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2013年6月 |
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毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。 *聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。 |
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物わかりの悪い弟子たち | 6月第4主日礼拝 2013年6月23日 |
北 紀吉牧師(文責/聴者) |
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聖書/マルコによる福音書 第7章14~23節 | |
7章<14節>それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。<15節>外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」<16節>聞く耳のある者は聞きなさい。<17節>イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。<18節>イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。<19節>それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」<20節>更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。<21節>中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、<22節>姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、<23節>これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 |
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主イエスは群衆に向かって、14節「わたしの言うことを聞いて悟りなさい」と言われました。15節「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」とは、7章の初めの出来事から繋がる言葉です。 主イエスは「聞いて悟れ」と言われます。律法を守ることではなく、主が語られたことを「聞いて従いなさい」と言っておられます。 なぜユダヤに食物規定があるかと言いますと、イスラエルは神に選ばれた選民であり神の民として清い民ですから、清い民としての自負を持つがゆえのことなのです。本来は、神の恵みに応える事柄であったはずですが、いつしか神の恵みが先立つのではなく自らの行いの方が先立って、これだけのことをしたから神の恵みがあるという罪に陥ったのです。 この食物規定は、後の教会にも影響を及ぼしております。使徒言行録を読みますと、初代教会において使徒ペトロはヤッファで夢を見て、神から「汚れた動物を食べよ」と命じられた時に、「汚れたものを口にしたことがありません」と答えております。異邦人伝道を始めるまで、ペトロは異邦人と食事を共にしたこともなく、ユダヤの食物規定を守っていたのでした。主イエスに従った使徒たちであっても、後々までそうでした。 ここで主イエスが言っておられることは何でしょうか。 こう考えますと、面白いと思います。食物に捕われているのは何もユダヤ人だけではありません。私どもだって、様々に捕われて生きているのではないでしょうか。健康に良いから悪いから、好きだから嫌いだからと捕われていますし、消毒は良くないから有機栽培でなければとか、ユダヤ人のような宗教的な意味ではありませんが、様々に捕われております。作物は有機栽培に越したことはないでしょうが、そうでなければならないことに捕われていれば、それは苦しいことではないでしょうか。もちろん、徹底することに喜びがあれば良いでしょう。けれども、捕われが自分を苦しめているとするならば、主イエスの言葉は、その捕われから私どもを自由にしてくださる言葉なのです。 ここで、ユダヤ人たちは、何でも食べれば清くなるのでしょうか。そうではありません。主がそう言っておられるから「主に聴き従う」ことによって、その人は清いのです。食べるから、あるいは食べないから清いのではありません。「主イエスに聞き従う」こと、そこに私どもの清さがあるのです。 「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と、主イエスは言われます。「中から出て来る」ものとして21節22節に記されておりますが、「中から」という言葉は、ユダヤにはないヘレニズム世界の影響を受けた言葉で、道徳律が入っておりますので、これらの言葉全てを主イエス御自身の言葉とすることはないかと思います。 ですから、ここで弟子たちが主イエスに「物わかりが悪い」と言われていることは幸いなことです。「物わかりが悪い」、だからそこで、神の助けなくして理解できないのです。自分では理解し得ない。自分の理解を超えた示しを頂かなければ、聖霊の導きを頂かなければ駄目だと分かる。自分では理解できない、だから神に聞こうとする。それは幸いなのです。 では、聖霊の導き、示しはどこから与えられるのでしょうか。それは「祈り」によるのです。「礼拝」、「祈りによる交わり」において、神が聖霊として働いてくださることを謙虚に受け止めることが出来るのです。それは頭の理解ではありません。骨身に沁みて分かるという出来事です。主イエスの御言葉に聴き従う、そこでこそ、様々な束縛から解き放たれるのです。 20節「人から出て来るものこそ、人を汚す」と、主は言われます。21節22節と、人から出て来るものが様々に挙げられておりますが、総括しますと、それは「人の欲望が人を汚す」ということです。 預言者エレミヤは「人の思いは、甚だしく悪い」と言いました。ここで知っておくべきことがあります。それは、誰もが悪いと思うことが悪いことだと私どもは思いますが、狡猾なことは、善意としてなすことによる欲望、悪があるということです。人の善意もまた、甚だしい悪であることを知らなければなりません。 善であれ悪であれ、いずれにせよ「これで良い」と自ら思うならば、それは自己義認という罪に陥ってしまうのです。ですから、人は、善意においてすら罪深いということを忘れてはなりません。 善意からも悪意からも解き放たれて、真実に自由に生きる、それは私どもの罪ゆえに十字架におかかりくださった主イエス・キリストの贖い、そうまでして私どもを憐れみ救ってくださる神の恵み、恩寵であることを、感謝をもって覚えたいと思います。 |
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