の最初で、主イエスは、ファリサイ派の人々の言い伝えを守ることに生きているそのあり方に対して、「神の言葉を無にしている」(13節)と言われました。ファリサイ派の人々は律法を重んじているようで、実は律法を虚しくしていると言われたのです。それから群衆に向かっては「悟りなさい」と言われ、弟子たちには「あなたがたも物わかりが悪い」と言われました。 では、神の言葉は無力なのでしょうか。24節で、主イエスにすがるより無かった女の場合、主が病む娘のところに行かれたわけではありませんが、しかし主の御言葉によって娘は癒されました。 けれども、私どもは、理解できなくても「神の言葉をいただく」ことは出来るのです。私どもは「神の救いの宣言」によって救われます。洗礼に際して聞くことは「あなたの罪は赦された」との宣言です。このことは、洗礼の後、日々の生活の中で実感することなのであって、この宣言によって全てを理解するということではありません。私どもの実感によって洗礼を受けるとすれば、洗礼は虚しいものとなるのです。けれども、洗礼とは、宣言を受けたところで神の救いが臨むということです。 このように、30節までには、神の言葉が救いであることが示されておりました。触れることなく癒しが、救いが起こる。それが前提としてあるのです。 さて、主イエスはティルスを去り、一旦北に上ってシドンへ行き、ガリラヤの奥の異邦人の地デカポリスまで行き、そして漸くガリラヤへ戻られました。地図を見れば分かりますが、まともに考えれば、ガリラヤに戻るためになぜこのような行程になるのかと理解できないところです。けれども、ここで知ってよいことは、主イエスがガリラヤを囲む異邦人の地すべてを回ってくださったということです。 主がガリラヤに戻られると、人々がやって来ました。31節「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った」と記されております。人々は、自分の癒しのためではなく、癒しを必要とする人を連れて来るのです。多くの人が連れて来られる、それは主イエスへと導く人たちがいるということです。主へと導く人々を主は憐れみ、救ってくださるのです。他者の救いを求める、そこに主は慈しみをくださいます。 ここで「耳が聞こえず舌の回らない人」とは、興味深い記述です。聞いていても人々には分かりませんでしたが、この人は聞こえないのですから、「語られていることすら気付かない人」ということです。また「舌が回らない」とは、悪霊の束縛を受けていることを暗示しております。そういう者に対して、主は、語るという形ではなく、語られていることが分かるように「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」のでした。当時唾液は癒しの力を持つと考えられておりました。ボディアクションによって、主は御言葉を語りかけてくださったのです。このことによって、この人は主の力をいただいて悪霊を追い出し解き放たれました。 戻りますが、24節には「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、『エッファタ』と言われた。これは、『開け』という意味である」と記されております。主は天を仰いで神からの力をいただかれるのです。そして「深く息をつき」とありますが、このため息はどのようなものなのでしょうか。人からため息をつかれると「ああ、仕方ないなあ」と思われていると思うのではないでしょうか。けれども、主イエスの深い息は、悪霊に憑かれて苦しんでいるその人の様子を見て、深く痛んでくださるアクションです。主イエスのため息は、私どもの深い苦しみを見て憐れんでくださるため息です。「ああ、そんなにも苦しいのか」と憐れんでくださり、深く息をつかれるほどに、私どもを受け止めてくださるのです。 そして「エッファタ」と言われました。それは「開け」という意味です。主イエスに触れていただき、与えられた御言葉「エッファタ」、それはその人の人生を切り開く言葉です。神の言葉を聴ける者とし、語れる者とし、その人生も切り開いてくださる、それが「エッファタ」という言葉なのです。 36節「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた」とあります。このところは、まだ主の十字架の出来事の前ですから、主の御業によって、主イエスを癒す人として人々が理解してしまう危険があったということです。けれども、人々は主からいただいた恵みを語らずにはいられません。人は自分をコントロールすることはできませんので、「ますます言い広め」ました。 ここに記されていることは、終末における神の救いの出来事です。 |
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